彷徨う運命
目醒めた見知らぬ部屋は冬耶の部屋だった。
頭痛と吐き気はだいぶ収まっていた。 ゆっくりと記憶が戻る。
「大丈夫か?」
冬耶が覗き込む。
「あぁ……悪かったな」
ベッドに寝かされていた。まだ夜は明けていないが真夜中のこの時間にベッドを占領してしまった。起きあがろうとしたが、
「まだ寝てた方がいいぞ、俺なら下で寝るからいいよ」
冬耶はベッドの下の床を指さす。思わず苦笑すると、
「れ……ん?」
不思議そうな表情で返された。
「俺と一緒にいて、床で寝るなんて言ったヤツは初めてだ」
「ん?」
「俺の名はレンじゃないよ」
「だってさっき……」
「レンは通り名だ。めんどくせーから。それに……」
「なんだ。じゃ本名は?」
無言で返す瞳に冬耶は言った。
「俺のベッドを提供してるのに名前も教えてくれないのかよ」
「じゃ、出ていく」
冗談で言った言葉に、本当に出ていく素振りでベッドを降りようとする目の前の病人に慌てて冬耶が遮る。
「冗談だよ。いいよ、言いたくないなら。レンて呼べば問題ないんだろ?」
馬鹿正直に慌てる冬耶に向かって呟く声。
「……れ・ん……」
「え?」
問い返した冬耶に目を合わせずに小さな声が答える。
「か・れ・ん」
「か・れん?」
思わずオウム替えしに聞いてしまった冬耶に吐き捨てるように言う。
「夏廉て言うんだよ」
「夏廉……かぁ。へぇーいい名前だなぁ。珍しいけど」
「なにがいい名前だよ、こんな女みたいな名前」
再び吐き捨てるように答えた声に
「なんで?いいよ。俺好きだけど?似合ってる気がするけどだめなの?」
馬鹿正直な目で正面からそう言われてしまっては返す言葉もない。
「だめって言うか。嫌いなんだよ。女みたいな名前も顔も」
「何でだよ、もったいないっ! 俺は大好きなのに」
思わず叫んだ冬耶もヤバイと思ったが、聞いた夏廉の方も一瞬にして険しい表情になった。
「ぁ、いやそうじゃなくて」
「じゃあなんだよ」
「あーもう。 だからさ、誤解するなよ。単純に名前も好きだし、お前のその顔も嫌いじゃないって言ったんだよ。聞き流せばいいのにさ恥ずかしいじゃないか」
その言葉を聞いてなぜか夏廉は赤くなった。
「悪かった」
「だからもう言いじゃん。そんなことよりもう少し寝てろよ。それともなんか食うか?」
夏廉は黙って首を振った。
「じゃ、寝るか?もう遅いし」
「でも……」
「泊まってくだろ?こんな夜中に帰すわけに行かないよ。明日また話そうよ」
そう言うと冬耶はさっさと電気を消し、夏廉のいるベッドの下で毛布にくるまる。
「おやすみ」
そう言うと間もなく寝息を立て始めた。
(変なヤツ)
夏廉は逆に目がさえてしまった。店で出会ったときから人好きのする顔で近づいて来てずっと話しかけていた。
夏廉が相手にしなくてもずっと話し続けて、多分相手をして欲しかったのだと思うが夏廉は無視し続けた。
客ならともかくそうじゃない相手には時間をかける趣味はない。必要以上に他人と関わるとろくな事にはならない。だから余り他人と関わりたくない夏廉がそこを離れようとしたとき、それは突然やってきた。
うっかり冬耶の方に神経が集中して、無防備になったのだろうか?最近こういうことが頻繁に起こる。よほど注意をしていないと防ぎきれないことがよくあった。
何かが自分の中で変わってきたのかも知れない。自分も知らない未知のこと。ましてや他人にはわかるはずもない。
あの時、油断していた分だけ激しい勢いで襲われ、波に呑まれたようになって蹲った。まるで頭を殴られて襲われたように いきなりMAXの状態でショックが襲った。
けれど痛みの方は外部から加えられたものとは違う。頭の内側から来る痛み。それは脳の中を無数の針で刺されたようでもあるし、ナイフで抉り、かき回されたようでもある。
頭が割れそうな感覚にも思えることもあった。激しい頭痛とそれに伴う吐き気。それも半端な症状じゃなく。まるで大音響の洪水にでも呑まれたようで、耳を塞いでも脳を刺激してやまない。
襲ってくるのは声なのか、感情なのか?あの苦しさは言葉では説明できない。もっとも説明をする気もないし、したところで理解されるとは思わない。
だから自分の近くには仕事の時以外、他の人間を置かない。それが夏廉の生き方だったが……
この男は何だろう?
行きがかりとはいえ、こんなところで並んで寝ている姿が滑稽に思える。自分のような素性の知れない人間を連れ込んで大丈夫だと思っているのだろうか?
(泥棒だったらどうするんだよ)
すっかり寝込んでいる姿を薄闇の中で捕らえて思う。このまま盗んで消えることなど夏廉にとっては簡単なことだった。
(馬鹿じゃん、こいつ……)
でも、と思う。
冬耶は医者を呼ばないでくれという夏廉の願いを聞いてくれた。病院から抜け出すのは簡単だが、あの状態で面倒になるのが免れたのは確かに助かった。
そのまま捨てて置いても良かったのに、自分の家までご丁寧に運んでくれたのだ。少なくともその行為に感謝はするべきだろう。もしもお礼をしなくちゃいけないときは……
(ま、それはそれで仕方ないさ)
それくらいは、と思ったところで夏廉は思い出した。
最初にあったときに試しに「探った」ことを。あぁまで感じないのは?確か昨日もだった。
「もしかして」
まさかな?そんなはずはないと言い聞かせ夏廉も眠りについた。不思議なことに頭痛は止んでいた。あの嫌な「騒音」も聞こえない。夏廉にとっては珍しい、とても静かな夜だった。
珍しい朝だった。
夜に続いて静かな朝。ゆっくりと目を開けた夏廉に
「おはよう!」
妙に脳天気な声が降ってくる。驚いて一気に目が覚めた。
「なんだよ、脅かしちゃった?よく眠ってたから」
「なんだよ、おまえ」
「なんだよって、忘れてないでしょ?俺のベッドで寝たこと。すごく寝顔が可愛いのな。得した気分」
夏廉に向かって手を差し出しかけたのを思い切り振り払われて冬耶は面食らった。もの凄く恐い顔で夏廉がベッドサイドの冬耶を見上げている。
「どーした?」
「俺に触んな!!」
「ぁ、ごめん」
「だいたいどういうつもりなんだ」
「どういうつもりって?」
「俺みたいなどこの誰ともわからないヤツを平気で連れ込んで、眠っている間に大事なものをみんな盗まれて泣くのはおまえだからな」
「へっ?」
抜けた声を出した冬耶を夏廉は思い切り蔑んだ。
「誰が盗むの?」
真っ直ぐな黒い瞳。夏廉は一瞬怯んだ。
「だから、俺とかがだよ」
「盗むの?」
「盗んでやろうかと思ったけど、助けて貰ったし……」
なんだか分が悪くなる。
「何だ盗んでないんじゃん」
「だからされたらどーすんだって言ってンだよ」
「いいよ、別に」
「別にって」
夏廉は少々呆れた。
あまりに素っ気ないその言い方は、事態を全然重く見ていない。頭悪いのか?思わずそう思ってしまったほどだ。
「盗んでないんだから、夏廉は盗まなかったんだからそれでいいじゃん。ぁ、おれ、かれんて呼んでいいの?」
冬耶の言葉にしばしの沈黙に陥ってしまった夏廉は
「い、いいよ。でも人前では絶対に呼ぶなよ。他のヤツには教えてないんだから」
「わっ! ほんと俺だけ?俺だけいいの?」
まるで小躍りするように喜ぶ姿がまるで子供か何かの小動物を思わせた。
(なんだこいつ?)
まるで読めない相手を不気味に思いながらこんなことは初めてだと夏廉は思う。
「ありがとう」
「え?」
「昨夜は助けてくれて」
いきなりの素直な言葉に冬耶も驚く。
「い、いよ。 だって友達だから」
「友達?」
「うん」
「誰が友達なんだよ」
「俺達」
その言葉に一気に低気圧が来たような雰囲気になる。
「勝手に決めんな」
冬耶の言葉に呆れて夏廉が怒る。
「なんとなくさぁ。 友達になりたい。だめ?」
臆面もなく言う冬耶の顔を呆れ顔で夏廉は眺めた。
「オマエ小学生じゃあるまいし、何考えてるの?」
「なんで、だめ?」
冬耶はしつこい。 子供じゃあるまいし、ベッドに誘われることはあっても友達になりたいなどと言われたことは一度もなかった。
そう、子供の時ですら夏廉にそんなことを言った人間はいない。夏廉が黙っていると冬耶は昨日の続きとばかりに話し出す。
年は幾つだのなんだのと次々と自分のことを話し続ける。それをうるさいと思いながらもやはり不思議な事に気づいていた。
こいつからは何も感じない。もしかして仲間か?
昨日浮かんだそんな突拍子もないことを思ったが、それは迂闊に話せる内容でも確認できるものでもなかった。
単純に聞くことは出来ない。だからまだ気を許すこともできない、それはいつも誰に対しても同じだが。
それにしても……うるさくてしつこいと思いながらも、なぜか憎めない気がする目の前の冬耶を見ていた。端正な顔をしてさぞ、女にもモテるだろう。さすがに俺を誘う必要はないだろうからな、思わず皮肉な笑いが浮かんだ。
「どうした?」
冬耶が不思議そうな顔で覗きこむ、やっとお喋りがやんだようだ。
「お礼が欲しいか?」
ぞっとするような夏廉の笑みだった。凍り付くような、それでいて凄まじい色気があるような。
一瞬夏廉が別人に見えた冬耶は焦った。誤魔化すように手を伸ばす。熱を確かめようと額に手を伸ばしかけたとき、その手首を掴んだ夏廉が呟いた。
「オマエ、何者だ?」
え?と言う顔で見返す冬耶の顔を夏廉はじっと見つめた。
夏廉に見つめられて冬耶は不思議そうな顔をした。
「……?」
その顔をじっと見つめた夏廉は、冬耶の手を離すと
「ごめん」
呟いて俯いた。
初めて見たその弱気な表情に、わからないながらも冬耶は気遣いを見せた。
「なんか食う? 朝飯食おう。昨夜も食べなかったじゃん」
夏廉は首を振る。
「だめだよ、なんか食わないと」
言い残して冬耶はキッチンへと向かった。
夏廉には普通の人間とは違う能力があった。
テレパス(感応者)
自分でそれに気づいたのはいったい何歳だったのだろう。夏廉には両親が居ない、父親は生まれたときから知らないし、母親は5歳の時に死んだ。
今になって思えば、母親もそうだったのではないかと思うことがある。少なくとも、夏廉がそうであることを母親は知っていた。
「思ったことをすぐに口にしてはダメよ」
ずっと母親に言われていたことを思い出す。意味も分からないまま、母親に言われたことは守ってきた。だが、隠すことは難しい。
母の死後、親戚や施設に引き取られても、すぐに気味悪がられる。さすがにテレパスだなんて思う人間は現れなかったが、恐ろしく勘のいい人間だとは思われて、人は近寄らなくなる。
誰だって自分の考えを悟られるのは、嫌に決まっている。夏廉はずっと一人で生きてきた。友達もなく誰とも親しくならず。それはそれで別にいいのだ、かえって気が楽で助かる。だがもうひとつ大問題があった。
感情の雑音である。
上手くコントロールしなければ、誰彼となく雑多な感情が常に自分の中に入り込んでくる。
当然いい感情ばかりではない、他人の「負」の感情が押し寄せるとつまりは自分が被害を被る。それは自分に向かう感情ばかりではない。周りにいる人間全ての感情がわかってしまうのだ。
はっきりと言葉に出来るものもあれば、どす黒い感情の固まりのようなものもある。もちろん気持ちのいい、暖かなものもあるが、人間どちらが多いかと言えば「負」の方である。
それはその人間が悪い人間だからとは限らない。どんな人間も「善悪」を持っていて、そして悪には流されやすく、より強い感情だと言うことだ。人間とは弱いものなのだ。
その事を夏廉は知っている。そしてとても悪質なものだと言うことも。勝手に流れ込む感情は夏廉の人間性には関係ない。自分がどんなに良い人間であっても、周りの人間の中の深層心理にある悪意は夏廉にまとわりつく。普通なら気づくはずのない、本人でさえ気づいていないものが夏廉を苦しめる。
物心をついた頃から少しずつ心にシールドを張ることを覚えた。心に鍵をかけて余計なものを入れないようにする。そういうものは防衛本能なのか誰に教わらなくとも出来た。
だがそれはそれで常に緊張を保っていなければならない。幼い頃は上手くできないこともあって、非常に他人が恐ろしく騒いだり逃げたりして周りの人間達の不信感を煽った。
それでも大人になるに従いそれらを上手くコントロールする事が出来るようになった。自分の中に入れても大丈夫なものは、素通りさせる。自分に攻撃的なもの、害のあるものだけを完全にシャットアウトする。
無意識にそれらを選別できるようにもなっていた。日常的に、上手くやり過ごすように。それでもふとした時には昨日のようになる。
最近はどうしたことか、コントロールが甘かったり時にはきかないときがあるのだ。どちらにしても夏廉にかかる精神的な負担は相当なものだった。
自分は長生き出来ないんだろうな。母親の死もそれに関係していた気がする。一人ベッドの上で自嘲気味に笑った。
何のための能力?人はこんなものを羨ましいと思うのだろうか?
生きにくいことこの上なく、自分をこんな人間にしたのはこの能力のせいだと思う。ひたすら目立たなく、他人にそれがわからないように生きてきた。 それでも、ずっと同じ場所にいるのは難しく、住むところも働く場所も変えながら生きなくてはならなかった。
誰も信じられない、誰にも寄り添えない。それでも人混みの中にいることが多いのは、自分を知る人間が居ないせいだった。そこで意識が飛び交っても、夏廉自身には関係ない物ばかり、単純に素通りさせればいいのだ。聞こえない振り、ができる。ひとつのことを除いては……
夏廉の容姿は目立ちすぎる。
女かと見間違われるほどの綺麗な顔立ちは、女ばかりでなく男達からも好奇な視線を浴びた。それはそのままの感情となって夏廉の中に入ってきた。
それは当然肉欲を伴うし、嗜虐心や嫉妬、羨望と、プラスよりはなぜかマイナスの感情を周りの人間に引き起こす。
最初の頃はその度に吐き気がして、部屋から一歩も出られなくなった。男とも女とも誰とも顔を合わすことが恐怖でしかなかった。が、それにもやがて慣れた。
夏廉と顔を合わす人間は、まず最初にそういう性的な感情を送ってくる。 いったい自分は何人の人間に犯され、もしくは引き裂かれたか知れないと思う。人間とはそういうものだ。
食欲、睡眠、性欲、この三つは切り離せない。仕方無いのかも知れないとさえ思い始めていた。それならそれでそういう生き方があるのみだ。
キッチンにいる冬耶を見る。冬耶からは誰からも必ず感じるあの不快感がなかった。
はじめそれを上手く隠しているのかと思った。だが普通の人間にはそんなことが上手く出来るはずがない。だから自分と同じなのかと思った。
でもどうやらそれも違うようだ。と、なると答えはひとつ。
夏廉は冬耶を見つめる。だとしたら冬耶はそのままの人間なのだ。考えていることと、言葉にしていることが全く同じ。
心が真っさらだということだ。信じられなかった。そんな人間がいるなんて。
初めて出会った。信じられない、人間には普通多少なりとも、見栄や欲望はあるものだ。それが普通なのだ。
だが「友達になりたい」そう言った冬耶は本当にただそれだけを思っていたのだ。
「出会って俺を頭の中で裸にしなかった人間はオマエだけだぜ?」
夏廉は冬耶に向かって聞こえないのを承知で呟いた。