傷心
相も変わらず怪しげな夜の街にいる。
だいぶ以前、居たことがあるこの街にまた戻ってきた。多分もう自分を知っている人間は居ないから。
一軒の店の前で立ち止まる。今日からここで働こうと思う。若者向けのショットバーのような所だ。夏廉のようなものが働くにはちょうどいい。
カウンターの中でバーテンダーのようなことをして欲しいと言われた。何処へ行っても似たような仕事をしている夏廉には簡単なことだった。それでもちょっと躊躇したのは、こういう所に渦巻く例の嫌な感情に耐えるために自分の意識をコントロールする必要があったからだ。すでに微かな頭痛を感じ始めている夏廉は覚悟を決めた。この場所に慣れてしまえば、ここに流れる意識にも慣れて余り感じなくなる。それまでの辛抱だった。
営業している時間に来るのは初めてだったので、店の感じが知りたくて少し早めに来た。従業員用の裏ではなくわざと表から客の振りをして入る。意外に混んでいた。
若者が気ままに仲間と集まり、話している。何処でも見られる風景。酒と煙草と男女の嬌声と音楽。大人向けの店とは違いかなり賑やかだ。まだそんなに遅い時間ではないのに。早い時間から若者が集まっていた。
今日は仕事の説明程度だと言われた、約束の時間はもっと深夜だったがカウンターに向かう。薄暗い店も、カウンターの周りはさすがに明るい。近付いて夏廉はそこにとんでもないものを見つけた。
「何でオマエが居るんだよ!」
今朝、部屋を出たきり戻っては来ない同居人を、不審には思ったがまさかこんな所で見つけるとは……
「なにヤッてんだ、おまえっ……」
夏廉が働くはずのカウンターの中にはすでにバーテンダーよろしく、彼が働いている。元はエリートサラリーマンだったはずの彼は、なぜかその姿がよく似合っていた。
「なんだ、来るの早いじゃん」
何事も無いような澄ました顔で言う。相変わらず、とぼけたヤツだ。コイツの頭ン中はどうなってるんだ。今朝、目の前のとぼけた男の頭ン中を読んでおかなかったことを後悔する。
「なんのつもりだ!」
かなり機嫌が悪いと判る夏廉の低い声にも動じる様子はない。
「おまえ、本当に俺の中覗いてないんだねぇ……」
嬉しそうなその顔を殴ってやろうかと上半身を伸ばしたとき
「ちょっとすいません」
彼は店の人間に声を掛けると夏廉を裏口に誘う。夏廉は黙って後に続いた。 店の外へ出て煙草を出したその背中に怒りをぶつける。
「冬耶、何のつもりだって言ってるだろ!」
「お前の代わりに俺が働く」
「俺が見つけた仕事だぞ、なに勝手なこと言ってる」
「お前は……やめた方がいいよ。こんな所に毎日来たらまた……」
「余計なお世話だ」
「余計じゃないだろ、俺は―――」
「テメーが勝手に俺についてきたんだ、俺の邪魔するんじゃねぇー!」
「とにかく、ここの仕事はもう俺に替わって貰ったんだから……帰ったらゆっくり説明するよ。仕事中だからさ。俺戻るから、お前ももう帰れ」
なに勝手なことを……と夏廉が思ったとき、冬耶は自分がくわえていた煙草を夏廉の唇に挟むと店の中に消えていった。
もう店に戻る気力のなくなった夏廉は、冬耶が残した煙草をくわえたまま夜の中を引き返した。あとでおぼえてろよ! ちょっと物騒な考えを胸に、仕方なく冬耶と二人で暮らす部屋へと戻った。
部屋から閉め出してやろうかとか、ドアを開けたら飛びかかって殴ってやろうかとか、いろんな事を考えて冬耶を待っていた夏廉だったが、深夜をとっくに過ぎても帰らない相手を待つうちに微睡んでしまった。
店に入るときに身構えて緊張していたせいで疲れたらしい。自分の体がフワリと浮き上がる感覚で、眠い意識が呼び戻される。
「いいよ、眠ってて……」
聞き慣れたその声に安心して再び眠ろうとした体がベッドに下ろされたとたん、現実を思い出す。
「テメ―――ッ」
冬耶のシャツの襟を掴んで引き寄せる。だが、冬耶はそんなことは百も承知だったらしい。そのまま夏廉の上に倒れてのしかかる。
「重いだろっ!」
「夏廉が引っ張ったんだろ?」
「いい加減にしろ……」
語尾が弱々しいものになっていた。目の前の男に出会ってから、夏廉は夏廉でなくなっている。彼には夏廉の冷静さも怒りも独りよがりも通じない。どんなに横暴に振る舞っても、彼の前では意味がないことを夏廉は本当は判っている。それが腹ただしい。
夏廉が何か言う前に冬耶の唇が言葉を塞いだ。冬耶のキスは優しい。冬耶の気持ちそのままに、夏廉を包んでくれる。そんな冬耶を夏廉は拒めない。
「やめとけよ、あんな所で働くと……また良くないよ」
冬耶の心が、微かに怯えたのが伝わる。初めて会ったときのことが離れないのだ。理由を知らなかったあの時とは違う。
そのわけを知った今では、夏廉以上にいろんな事に怯えている冬耶が居た。 夏廉のために、悲しんでいる冬耶。冬耶は夏廉を失うことを恐れている。夏廉が傷つくことも。多分、出来ることなら片時も自分から離したくはないのだ。
ベッドの上で夏廉を抱きしめる腕が、微かに震えていた。そんな相手を感じ、夏廉はもう怒る気もなくなっていた。
そんな冬耶を見たくないから、黙ってあのとき夏廉は逃げ出した。でも冬耶は全てを捨てて追いかけてきた。
本当は、何処へ行っても冬耶が探し当てるような気がしていた。夏廉は結局逃げたのとは違うのかも知れない。心のどこかで冬耶が追ってくることを望んでいた……というよりは知っていたような気がする。
冬耶は予感通り難なく夏廉を見つけだし、その手を取ってこの街に来た。その時の溢れる想いを夏廉は忘れることが出来ない。冬耶の顔を見たとたんに、自分が泣くのではないかと思った。何故こんなに懐かしく、胸が締め付けられるのか。なぜあの腕から離れようなどと思ったのか。
あのとき抱きしめられて、冬耶の思いを直に感じた時は今度こそ涙を止められなかった。冬耶は無言だった。なぜなら何も言わなくても全てを夏廉に感じさせる方法をその時の冬耶はもう知っていたから――――――
頭のいいヤツだよな……夏廉は苦笑する。
言葉は時に人を誤解させる。だが心は正直だ。だから冬耶は肝心なときは何も言わない。自分の心をそのまま夏廉にぶつけてくる。彼は自分の心を夏廉に晒すことを恐れなかった。そんな冬耶の前では夏廉に勝ち目はない。怯えている冬耶の背中に夏廉は腕を回した。
「許す……」
「ごめんな」
何がごめんなんだか、冬耶の声は涙声だった。もう窓の外が明るく変化し始めたこの時間に、二人は抱きあったまま眠った。
数時間後、喉の渇きに水を飲みにキッチンにいた夏廉は冬耶の起きた気配にベッドを覗く。
「どうした?」
呆けたようにベッドの上に座り込んでいる冬耶に声を掛けると、ホッとしたような笑顔を向ける。
「よかった……」
その意味を理解した夏廉は冬耶に近づきその頭を胸に抱き込んだ。
「もう黙っていなくなったりしないから、大丈夫だよ」
黙っていなくなったあの日のことは冬耶の心にトラウマを創ってしまったようで、冬耶は時々夏廉の姿を探して飛び起きることがある。
夢でも見るらしい。でも冬耶は何も言わない、ただじっと夏廉の側にいるだけだ。夏廉は生まれて初めて、こんなに自分を必要としてくれる人間に出会った。それだけで充分だった。
「腹減った」
夏廉の言葉に冬耶は自分を取り戻す。
「メシだな」
いつもの冬耶の笑顔になると、キッチンへ向かった。
その後ろ姿に
「し・あ・わ・せ」と声に出して夏廉は呟いてみた。