絡まる想い
雨音が聞こえる─────
目を開けるよりも先に雨音が聞こえた。雨の音がこんなに静かな音だなんて、今まで気づかなかった。
なんでこんなに静かなんだろう。意識が現実と夢の間を行ったり来たりする。夏廉の生活の中でこんなに静かな空間は夢の中にしか存在しなかったのに。
温かい手を感じる。夏廉の手を握って、額に触れる。それは本来許してはならない行為。誰かに無防備に触らせるなんて。やけどをするようなものなのに。
でもこの手は違う。今まで出会ったこともないほど、純粋で暖かい。夏廉が気持ちよくなるものを持っている。危険なんて欠片もない。ただただ、安心できる温もり……
小さな頃母親の腕の中でだけ感じた様なその温もりに包まれたまま夏廉はゆっくりと意識を呼び戻す。
現実は消えてはくれないから。この手がどんなに心地よくても、その危険は離れない。冬耶のことが大切ならなおのこと─────
その冬耶が心配そうに見つめていた。
触れられた手も額も嫌悪感はない。相変わらず静かな部屋だった。それが冬耶の何かの力なのだと夏廉ははっきりと感じていた。
心配そうな冬耶の顔を見つめたまま夏廉は決心する。無かったことには出来ない。それならばはっきりさせなければいけない。
冬耶が大事ならば危険は避けなければいけなかった。それで何もかもが終わるとしても……
夏廉は覚悟を決めた。
「さっき俺が言ったこと聞いてた?」
夏廉はまだ吐き気が残る頭を起こしてベッドに座った。夏廉の言葉に珍しく冬耶が視線を外した。
「お・れ・も・オマエが欲しい、って言ったの」
その言葉の意味に気づいたのか、冬耶が視線をあげる。夏廉は前と同じように冬耶の胸に自分の手を当てた。
「おれさ、わかるんだよ。オマエの考えてること。オマエだけじゃなくて他人の考えてることが……意味わかる?信じるか?」
冬耶の複雑な感情が流れ込んでくる。とまどいも一緒に。
「おれは、たとえばオマエが今、心に浮かべたことを言葉にすることが出来る。何を考えてるかわかる……」
話の意味を理解したのか、冬耶が顔を赤くして俯いた。
「それって最初から?……」
わかっていることを確認するように言う冬耶に、冷たいくらいハッキリと告げた。
「そうだ」
僅かに体を離して自分の胸にある夏廉の手から逃れるようにした冬耶に夏廉はやはり、と思いながら絶望した。
「離れてもムダだよ、手なんか当てなくてもわかるさ、同じ部屋に居るんだ、外の気配だって分かるんだから」
さすがに冬耶の顔色が変わった。
「ずっと、ずっとか?一緒に居る間ずっと?」
声が掠れていた。
夏廉は頷いた。
「子供の頃からだからな、当然お前と会ったときからだ」
冬耶が自分の顔を手で覆った。
「ぜんぶ見られてたんだ……」
「そうだ」
言い訳はしなかった、事実しか言わない。
そう決めた。
見られてた―――そう、まさにそう言う表現なんだろう。
覗き見と一緒だ。
夏廉自身が望んでないとはいえ、された本人にとっては勝手に覗かれていたのだから。弁解はしない。
冬耶はじっと何かを考え込んでいた。夏廉はそんな冬耶を不思議に思う。
「おまえ、落ち着いてるな。普通はそんなに落ち着いてられないもんだぜ?」
「落ち着いてないよ。 どうしていいかわからないだけだ」
「なぜ?、怒ればいいだろ?それとも気持ち悪いって言うか?」
「そんな風に言われたのか?……誰かに」
「オマエは本当におめでたいヤツだな。さすがにこんなこと話したのはオマエだけだけど、気づくヤツもいたんだよ、変だって。みんな顔色変えるぜ?たいがいは逃げ出すな」
「逃げ出す?」
「当たり前だろ?自分の気持ち読みとられて平気なヤツが居る分けないだろ。ほら、お前と会った晩に俺を囲んでたやつ。アイツの耳元で本人しか知らないこと言ってやったら腰抜かしそうにしてただろ?誰だって知られたくないことはあるんだ。だが俺と居たら……」
夏廉は冬耶を見た。
「なんでもわかっちゃうんだ」
「まあな」
「じゃ―――」
冬耶は消えそうな声で言った。
「俺の気持ちも?」
そこで思い当たったように
「だから、出ていったのか?」
今更隠しも出来ず夏廉は頷いた。
「ごめん……」
冬耶の言葉に
「何でオマエが謝るんだよ、謝るんじゃなくて怒るんだろ?ふつーは!」
半ば、夏廉は呆れた。人がいいにも程がある。
「オマエは嫌じゃないのか?俺に覗かれて」
「いいわけないよ、恥ずかしいに決まってンだろ!でも何で怒るんだよ。ただ悪かったと思ってる。おまえは男なのに……おれは……」
冬耶は口ごもる。自分の感情に嘘はないから、知られても構わない。けれど、夏廉はなんと思っただろう。その事で自分が拒絶されたのだったら?冬耶はいたたまれなくなる。
「そんなことはどうでも良いんだよ。おまえなんかましな方だぜ。俺を裸にむくくらい誰でも平気でするんだから。おまえの気持ちなんて可愛いもんさ」
「でもさ」
「そうじゃなくてさ、俺がおまえの気持ちを読んだことに怒らないのかって言ってンだよ」
「オマエは興味半分で覗いたの?それで俺の気持ちを笑ってたの?それなら……」
「そうじゃない、でも事実だから……」
夏廉は冬耶にもっと違う反応をされると思った。
今まで出会った人間のように、もっと激しく拒絶されると思ったのだ。それも仕方ないと思った。これ以上冬耶が自分と関わるといつかきっと変なことに巻き込まれる。今のうちに嫌ってくれた方が都合が良かった。
なのに、冬耶の反応は夏廉が思っていたのと違っていた。
「だけど俺は―――いま死ぬほど恥ずかしい」
暫し黙り込んでいた冬耶が呟いた。いつもの陽気な冬耶らしくない言葉だった。夏廉を好きなのは本当だ。でもきっと好きという気持ち以外にもっと浅ましいものを見られた気がする。
見られた?
知られた。
夏廉に?
自分の醜いものを見られた。それは絶えられない羞恥だった。軽蔑される。冬耶の瞳から何かが零れた。もう取り返しは付かない。否定もできない。
「ごめん、ごめんな……」
冬耶の涙を見て夏廉は動揺した。
今ほど自分が悪いことをしていると思ったことはなかった。自分の力を悲しく思ったこともなかった。なのに俯いたとたんに膝に涙がこぼれた。泣いた事なんて無かったのに。誰の何を『見よう』と後悔なんてしたことはなかった。
ふいに、夏廉の髪の隙間から指を入れようとした冬耶が一瞬手を引いた。それに気づいて夏廉が苦笑する。誰も事実に気づけば自分に触れるどころか近づくことさえしなくなる。
幼い頃から充分にわかっていた。だからこそ、夏廉は一人で生きてきたし、この先も誰かと寄り添うことはない。
けれどその時、冬耶がいきなり夏廉の頭を胸に抱きしめた。
「おい――― 」
「どうせもう、わかっちゃったんだろう?もういいよ。笑ってくれていいから。変なヤツだって。俺のこと気持ち悪い?男なのにオマエのこと好きになって……」
「それは俺のセリフだろ?」
「なんで?」
「みんな気持ち悪がるんだよ、誰も俺には近付かない」
夏廉はいまいち反応の鈍い冬耶に話して聞かせた。 自分がどうやって生きてきたか、周りからどんな目で見られてきたか。そんなことを誰かに話すのは初めてだった。
「なぁ、夏廉も俺のことが好き?それは本当?」
「あぁ……初めてだな。誰かのことがこんなに気になったのは」
「よかった!それならよかった」
「オイ、良くないだろ?そう言う問題じゃなくてさ」
「夏廉も俺のことあんまり知らないだろう。俺は今まで誰のことも無関心で何も興味を持たずに生きてきた。大切なものもないし、欲しいものもない。生きてることが楽しいなんて思いもしなかった。明日の目的もないし、今死のうが生きていようがどっちだっていいんだ。自分がなぜ生きてるのかもわからない。何をやっても楽しくないし、だからといって悲しいわけでもない。ただ生活するために周りと調子を合わせているだけの毎日だよ。なのにオマエに出会ったときからオマエが気になって、一緒に居たくて。何でこんなに引きつけられるのかわからなかった。でも離れたくないんだ」
冬耶の一見無防備に見えたその心は、実は空っぽだったということだ。冬耶の心には本当に何も存在しなかったということだ。なにも執着せず、望まず、それは虚しさの裏返しだった。冬耶の心は凍えて荒涼としていたから文字通り何もなかったのだ。
「俺、夏廉と離れたくない」
冬耶が自分に抱きついてきた重みに負けて倒れると、そのまま唇が重なった。 じっと見つめる夏廉に向かって
「ねぇ、もう一度言って?」
その意味が分かると、夏廉は尋ねた。
「オマエ怖くないの? 大丈夫なの?」
「夏廉が俺と同じ気持ちなら問題ないよ」
その言葉を聞いたとたんに、冬耶の言葉通りの気持ちが流れ込んできた。その暖かさはとても心地よかった。
「俺もオマエが欲しいよ」
その言葉に安心したように冬耶は微笑んだ。雨の音だけが聞こえる部屋の中、ふたつの身体が重なった。
自分を愛してくれる人間に包まれることはこんなに暖かいものなのだろうか? 冬耶に抱かれているときに夏廉を襲う感情の波は激しくて優しかった。
自分の意識と、冬耶の意識とどちらかわからないほどの洪水に夏廉は最初は戸惑ったが、素直にその波にさらわれた。冬耶の暖かさは母に幼い頃抱かれたきりだった夏廉の心を優しく包んだ。
「おまえなぁ……」
いつまでも自分のことを離そうとしない冬耶に向かって夏廉はさすがに面倒そうな声を上げた。
「オレ絶対お前を離さない、なぁいっしょに居よう?」
冬耶は真剣だった。こんなにも誰かに執着したことはなかった。家族も友達も恋人らしき相手が居たこともあるが本当の意味で欲しいと思ったことはない。夏廉に感じたくらいのものを感じたことはなかった。
「オレ……毎日がどうでも良かったんだよ。でもお前に会ってからは違った。
お前がここへ来てくれる日は嬉しくて、居ない日は来てくれるのを楽しみにしてたんだ。お前のことしか考えてなかった」
冬耶は夏廉を背中から抱きしめてその体を離さなかった。
「オレが嘘を言ってないってわかるんだよな?」
「あぁ」
「なぁ一緒に―――」
「それはダメじゃないか?」
夏廉は唐突に遮った。
「なぜ?」
「考えて見ろ?お前はオレに隠し事できないんだぞ?」
「隠すことなんか無い」
「―――っとに。 いいときばっかりじゃないんだよ」
「やだっ!」
「ガキじゃねーんだから……」
何だか夏廉は可笑しかった。笑った自分に驚く。自分が笑えることに驚いた。だが――――――
「オレは、これのせいでひとつの所には居られないんだ、仕事もまともには出来ない。オレと一緒に居たらまともな生活が出来なくなっちまうんだよ。当然社会からはみ出すし、周りからも変な目で見られる。たまには生きてく為にヤバイ事もしてるんだ、お前が考えるほど簡単じゃないんだよ」
「一緒に行く、お前がどっかに行くならオレも一緒に行く」
「だからな……」
こいつはバカか?と呆れながら冬耶の方に向き合った夏廉はそこに言葉以上に真剣な冬耶の瞳を見た。思わず見つめたまま息を呑んだ。冬耶はそんな夏廉を抱き寄せていった。
「だって、わかるんだろう?オレが何を思ってるか。何を言ったってムダだよ」
「おれなぁ……」
小さい声で夏廉が言う。
「なに?」
「お前のことはあんまり覗かないようにしてるんだ……」
意外な返事に冬耶は驚いた。
「そんなことできるの?」
「完全じゃないけど……何から何まで入ってくるとそれに影響されて気分が悪くなるんだ。だから多少はコントロールできる」
「おまえが具合が悪いのはそのせいなのか?」
夏廉は例の皮肉っぽい笑顔を浮かべた。
「人の意識が入ってきても気分が悪くなるし。それを押さえても神経が疲れて結局……同じなんだけどな」
冬耶の腕に力がこもった。
「どうにかしてやりたい」
「慣れてるよ……でも不思議なことがあるんだ」
夏廉は冬耶に話した。冬耶の側にいるとなぜか、意識の洪水が少ないことを。昔読んだ、あの記事の話もしてやった。
「おまえまさか、そういう能力なんて無いよな」
ずっと疑問に思っていたことを言葉にして冬耶に尋ねる。
「おれ? あるわけないじゃん」
あっさり返されて、夏廉は溜息をつく。そうだろう当たり前だ。そんなに都合良くそんな力があるわけがない。
「でもそれだったらほら、やっぱり一緒に居た方がいいんだよ。オレはそのために居るんだ」
またバカなことを……と夏廉は呆れた。
「本当にわかってるのか?」
「オレは平気」
夏廉は信じていなかった。
ただ冬耶が本当にそう思っていることが夏廉にはわかってしまう以上、成り行きに任せてもいいかと思った。ダメになるときは来る、その時は離れて行くだけだ。
それに―――夏廉は何処かに予感があった。きっと自分は長生きはしない。 自分の未来なんて無いようなものだった。その少しの時間を、この妙に真っ直ぐな瞳をもつ男と居てもいいかもしれない。
「じゃいいよ」
「ほんと?ほんとうにいいのか?」
さんざん譲らなかったくせに、何回も確認する。本当におかしな男だ。
「お前カッコイイから側にいてもいいかなって」
ちょっと冗談ぽく言ったら、図に乗って言う。
「夏廉ってすっげー可愛い」
「可愛いとかゆーな」
呆れて相手なんかしてられないと思う。そんなに単純な事じゃないのにと思いながら、それでも冬耶の笑顔に救われている自分が居た。