暁の章(最終話)
ガラスの心
純粋だから傷ついて
そして限りなく優しい
僕の大切な愛しい君の心
いつまでも永遠に──────────
暖かいと言う表現が似合う頃になった。時にはその日差しの強さに季節を飛び越えたのかと思うような日もあった。暗く荒れることが多かった海は明るく優しい色に変わってゆく。
波が届かない場所で夏廉は冬耶の肩にもたれて寄せて返る波をずっと見ていた。座った砂でさえ少しばかりの熱さを孕んでいた。もう春ですら過ぎていこうとしてるのかも知れない。
冬耶にもたれて波を見つめていると、ふっと意識が眠りに引き込まれる。波の音が遠く近くなるような気がする。冬耶がそれに気づいたのか、自分の方に引き寄せて抱え直してくれた。
安心して自分を預けられる腕。もうあの夢は見なくなった。不吉な時間の扉はもう開かなくなっていた。
最後のあの時は夢とは思えないほど現実味があった。
そしてなぜか劇でも見るように小さな自分と冬耶と母親のやりとりを見ていた。母がどんなに自分を心配していたか。自分を残していかなければならなかった哀しみがよく判った。
そして─────冬耶が自分のためにあんなに泣いて母に取り縋っていたことを全部見ていた。冬耶の慟哭が痛くて自分も一緒に頼みたかった。冬耶を抱きしめたい……そう思ったとたん、幼い自分に今の自分が入り込んでいた。
体は幼いままだったが意識は確かに今の自分だった。冬耶の首に抱きついて冬耶に強く抱きしめられたとき、自分の居場所はここだけだと強く思った。母は哀しげな瞳をしていたが、ちゃんとわかってくれているのが判った。だからもう会えないのだ。
いや、いつか行くだろう自分も母のところに、その時まで。冬耶の腕の中で目覚めたときはこの上もない幸福だった。もう二度とこの腕から離れなくてもいいのだと、訳の分からない感動すら覚えていた。
それから日々は穏やかに巡り─────
体調はけして良いとは言えなかった。冬耶の足もあのままだったけれど、何も望むものはなかった。二人とも満ち足りて幸せだった。
波の音を聞きながら、冬耶にもたれてしばらく眠ったらしい。日差しが傾き始めたのを期に立ち上がる。先に立った冬耶が夏廉にそっと手を伸ばす。その手を掴んで歩き出したときにふと、初めて二人で海へ行った時のことを思い出す。
あの時は二人で暮らし始めて幸せだったのに、どこか不安で自分の先も見えずに苦しかった。自分が死んだら……そんなことを思って冬耶に妙なことを言った。その時の彼の哀しそうな顔を今でも覚えてる。
あの時の自分は平気でそんな残酷なことが言えたのだ。冬耶が死ぬかも知れないと思ったときの自分の取り乱し方を考えれば、よく彼にそんなことが言えたものだと思う。
でも辛かった思い出はすべて過去になる。今の二人は未来を見ることが出来る。例えそれが短かったとしても。二人で同じものを視ることが出来た。
それは夏廉が望んだことであり冬耶が与えてくれたものだった。二人の行き着く先は判らなくとも今はただこうして、二人で生きていたかった。母もそれを認めてくれたのだから。
暖かくなって、テラスにテーブルとデッキチェアーを置いた。天気がいい日はここで食事もできる。太陽が昇っている時間は今や一年で一番長い季節になり、目の前の季節を越えるとここへ来て一年になる。
夏廉と出会ったのは……初めて会った時をひどく印象的に覚えてる。それは出会った、と言うよりも見つけた、と言う方が相応しかった。冬耶にとってはまさしく『見つけた』相手だったのだ。
小さな頃から親に期待も愛情も掛けてもらえず、故に誰に対してもなんの要求もしたことの無かった自分が初めて『欲しい』と思った相手。『夢中になる』なんて事とは無縁だった自分が必死になって追い求めた相手。
馬鹿にしたような冷たい瞳で自分を見る相手にプライドも何もなかった。あの気持ちは何だったのだろう?自分の気持ちを省みる余裕すらなくて、ただ一緒にいたくて必死だった。すごく綺麗でそして孤独な瞳をした彼。
自分には孤独と言う感情すらなかったのに。彼は心が読めると言った。全然平気だった、読まれて恥ずかしい人間らしい感情なんて持ち合わせたことなど無い。いくら読まれたって平気だった。
冬耶の心にあるのは彼が好きだという感情だけ。それに引き替え彼は自分の特異な能力を持て余し、疲れ、傷ついていた。自分たちはどちらがより不幸だったのだろう?自分以外に寄りかかる相手が居ないところだけは一緒だった。
何よりも心だけでなく身体まで傷ついている彼を守りたいと、せめて傍にいてあげたいとそれだけを思っていた。自分から逃げるように去る彼をすべてを捨てて追いかけた。元々捨てて惜しいと思うようなものは持ち合わせてなかった。彼が、夏廉だけが生まれて初めて失いたくないと思った唯一のものだったから。
誰の心も読めるくせに彼は冬耶の心だけは読もうとしなかった。
「おまえのことを信用してる」
最初に冬耶の部屋で一緒に暮らし始めた頃に夏廉はそう言った。それがすごく嬉しかったのに、ここへ来た頃にはすっかりそんなことは忘れたように彼の態度や様子に不安になっていた。
『信用する』ことが夏廉にとってどんなに大変なことか、今の冬耶なら分かる。冬耶のことを信用するといった時点で夏廉は冬耶を認めたのだ。
だが冬耶にはわからなかった。元々自分には自信がなかった。愛される自信、もしかしたら愛する自信も。皮肉なことにそれは夏廉も一緒で、自分たちは互いに相手の知らないところで同じ事に悩み傷ついていたことになる。
お互いに言葉にすれば良かったのに、気持ちを伝えれば良かったのに、そうすることさえ思いつかなかった。人間として一番大事なことが欠けている二人なのかも知れない。
だからこそ、相手を一番理解できるのは自分だと思える。ひどい喧嘩をして事故にあって、もしあのまま死んでいたら残された夏廉がどんなに傷ついたかと思うとやりきれない。傍に戻れて本当に良かった。
そして、おかげで夏廉が本当の意味で自分のものになったと思える。どんなことがあっても離れる気などはなかった。やっと見つけた宝物だと思う。自分の一生をかけて愛して守り抜くのだと冬耶は自分に誓った。
気配に目覚めた。
夜明けが早いこの季節でもまだ外は暗かった。真夜中だろう。自分を目覚めさせたものにすぐ気付く、隣に寝ていた夏廉が身体を丸めるようにしていた。
呼吸が浅く早い。
「かれん、大丈夫か?」
体調が悪いときはいつもこうだ。
ひどい頭痛か吐き気、そうでなければ熱による悪寒と痙攣だった。
出会った頃からたまにそう言うことがあったとはいうものの、ここへ来てからその間隔は日毎に短くなっている。
医者には診せないと言うのが夏廉との約束だった。夏廉の色々なことを知った今では冬耶もその意見に従った。病院へ連れていくのは逆効果のようだし、夏廉の母親に会ってからはもうそれは無駄なことなのだと判っていた。
冬耶も医者の研究材料に夏廉を提供するつもりなど無い。何もしてやれないが夏廉はそれでいいと、大丈夫だからと言っていた。代わってやりたくても代わってやれない、夏廉は一人で耐えるしかないし、冬耶は苦しんでる夏廉をただ見ているしかなかった。
でもそうやっていこうと二人で決めた。夏廉は冬耶の痛みを感じる癖に自分の痛みには鍵を掛けて絶対に冬耶に伝えなかった。
冬耶はやりきれない瞳を外に向けた。冬耶の足が悪くなってから寝室は2階ではなく、広いリビングに続いた部屋の仕切をはずしそこで寝ていた。
せっかくの二階だったが、今では殆ど都会のワンルームマンションのように、平面部分しか使っていない、それでも都会のそれに比べたら格段の広さがあった。それは夏廉の具合が悪くなったときにも都合が良かった。夏廉が一日中寝ているときでも、冬耶は目を離さない。外は夜明けが近いのか少しずつ色を変え始めてきた。
「かれん、大丈夫か?」
汗で張り付いた前髪をどけてやりながら、ブランケットに夏廉を包んで抱いた。階段は無理だが、平らな場所で軽い夏廉を抱いて歩くくらいは出来た。
前よりさらに軽くなっているだろう。腕の中の大事な人を少し哀しく見た。テラスに出てデッキチェアーに夏廉を抱いたまま座る。
「夜が明けるみたいだよ」
冬耶の言葉に夏廉が薄く瞳を開いた。少しずつ空と海の境がはっきりしてくる。日が落ちるときの空と海も綺麗だが冬耶は明けてゆく空を見る方が好きだと思う。そして今日も無事に夏廉と二人でそれを見てることを感謝する。
「今日も晴れるんだな」
夏廉が呟いた。
「少し気分良くなった?」
「あぁ」
気休めかも知れないが冬耶がしてやれることはこれくらいだった。冬耶の腕の中で夏廉が少し身じろぐ。呼吸はまだ浅いが、少し顔色が戻ってくる。
今日で三日目。たぶん明日辺りは起きられるようになり、また三,四日は元気だろう。
そしてその間隔が二日になり起きられなくなったら?先を想像するのは少し辛いものがあった。
思わず胸に抱えてる夏廉を抱きしめる。夏廉は何も言わずに微笑んでいた。夏廉にはもっと判っていることだろう。それでもその時までずっと冬耶の側に居たいと言った。
以前のようなどこか投げやりだった影はない。自分の先をしっかり見つめて、それでも生きようとしている夏廉は出会った頃とは別人だった。
「もっと早く会いたかったな」
それが冬耶の正直な気持ちだった。夏廉と過ごした時間は余りに短い気がする。せめてもう少し早く会っていれば、夏廉もそして自分も。
「どのくらい早く?」
面白そうに夏廉が聞く。
「そうだな、学生時代……と言ってもお前は学校行ってなかったのか」
「俺はそのころあんまり会いたくない状態だったけどな」
別に怒る風でもなく面白そうに夏廉が言う。
「じゃ、もっと子供の頃は?」
「そうだな……」
言いかけて夏廉は
「おまえさぁ、それ俺じゃなくて俺の母親に会いたいとか思ってるだろ」
あの夢からこっち、どうも冬耶はよく夏廉の母親の話を口にする。夏廉にしたところで子供の頃の記憶は曖昧で殆ど覚えておらず、夢の中の母親がすべてと言っていいくらいだったから、二人にとっては彼女の記憶は殆ど同等のものだった。だがどうも夢で会って以来冬耶は夏廉の母親がお気に入りの様子だった。
「だってすっげー綺麗な人で、優しくて、若くて可愛くて、おまけにおまえそっくり」
「なんだそれ?」
夏廉は呆れ返っている。あの後ずっとこんな調子なのだ。
「そんなに気に入ったのか?」
「もうすげぇ好きかも」
「あぁ、そう」
何だか馬鹿馬鹿しくなってくる。
「お前来なくていいよ」
「なに?」
「それとも先に一人で行くか、会いたいなら」
少し意地が悪げに言ってみる。
「そんな事言うなよ」
冬耶が少し悲しげな顔をする。
「嘘だよ」
夏廉は冬耶の胸でクックッと笑った。冬耶をかまうのは楽しい。何でも馬鹿正直に反応するから。そして思う、冬耶も淋しかったのだ。
自分とは違う意味で母親の愛情を得られなかった子供だから。だから、どこかで代わりに夏廉の母親を求めている。
あの時よく『死ぬ』と言わずに夏廉と『生きる』と言ったものだと思う。多分冬耶にとってもあのまま死んだ方が楽だったはずなのだ。それでも今こうして二人はここにいる。それはあの時の冬耶のおかげなのだから。
「当分会わせてやらない、俺はここで、お前の傍で生きるんだもの。当分彼女の所になんか行かない。だからお前にも会わせてやらない」
すっかり明けた空を見つめて夏廉が呟く。
「いいよ、俺はお前のものだもの、ずっとこうしてる。この先何年生きても、例え死んだとしても離れることはないんだから、だってもう俺の魂はお前の中だし、お前ももう俺の中にいるから」
本当はもうすでに肉体の生死は二人にとって大して関係ないものになっている。ただこうして二人で生きようとすることが大事なのだった。
二人は出会うまで『生きよう』としたことがなかったから。二人で生きる努力をすることがせめてこの世で生まれた意味を二人にもたらす。
なぜ自分たちは生まれてきたのか。その答えをやっと得られるかも知れないから。あの薄暗い路地で出会った二人はまるで別の世界にいた。夏廉が自分を呼ぶのだと譲らなかった冬耶。ここへ来るきっかけになった男。
今ではもうその生死すら確かめようはなかったけれど、この場所を与えてくれたのがあの男なのだとしたら、その事ですら感謝したかった。あの人工的な光の下で孤独なまま生きてきた二人が、こうして自然の中で限りある命を抱いて寄り添っていること。
朝の明るい光と、潮騒の響きを耳にしながら夏廉は冬耶の胸に頬を寄せた。正確に力強い冬耶の鼓動は何よりも夏廉を安心させる。自分を幸せにしてくれたこの腕が、これからも永遠に自分の物であることを祈り続けたい。
もう引き返すことは出来ないのだから、この腕から出ることは出来ないのだから。冬耶がそんな夏廉の感情の波を受け取って、抱え直した夏廉を抱く腕に力がこもる。優しく降りてきた冬耶の唇が夏廉の唇を掠めた。
「いっしょに生きていこうな」
「あぁ」
冬耶の腕の中で夏廉が答える。夏廉が冬耶の名を呼び続ける限り、そして冬耶が夏廉を追い求める限り
二人の想いは永遠に生きていく――――
- 完 -
ここまで読んで頂きありがとうございました。
最後に番外編をアップさせて頂きます。




