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MIND GAME -心の扉-  作者: 紫逢瑠依
[第三部]黎明編
16/18

弦月の章

小さき君になに思う


頼りなき姿にも胸熱く


ため息の行く先は


不安な心


切なき思いは


彼女かのひとも同じくて


ただ想うは


君を守らん


我が身に変えても―――――――






 冬耶の怪我はあっという間に良くなっていった。目の前を横切る冬耶を見て夏廉は安心する。元気な冬耶の姿はそれだけで夏廉を幸せにした。

 でも、歩く姿が少し歪む。右足だけが完全に元に戻らない。よく見ると少し引きずって歩くその姿に心が痛い。

 今に治るよ、冬耶はそう言うが医者は判らないと言ったらしい。多分無理して痛めた足を杖なんかで歩いたから、治るはずのものも治らなかったのだ。きちんとリハビリの手順も踏まず、無理矢理、急いで退院してしまったから。

 怪我自体は心配することはなかったのだから、予後をきちんとすれば問題はなかったはずなのだ。だが冬耶は急いでしまった。夏廉を一人にしておけなくて、死ぬほど辛い思いを我慢して重い足を運んでいる夏廉を見ていられなかったから。

 だからその足を見るたび自分のせいだと思ってしまう。歩くのにそれほど不自由はないが、走ることは出来ないかも知れない。

 出会った頃、派手な店に出入していた冬耶を男も女も誰もが振り返った。彼のその端正な顔と均整の取れた体型は素人のものとは思えなかった。容姿に自信があった夏廉が生まれて初めて羨望と嫉妬を感じた男だ。

 それほど完成されたものだったのに。自分が壊した。あれほど完成されていたものをあんな事故にあわせて、挙げ句の果てに。そう思ったときに急に座っている自分に顔の高さを合わせるようにしゃがみ込む影。

「またくだらないこと考えてる」

 冬耶にそう言われた。暖かい天気に誘われて砂浜を歩いて散歩に出ていた。腰を下ろした夏廉の横に冬耶も座る。

 夏廉の気持ちが分からなくて辛い、そう言われて自分の今までの我が儘勝手を反省させられた。臆病になるより、求めることで安心したかった。

 夏廉は本当の意味で自分のすべてを冬耶に与えることにした。体ではなく心を。

 確かに自分と冬耶の間にはなにかあるのだろう。夏廉が自分の心を解放すると、冬耶はそれを自在に吸収する事が出来た。彼には『能力』がない、にも関わらず。

 今まで何度か不思議に思ったことはあったが、このことは夏廉にも説明は出来ない。冬耶にはなおさらだろう、ゆえに『出会うべくして会った』と言う冬耶の持論になる。

 最近は夏廉もそうなのかも知れないと思う。人には一生に只一人のパートナーがいるという。自分の人生を賭けるような相手がこの世に存在するという。

 でもその相手を見つけることが出来るかは判らない。存在していても会わずして終わってしまう一生もあるのだ。だから出会えた人間は幸せなのだと聞いたことがある。

 多分、自分にとっては彼がそうなのだろう。だから別々の人生を歩いていた二人があの時偶然に出会ったことを今は感謝してやまない。

 ここへ来たのはもう寒さが近づいて来る頃だった。今は暖かい季節へと歩み寄っている。

 波の音も空の色も変わった。狭い町の中で二人はすっかり有名になってしまった。ここへ来たときから、人目を惹いたのだ。そもそも若い男同士と言うだけでも目立つのに。

 誰のことも魅了してやまない冬耶の容姿は都会にいても目立つ。長い髪と少し焼けた肌と、陽気だけれど意志の強そうな譲らない瞳は、そこにいるだけで目立つのだ。

 夏廉の方も、色素の薄い髪も瞳も白い肌も、誰かがそのように作ったのかと思うくらい完璧なバランスで存在する。男か女か確かめたくなるような、少し陰の部分を引きずった姿は一度見たら忘れられない。そんな二人が並んでいれば、嫌でも目に付く。

 そこへ来てあの事故の日の夏廉の異常な行動は彼らを見たことある人間ならみんな知っていた。嫌な思いはしたことはないが、困ることはあった。もう少し様子を見てどうしても駄目ならまた余所へ行くしかなかった。

 それでも、あと少しこうしてここに居たい。二人はそう思っていた。毎日目の前に広がる海と空は二人を飽きさせることがなかった。一瞬ごとにその姿を変え、そしてどこまでも続く。煩わしい人間達から離れ、自然のみが自分たちの傍に存在した。色も匂いも音もすべて自然が作り出すものだった。

「寒くなったな、帰ろうか?」

 優しい冬耶の言葉に夏廉は頷く。まだ明るい空に欠けた月が浮かんでいた。

 暗い海にぽっかり浮かんだ月。それを夕食の後いつものように部屋の明かりを落として眺めていた。いつの間にか星や月が見える晩は冬耶と二人こうしてそれを眺めるようになった。

 今日は月が目の前に浮かんでいる。だが満月からは遠かった。その殆どを闇に隠し、わずかばかりの姿を細く儚く表していた。

「ずいぶん頼りないな」

 月の姿を見て夏廉が言う。

「月って言うのは丸いって感じがするもんな。でも考えて見りゃ丸い時期なんてほんの僅かで殆どが欠けてるんだよな。新月なんてのもあるし、月食だとか。月って言うのは自分の姿を全部見せることが殆どないわけだ」

 そう言って冬耶が少し笑う。

「お前みたいだな」

 続けてそう言った。

「見えなくたって消えた訳じゃない。なのに俺は消えたお前をずっと捜してた。探さなくたってお前はずっとそこにいたのに。でも、姿がないと不安だったんだよ。気持ちが見えないと不安だった」

「いまは?」

 少し意地悪な気持ちで夏廉が聞く。

「今は平気、と言いたいけど。わかっていてもちゃんと捕まえていたいさ、やっぱりな」

 そう笑って夏廉を抱き寄せた。相変わらずとことん正直な奴。夏廉は苦笑する。ほんとに羨ましい。どこをどうしたら、こんな人間が出来るのだろう。

「お前、家族は?」

 冬耶の家族はちゃんと居るはずである。連絡を取った様子もない。まさか家出って事もないだろう。

「俺の家族はおまえだけ」

 いつも陽気な冬耶の声が一瞬沈んだような気がした。

「いいのか?」

「誰も心配してないよ、忘れてるさ」

 黙った夏廉に冬耶が言う。

「俺が幸せに育ったと思うならちょっと違うな。そりゃおまえに比べたら一応ちゃんと両親は居たし、食べることも住むことも困らない。学校だって行ったさ。それを幸せって呼ぶならな」

 その珍しく皮肉っぽい喋りに、出会った頃を思い出す。冬耶の心に何も存在していなかったことを。

「そうか」

 夏廉はあえて何も聞かなかった。誰しも暗いものを抱えて生きていることは、夏廉には充分わかっている。心に闇を抱えていないものなど存在しない。

「おまえは強いな」

 冬耶の腕の中で呟いた。

「それでもそんな風に真っ直ぐでいられるおまえが羨ましい」

 夏廉の呟きに

「なにをもって強いって言うのかな?本当の強さってなんだ?夏廉みたいな人生でもこうやって生きてることは強くないのか?強くなかったら生きてこられなかっただろう?」

「これは強いって言うのか?」

 夏廉は皮肉に言う。

「たぶんな」

 だがあっさりと冬耶は答えた。

「俺には育ててくれた家庭があったさ、でも両親は自分たちのことばかりで俺に関心を示したことはない。俺もあの人達に関心はない。妹は可愛かったが、年頃になって俺達の間もぎこちなくなって、お互い恥ずかしいっていうか、俺そう言うの面倒だからさ。そのうち口も聞かなくなって、高校卒業してすぐに家を出た。それからほとんど会ってない。俺って人間嫌いなんだろうか?」

 冬耶が珍しく自分のことを語っていた。そう言えば、夏廉も自分のことを話さなかったが、夏廉が尋ねなかったせいで冬耶も自分のことを語ったことはなかった。欠けた月は窓の中央から端に向かって静かにその姿を移し替えていた。

「俺は親に関心を待たれたことはなかったよ。なぜ?きっとそう思ったときもあったかも知れないけど、同じくらいこっちも相手に無関心だった。そういう環境だったからなのか、他の周りの人間にも俺は無関心だったな。友達もいなかったし」

「おまえが?」

 夏廉は不思議に思う。親のことはなんだかわかる気がする。たまにそう言う親はいるものだ。

 特にああいった店で集団で居る人間は同じ様な育ち方をした奴が多い。親が居ないか、いないも同然。それは不思議じゃなかった。

 だが冬耶の人柄は人を集める。本人が自覚してるかは知らないが、この陽気さと、人なつっこさは人を惹きつけずにはいられない。夏廉でさえそうだったのだから。

「人が俺のことをどう思ったのかは知らない、でも俺には必要なかった。自分以外の人間なんて必要なかった。女は……たまに必要だったけどな」

 面白そうに笑った冬耶に夏廉は仕方なく頷いた。

「妬かないの?」

「いまさらだろ」

 夏廉の答えに冬耶がまた笑う。

「お互い様か?」

 その言いように夏廉は冬耶を睨んだ。

「おまえを追いかけたのは理屈じゃない。なんだろう?説明は出来ない。でも生まれて初めて拘った。また会いたい、話がしたい。俺のことを見て欲しい、俺の傍にいて欲しい。どんどんそれは大きくなってきりがなくて、おまえが好きなんだって思ったときはもう止められなかった。なのにおまえにそれを知られてたんだって思ったときは、改めて自分の気持ちに驚いたし、やっぱり恥ずかしかったな」

 もう何だか遠いことのように感じるあの日のことを冬耶は思った。夏廉も慣れなれしくどんどん自分の中に入ってきた冬耶のことを思い出す。

 不快なはずなのに、離れられなくて初めて好きになったと自覚したときは切なくて苦しかった。気づいたときには、同時に別れることを覚悟したときだった。

 自分のような人間が、誰かに愛されるなんて思ったことはない。それ以前に一緒に居られるような立場ではなかった。

 何も望んだことなど無かった。なのに冬耶に愛されてると知ったとき、離れたくない、失いたくないと、ただひたすらそう願った。

「すごいことだよな、俺達ってお互い初めて好きになった相手とこうしてるんだぜ。これを幸運と呼ばずになんて言う?」

「オプティミスト〈楽観主義者〉」

 夏廉が呟いた。

「なにが悪い。物事悪い方に考えて面白いはず無いだろう?もう少し前向きに考えようぜ。かれん?」

 悪びれずに陽気にそう言って、次に夏廉を自分方に向かせた男は、今度は真剣な顔を夏廉に向ける。月明かりだけの部屋だが、冬耶の顔はよく見えた。

「俺はおまえが死神にさらわれていくのを黙って見ているつもりはないからな。おまえは俺のものだ、勝手に連れていくなんて許さない、おまえが勝手に死ぬ気でいるのも俺は気に入らないし、許すつもりはないからな」

 夏廉は頷いた。今となっては、すべて冬耶の言うとおりなのだ。夏廉も冬耶が死ぬと思ったとき、自分を勝手においていこうとする彼にどうしようもない怒りを感じた。とても理不尽だと思った。だから今なら冬耶の苦しさがわかるのだ。

「わかってる。だけど」

 どうなっているのかわからない、だが自分の体力が日々落ちて弱っているのは間違いない。例の発作がこのところ起きていないだけで、いつどうなるのか。

 母親の夢はこのところ見ていなかった。それはあの時間に冬耶が夏廉を眠らせないためだった。放っておくと、なぜかあの時間に眠りに引き込まれる夏廉を眠らせないようにしている。冬耶が呟いた。

「夢……あの夢は関係あるのかな?」

「わからない、でもそう考えた方が自然だろうな。俺の母親は何が言いたいんだろう。本当に俺を連れていきたくて……そうなんだろうか?」

「聞いてみるか?」

「……?」

「おまえの母親に聞いて見るんだよ、いったいどういうつもりなのか」


 柔らかに空と海がその色を変えていこうとしていた。午前と午後では明らかにその姿を変えてみせる、海と空。少し暗くなり始めた部屋のソファーの上で二人は睦み合っていた。キスをして指を相手の身体で遊ばせる。子犬か子猫がじゃれているようだった。

 二人はこれからあることをしようとしていた。言い出したのは冬耶。方法を考えたのは夏廉だった。

「おまえの母親に聞いてみるか」

 冗談とも本気ともつかないことを冬耶は突然言い出した。

「聞いて来いってか?また夢見りゃいいんだろ?あの時間ならたぶん」

「おまえ一人は駄目だ」

「は?」

「おまえ一人が会いに行って帰って来れなくなったらどうする」

「たかが夢なんだから、帰って来れないもないだろ?おまえがいつものように起こしてくれればいいんだから」

「だめだ!おまえの母親が返してくれなかったらどうするんだよ」

 大真面目にそんなことまで言い出す冬耶に夏廉は可笑しくなった。いくらなんでも心配のし過ぎだ。妬き持ちも度を越している。

「だからどうすればいいわけ?」

 夏廉は笑った。

「俺も行く」

「おれもいくって。どうやって?」

「だって一度、一緒に同じ夢を見てるだろ」

「そうだけど、どうやって」

 あれが本当にシンクロしていたのかは疑問だった。偶然、と言うことも考えられる。だがどこかで偶然じゃないことも夏廉は感じていた。試してみることに拘りはない。

 ただ方法だった。あの時は精神状態が普通じゃなかったし、冬耶の方は死にかけて意識がなかったのだ。あの時と同じにしろと言っても無理な話だった。同じに出来るのは時間だけだった。

 夕暮れ時、黄昏時、夕闇に移りゆくその時間。放っておけば夏廉は自然に眠りに落ちる。あとは冬耶が一緒に眠るだけだ。

 昨日試してみた。

 二人で寄り添ってベッドでその時間に眠ってみた。だが冬耶の方の眠りが浅くてすぐ目覚めてしまって、けきょくは夏廉を起こした。

 失敗だった。夏廉だけが眠ってしまったのでは意味がない。また、冬耶が同じように上手く眠りに誘われるとは限らない。

 眠っていても、別の夢を見たのでは意味がないし、冬耶が眠り込んで夏廉を起こせなかったりしたら目も当てられない。様々なことを考えると、やはり無理に思われた。そこで夏廉が考えたのである。一番二人が心を解放して、シンクロできる方法を。今までの経験から、間違いなくひとつになれる。

 じゃれ合ってるうちに夏廉のシャツは肩から脱げてもう半裸の状態だった。同じように冬耶の服を脱がせて、裸の胸を合わせる。

 二人が繋がっているとき、夏廉が冬耶に抱かれているときが最大限に心が解放されて夏廉の感情が冬耶に、冬耶の感情が夏廉に流れ込むときだった。お互いの気持ちが増幅されて、どちらの感情かしまいにはわからなくなる。それを利用しようと思ったのだ。

 多分そのまま眠気がおそってきて、その夏廉の睡魔も冬耶に流れるに違いない。そして夏廉の意識に冬耶が飲み込まれれば、冬耶が夏廉の中に入ることが出来るのでは?夏廉はそう計算した。そしてその瞬間はやってきた。

 いつものように、どちらの快感かわからない感情の波にさらわれて夏廉の意識が遠のいた。

「かれん」

 冬耶に呼ばれた気がした。

「とうや?」

 呟いた時には自分の意識は暗闇に飲み込まれていた。


 冬耶は目覚めた。目覚めた、と思ったのだが周りには何もない。明るいのか暗いのかもわからない。気づくと目の前、少し離れた場所に小さな子供が居た。

 見覚えがある。今と変わらない、薄茶の髪に大きなガラス玉のような瞳。小さな体はまだ三歳か四歳くらい、

「かれんっ」

 思わず声をかけた。驚いたように子供は逃げ出す。それをどこまでも追いかけた。 走っているはずなのに追いつかない。小さな子供に追いつかない。景色もないから、自分が本当に走っているのかその感覚すらなかった。

 そして、子供を見失ってしまった。

「ぁ……」

 冬耶は絶望的になる。いまではこれが夢だと分かる。せっかく同じ夢に入れたのに。見失ってしまったら何もかもおしまいだった。

「かれんーーーーっ!」

 声の限りに叫んだ。ここではぐれるなど思いもしなかった。そんなのは嫌だ、夏廉を返せ!怒りでいっぱいになったとき、女性が現れた。

 そしてその女性が座っている背中に隠れるように子供の夏廉が居た。

 見つけた!

 その女性が誰なのかは二人を見比べればすぐにわかる。そっくりな顔、今の夏廉の顔をもっと儚げにしたような顔だった。そしてその後ろにいる子供の夏廉。だがその顔を見て冬耶は怯んだ。子供の夏廉は冬耶を睨んでいた、寄せ付けない顔は初めて出会った頃を彷彿させた。

「夏廉……」

「おまえ誰?」

 声をかけた冬耶に幼い夏廉が問う。怒った顔で冬耶を拒絶していた。冬耶を失望感がおそう、こんな事は予期していなかった。まさか夢の中で幼い夏廉に拒絶されるとは思わなかったのだ。気持ちが萎えてしまった。幼い夏廉の冷たい瞳はそれほどショックだったのだ。

「なんの用です?」

 彼女の問いに我に返る。それですべてが崩れた。頭の中で組み立てていた、色々な言葉はどこかに消え、夏廉を渡したくないと言う感情だけが冬耶を支配していた。

「お願いです!夏廉を連れていかないで。どうして?なぜなんです?なぜ、今頃になって現れたんですか?俺の夏廉だ。彼は俺のものだ。俺も夏廉のものなんです。だから彼を連れていかないで」

 何を言っているのか、支離滅裂なことはわかっていたが思考がどうにもまとまらない。激しい感情だけに突き動かされていた。

「私の息子よ」

 静かな声でそう言われた。

「わかってます、でも今は」

「一人にしたくなかったの、でもあの時連れて来るにはどうにも可哀想な気がして……でも後悔してる。なぜあの時、一緒に連れてこなかったのか。小さいのに一人で残されて生きていくのがどんなに辛かったか。この子は生きていても苦しいことばかりで、やはり一人で残して来るんじゃなかったと後悔したわ」

 いつの間にか子供は彼女の膝に乗っていた。彼女の首に手を回して、胸に抱かれていた。そのままそぉっと冬耶の様子を伺っているのがわかる。冬耶が思わず手を伸ばすと、くるっと母親の方に向いて顔を隠してしまった。

 胸が痛む。

「かえし……て」

 思わず跪いて気がつけば冬耶は泣いていた。

「お願い、夏廉を僕に帰してください」

 彼女は無表情で冬耶を見つめていた。

「あなたが夏廉を大事にしてくれていたのは知ってるわ、感謝してます。あなただけが夏廉を理解してくれたの」

「だったら」

「もうこれ以上は駄目」

「どうして!」

「わかっているでしょう?これ以上一緒にいてもこの先待っているのは……」

 冬耶の表情が凍り付いた。

「やっぱり」

 彼女が頷いた。

「私たちみたいな特殊な能力があるものは、それ故に命が短いのよ。余計なものに命を削って生きているから。身体の細胞が壊れてくるの。いくら特殊でも同じ人間だから、限界を超えれば、肉体は壊れるわ。私の家系で寿命を全うしたものはいません。本当なら、子供なんて生むべきじゃなかったのかも。でも私は女だったから、どうしても子供が欲しかった。自分ではもう少し、この子が大きくなるまで生きられるつもりだったのよ。でも……あんなに早く死ぬと知っていたら、生まなかったわ。こんなに小さいのに可哀想に」

「わかってます、夏廉がどうやって生きてきたのか、幸せじゃなかったのも。でも今俺達は幸せなんだ、何も今になってこんな」

「あなたが幸せでも、この子が幸せだとはわからないでしょ?」

 彼女が唐突に言った。

「幸せです!夏廉は俺と生きたいって言ってた、嘘じゃない。」

 以前の冬耶なら自信がなかったかも知れない、だが今は自信がある。夏廉が何を思って自分と暮らしているのか冬耶にはちゃんとわかっていた。

「なんでもできる?あなたはこの子のために何でも出来るの?」

 冬耶は頷いた。

「だったら、あなたが一緒にいらっしゃい。この子の傍にいるために」

 夏廉と同じ大きなガラス玉の瞳が、真っ直ぐに冬耶を見ていた。

 頷くのは簡単だった。夏廉と死ぬ事なんて容易いことだった。夏廉を失うことに比べたら、自分の命なんてどうでもよかった。元々夏廉が死んだときのことは考えていないわけではなかった。その時どうするかも。

 だが今は少し事情が違った。夏廉が言ったのだ。『死にたくない』と、『生きたい』と言ったのだ。

 冬耶に一緒に死んでくれとは言わなかった。だからきっと夏廉は生きていたいのだ。例えその先に『死』が待っていても、現在いまは。

「お願いです、本当に死ななくてはいけないときまで夏廉を俺に下さい。絶対にもう悲しませないから。絶対に幸せにする。ずっと傍にいる。だからお願いっ」

 冬耶の懇願は叫びに近かった。夏廉は母親に抱かれている。このまま彼女が夏廉を抱えて消えてしまったら、それでおしまいだ。

 そんな気がする。冬耶は必死だった。彼女は何も言わずにじっと動かなかった。冬耶は彼女から目を離さなかった。視線を外したらおしまいだと思った

 長いのか短いのかわからない時間が過ぎた後。つっと夏廉が母親の膝から離れて立ち上がった。その顔はさっきまでと違って笑っていた。小さな子特有の無邪気な笑顔でトコトコと二、三歩歩き出し母親を振り返る。

 母親はそれを見ていた。

「やっぱりその子がいいの?」

 母親の言葉にニコニコとただ笑っている幼子は

「とうやぁ」と舌っ足らずで呼びかけた。

 無意識に冬耶は両手をさしのべた。その腕に向かってストン!と夏廉の体が落ちてきた。今度は冬耶がぎゅっと夏廉の体を抱きしめた。小さな子特有のやわらかな感触がある。それはいつもの夏廉とは違っていた。それを感じて冬耶は切なくなった。

 こんなに幼い時からどんなに苦労してきたのか。どうやって一人で生きてきたというのか。なぜもっと早く出会ってやれなかったのか。同じ年齢の自分には無理だと分かっていても、たとえ出会ったとしても何も出来なかったとしても、そう思わずにはいられなかった。夏廉の生きてきた時間を思って冬耶は泣いた。

 母親の溜息が聞こえる。

 冬耶が顔を上げると、

「何回言い聞かせても駄目なのね。最後はあなたのところへ帰ってしまう。この間はあなたごとこちらへ呼ぼうとしたら、あなたを死なせては駄目だと言うし。それほどあなたのことが好きなら仕方ないわ。もう少し……」

「ママァ」

 夏廉が母親を振り返る。

「わかっているわね。この先、辛くて苦しいことが待っているのよ。それでもその子と行くの?」

 彼女が二人に向かって聞く。

「ママ、ごめんね」

 その声は今の夏廉の声だった。

 姿は幼いままなのに、今の夏廉の声が響く。

「俺は冬耶ともう少し生きていたい、いつまでかわからないけど、コイツがいれば大丈夫だよ」

「夏廉」

 冬耶は体だけ幼いままの夏廉を抱きしめた。

「ママ、ひとりにしてごめん」

「いいのよ、わかったから。いまさら後少し待っていたって変わらないわ。本当にいいのね。もうママとは会えないわよ」

 冬耶の腕の中で幼い夏廉がこくんと頷いた。

「この子をお願いね」

 彼女の言葉に慌てて冬耶は尋ねる

「お願いが……夏廉が、夏廉があなたのところへ来るときは俺も一緒に来ては駄目ですか?」

 彼女はうっすらと微笑むと、ふわっと夏廉ごと冬耶をその腕に包んだ。

「いいわよ、私の大事な息子達……」

 暖かい腕だと思った。

 冬耶は自分の母親にさえ、そんな記憶は持っていなかった。甘やかな香りがしたような気がする。思わずその柔らかな体を抱きしめ返した。心地よかった、やっと安心できると思った。

 

「おい、おいってば」

 頬を叩かれて冬耶は目覚めた。

「俺の母親にまで、おまえはなにやってんだ」

 いつもの夏廉の皮肉っぽい台詞に跳ね起きる。腕にはしっかり夏廉を抱いている。二人とも裸だった。服は床に脱ぎ散らかっていた。下半身も言わずもがなである。

 一気に思い出した。

「あっ」

「あ、じゃねーよ。ったく、寝ぼけてんのか?おまえは」

「あぁ俺達?」

「良かったな、帰って来れて」

 そう言って夏廉は冬耶の首に抱きついた。もう部屋はすっかり暗くなり、空には弦月が浮かんでいた。



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