逃亡
結局は冬耶の熱意に負けて夏廉はそのまま冬耶の部屋の住人になった。とりあえずは何も変わらない暮らしが続く。
夏廉の体調もまあまあで、なんのトラブルもなく、冬耶もいつも通りに仕事へ行き、帰る生活。夏廉が待っている部屋に帰ることは、冬耶にとっても初めて経験する楽しさだった。誰かと寄り添えるというのはこんなにも幸せなことなのかとお互いが感じていた。
「言っておくけど、俺は男が好きなわけじゃないからな」
夏廉の不機嫌そうな声に冬耶が笑う。
「俺だってそうだよ、悪いけどコレでも結構モテるんだぜ」
わかってるよ、と夏廉は心で呟く。なのに、なんでこんなに自分に執着するのか夏廉には冬耶の気持ちが分からない。人の心が読めるのに、理解不能と言うのも初めての経験だった。
ある日、冬耶が帰宅すると夏廉の姿がなかった。夏廉が今まで外へ出なかったわけではないが、体調のこともあって今は仕事もしていない彼が出掛ける先なんてそんなにはないはずだった。
夜中になっても帰らない夏廉をさすがに冬耶は心配した。また何処かで具合が悪くて倒れたのかも知れない。いつかみたいに変な男に絡まれたりしてたら……考えているうちに気が変になりそうになってきた。
そうは思っても、夏廉が何処で何をしているのか冬耶は知らない。冬耶と出会う前に、具体的にどんな暮らしをしていたのか全く知らないのだ。
冬耶は突然気づいた。もしこのまま夏廉が戻らなくても、冬耶にはどうすることもできない。夏廉という人間を全然知らないのだ。それでも探そうと玄関に向かったとき、いきなりドアが開いた。
「かれん……」
帰ってきた彼を見て安心して、そして絶句した。玄関に座り込んだ夏廉は傷だらけだった。
「なにやってんだ?おまえ―――」
「あぁ?!」
「なにやったんだよっ!」
さすがに責める口調になった。
「ちょっとな……」
「けんか?」
「まぁ、そうだな」
呆れてそれでも夏廉を抱え込んで中まで運んだ。
「なにやった?」
もう一度、今度はなるべく冷静な声で聞いた。
「ちょっとな」
同じ答えに
「それはさっき聞いた」
「うるさいよ」
夏廉が小さな声で言う。
「何で言わない」
冬耶も後に引かなかった。
「仕事」
その答えに冬耶も切れた。
「なにが仕事だ、いい加減にしろよ。何やってたかちゃんと話せ!」
大きな声を出した冬耶に、冷たい瞳を返しながら夏廉が言った。
「俺はお前に飼われてるペットじゃない」
「なに?」
「お前に住まわせて貰って、食べさせて貰って、お前の帰りをおとなしく待ってろって言うのか?留守の間のことまでいちいちお前に何でも報告しなくちゃいけないのかよ」
冬耶はあ然とした。
「お前は俺とのことをそんな風に思ってたの?」
ショックを隠しきれない冬耶にさすがに夏廉は言いすぎたと思った。
「別にどうでもいいんだけどな、それならそれでも。だけどたまには俺だって外へくらい行くさ」
「ちょっと待てよ、誰がそんなこと。俺はおまえのことそんなふうに……」
―――思ってない、と言う最後の言葉は飲み込んだ。悲しくなって泣けてきそうだった。
「ごめん、わかってるよ。お前がそんなこと思ってないのは、俺にはわかるんだから、ごめんな」
夏廉も言いすぎだとわかっていた。ただ冬耶の世話焼きが少し煩わしかったのだ。
冬耶の頬に手を当てる、俯いた冬耶の首を引き寄せて唇を合わせた。冬耶の悲しみが静かに流れ込んでくる。夏廉がそれを感じて同じように悲しそうな顔をすると、冬耶は夏廉を思い切り引き寄せて身体を重ねた。
淋しかった。
いつまでも夏廉のことがわからない自分が淋しくて悲しかった。その気持ちを出来れば誤魔化したかった。
そんな気持ちのまま身体を重ねると、夏廉の中に悲しい思いが流れてしまう。冬耶に抱かれるとき、夏廉は心の鍵を外す。冬耶に包まれていれば他人の感情が入り込まないからだ。
心を解放して尚かつ雑音に悩ませられないのはとても気持ちのいいものらしい。そして心がその間だけ安まるのだとも。冬耶のことをそれくらい信頼してくれていた。
だがその間は冬耶の感情をもろに被ることになる。相手を好きな気持ちや愛おしい気持ち、暖かい気持ち、身体で感じる快感も全て流れ込む。それは夏廉自身の気持ちも重なって、増幅されているような状態だと言っていた。
だからこんな時は、冬耶が感じている哀しみもそのまま無防備な夏廉の中へ流れ込んでしまう筈だった。
「かれ……ん、ごめん」
そのまま受けとめてしまった夏廉は感情に流されて泣いていた。夏廉にはコントロールできない。
「いいよ、俺が悪いんだ」
夏廉が顔をそむけたのは、自分自身が泣いていることに気づかないで夏廉を気遣う冬耶を見るのが辛かったからだ。
ひとつのベッドで寄り添いながら夏廉は冬耶に告げる。さっきの諍いはすでに過去のことで穏やかな時間になっていた。
「なぁ……いったろ? 俺と居るとまともな生活は出来ないって。今日はちょっとヤバイ仕事をした。まぁ、賭博だな。ずるい話だがちゃんと仕事が出来ないときは仕方ないさ。どうせろくな事してないヤツらから取り上げるんだ。だけどその後でちょっとな。トラブルになっちまった。でも今までそうやってきたから俺にとっては何でもない、これが普通なんだよ」
「心配だったんだよ」
「わかってるよ」
冬耶の心の不安が伝わってくる。夏廉には当然わかっていた。
「でもそんなことを言っていたら、一緒には居られない」
「俺が働いてる、だから……」
「だから?」
冬耶は黙った。
「さっきと同じ事を言わせるのか?」
夏廉は冬耶の背に手を回して言った。
「やっぱり無理じゃないか?」
冬耶は無言で首を振った。声を出す代わりに夏廉を思い切り抱きしめた。
「それになぁ……」
夏廉はそんな冬耶に話して聞かせた。
自分の母親のこと。もしかしたら同じ能力があったかも知れない。そして、若くして死んでしまったこと。多分自分も同じ事になる、最近頻繁に起こる頭痛や吐き気も無関係ではないだろう。この先自分がどうなるのか、夏廉自身にもわからない。
「冬耶……俺にもわからないことなんだよ」
「ダメだ! 夏廉と一緒に居る」
「わかったよ」
負けて呟く夏廉に冬耶は安心する。
だが夏廉は考えていた。やはり無理だろうな。まさか一生冬耶の部屋から出ないわけには行かない。自分だって外へ出て、金を稼いだり生活したりする。
そうすれば、やはり今までと同じだ。何かしらのトラブルと出会う、今に冬耶にも迷惑がかかるだろう。今日も最初はちゃんとした仕事を見つけようとして、街の中でいつかの男達と出会ってしまった。顔色を変えて逃げた男達を見て、ここにはもう、そう長くは居られないと思った。
噂が広まるかも知れない、夏廉の容姿はどこでも結構目立ったし、夜の街ではかなりの人間が知っている。
もう昼間も危険かも知れなかった。ここを出るときのために、手っ取り早く金を手に入れることにした。ポーカーとかのゲームなら夏廉の能力を使えば、簡単に勝てる。だが今日は少し焦りすぎて、相手とトラブルになってしまった。
それに――――――今までのことがある。
冬耶はわかっているのだろうか?夏廉はけしてきれいな人間じゃない。幼い頃からほとんど一人で生きてきたのだ。
盗みも恐喝も売春だって、男も女も選ばずにやってきた。それも子供と呼べるような年齢からだ。せめて人を殺してないことくらいだろうか?今までにやってないことと言えば。
ぎりぎり、痛めつけたことはあるが。人間なんてみんな汚い。それが夏廉の考えだった。だから誰を踏みつけても平気だったのだ。冬耶に会うまでは。
さて─────
夏廉の言葉に安心したのだろう。自分を抱え込んだまま眠っている男の顔を夏廉は見る。コイツにどうやって話そう。
この街を出なければならない、何処へ行くかまだ決めてはいないが、もしかしたら冬耶も仕事を失うかも知れない。
「それでもいいって言うんだろう?」
夏廉は冬耶の髪に指を入れた。すごく好きだと思う。出会った偶然に感謝する。あんなに荒れていた生活がこんなに落ち着いて。それはみんな冬耶がくれたものだ。何処へ行っても二人ならこんな生活が出来るんだろうか?
「離れたくない」
それは冬耶だけではなく夏廉の気持ちでもあった。だが、今までの自分の暮らし方を思えば冬耶には無理だと思う。ただ毎日をムダに過ごしてきたと思ってる冬耶には、それでも平和な日々だったはずだ。
夏廉と一緒に居れば、いつも人目を気にして住まいも仕事も、長く続けることは出来ない。お金がなければ、今日のようなこともする。いままで自分とは別の世界にいた人間だ。
最低の人間には最低の暮らしがある。夏廉はどうあっても世間の常識の中で暮らせる人間ではない。陽の当たるような場所には住むことは出来ないのだ。
冬耶の築いてきたものが夏廉といたら全てだめになってしまう。あとで戻りたくてももう戻れないかも知れないのだ。果たして冬耶に今からそんな生活が受け入れられるだろうか?冬耶が良くてもおそらく夏廉はそんな冬耶を見ていられないだろう。
「多分無理だよ、俺オマエと喧嘩するの嫌だし……」
眠っている冬耶に向かって呟いた。おそらくどこまで行っても平行線のままなのだ。冬耶と夏廉の生き方が重なることはない。
「答えはひとつだな」
夏廉は冬耶の寝顔に呟いた。
冬耶が目覚めると夏廉がベッドにいなかった。まだそんなに冷たくはないベッドは、そこにさっきまで人がいたことを物語る。
自分の腕から出て何処へ行ったのか。そんなに広くはない部屋を探したが何処にも居ない。また仕事とやらに行ったのか?
しばし考えた冬耶は何かに思いついた。探すとやはり無い、夏廉の僅かばかりの着替えが無くなっていた。夏廉はほとんど身ひとつで来たから、持ち物はほとんどなかった。
冬耶が何かを感じている時間はなかった。怒るも泣くもそんなことをしている暇はない。冬耶の身体はほとんど無意識に動いていた。自分も着替えだけをカバンに入れる。あとはお金だけを持つと部屋を見回した。
もうここへは戻らない、夏廉が居なくなった部屋は必要なかった。みんないらない、夏廉がここにいないなら何も意味がない。生きてることさえも。
彼がいなければもう呼吸することすら出来なかった。冬耶はそのまま部屋を飛び出した。
夏廉の行き先なんて見当も付かない、右?左? いや、考えなくていい。身体が自然に向かうに任せた。
会える自信があった。
きっと見つける。
それは確信があった、夏廉が呼び寄せるのだ。
本人が意識していなくても夏廉のテレパスとしての力が自分を呼ぶ。
冬耶は感じていた。そう遠くないところに夏廉の優しい感情を……
呆れた顔の夏廉に自分は何回でも告げる。
―――your calling for me?
goes at once―――
ねぇ……呼んだよね?
第一部 完