冬舞の章
泣くことも笑うことも
君がいるから出来るんだ
色のある景色も
音のある世界も
君がいるから感じられる
僕の世界は
君と出会ってから動き出したから
君を失うことだけが
僕は恐い
寒い日が続いた。南の土地でも冬は冬だ、仕方ないのかも知れない。高熱にさらされた夏廉の体力はなかなか元には戻らなかった。
それでも家の中で生活する分には支障もなくなっていた。昼間の夏廉はベッドから起きてリビングのソファーに座って冬耶が家事で動き回るのを見ていた。冬耶も夏廉から目が離せないのでその方が良かった。
疲れて微睡んでいる夏廉の顔を監視するように見て、これじゃまるで赤ん坊の子守だなと苦笑する。本当なら笑ってしまうその状態を、けれど冬耶は笑えなかった。あの日から眠っている夏廉から目が離せなくなったからだ。
冬の夕暮れ、淡くなった光が微睡んだ夏廉の横顔を照らしていた。イエローからオレンジにと変えてゆく光の中で、冬耶は暫しその綺麗な横顔を見つめていた。その時、身じろいだ夏廉が微かに小さな声で
「ママ……」と呟いた。
「かれん?夏廉……起きて」
冬耶は夏廉を起こす。そのまま夢を見させておくのは危険なような気がした。こんな事がずっと続いている。
あれから夢は何度も見ているようで、でも目覚めると本人が覚えてないので確かめようがない。どんな夢なのか?夜も昼も、冬耶の神経は休まらなかった。
「なぁ、何か不安なんだろ?」
そんなことが続いたある昼食の後、夏廉の隣に座って冬耶は尋ねる。夏廉は何も言わない。
「もう、いい加減にしてくれないか?おまえはいいよ、何でも俺のことがわかるんだから。だけど俺はおまえのことがわからなくて、どうすればいいんだよ。何も言ってくれなきゃ、わかんないだろっ?」
体力的にも限界だったのかも知れない。そんなことを言うつもりではなかったのに、いつの間にか夏廉を責めるような口調になっていた。
ここへ来てから夏廉がずっとおかしいのは感じていた。それに加えてあの夢だ。いくら本人が覚えていなくても、異常なのは間違いがない。
こんな事が何日続いているだろう。なにか自分で気づいてることがあるはずだ。単に体調が悪いだけなのか?冬耶にはもうこれ以上何が何だか解らない。言葉が非難するように強く出た。
「自分一人だけがわかってるのはやめてくれないか?俺を振り回すのはやめてくれ!俺に何も言う気がないなら……俺はおまえと違って相手の心が読めないんだからわからないよ。俺が必要ないなら、俺の助けがいらないなら、俺はもう……」
はっとして言いかけた言葉を止める。言いたいことはそんな事じゃない。
「もう?」
夏廉の瞳が冷たく光って揺れていた。冬耶はここ何週間か不安に思っていた気持ちを見透かされた気がした。
「い……ゃ……俺どうかしてるんだ。そうじゃなくて、ごめん、聞かなかったことにして」
夏廉をまともに見られずに俯いた。
「できないな。聞かなかったふりなんて出来ない。おまえが言ったんだ、もうって。はっきり言えよ!もう俺のそばにいるのが嫌だって事か?そうなのか?ずっと、ずっといるって。傍に居てくれるって言ったのに。おまえのこと信じてたのに。俺は初めて……おまえのことだけ信じたのに」
予想外に激しい夏廉の反応に冬耶は慌てた。
「ごめん、違うんだってば」
「違わない。おまえ……おまえいま本当にそう思ってただろう?」
冬耶ははっと、胸を突かれた。こんな時にはっきり言い当てられて、言い訳の言葉もない。
「嘘つきだなおまえ」
もう一度冷たい瞳で見て立ち上がった夏廉が蹌踉めいた。慌てて支えようとした冬耶の腕を振り払って
「さわんな!」
冷たい瞳と声で言われた。そのまま夏廉は壁づたいに体を支えながら、二階へ上がってしまった。取り残された冬耶は、夏廉が座っていた場所で項垂れていた。
膝に滴がこぼれた。なんであんな事、そんなことが言いたかったわけじゃないのに。
本心で、深いところでそう思っていたわけじゃない。疲れてたんだ、自分なんかもういらないんじゃないかって、心によぎっただけなのに。よりによってそこを読まれてしまった。
でも、首を振る。そうじゃない、自分が悪い。疑うようなことを言ったのは自分だ。ずっと抱えていた不安を全部夏廉のせいにして、彼を責めたのは自分だ。
どんなに後悔しても、こぼれた砂は元には戻らない。夏廉のことを誰でもない、自分が傷つけた事が許せなかった。
夏廉は目眩のする体をやっと引きずってベッドへ倒れ込んだ。何を言われたんだっけ?頭の中がぐちゃぐちゃで何だか解らない。
ただ一瞬強く感じたのだ、あの時冬耶は夏廉のことを拒絶していた。何に対してなのかわからない、夏廉もこのところ神経がずたずただから相手の思考も弱くなっていて上手く読みとれない。
もともと読まない習慣になっている冬耶の感情だが、でも一瞬確かに強く自分に向かっていたのは『マイナス』の感情だった。それは『不信』なのか『不満』なのか『不安』なのか?
でもそんなことはどうでもいい、冬耶が……自分が初めて心を預けた人間が自分を拒否したことに変わりはない。
あれほど、信じていたのに。彼だけが支えだったのに。誰を信じることも怖くて、だから誰も信じなかった。信じて裏切られたら、自分は立ち直れないのがわかっていた。きっと相手をどこまでも憎んでしまう事も。
だからどんなに孤独でも誰も自分に寄せ付けなかった。相手の気持ちが手に取る様に分かってしまう以上、不信感は疑いではなく夏廉にとっては事実だ。だから誰も愛さない、ずっと決めていた。
でも冬耶は……ずっと真っ直ぐな心で愛してくれたから。どんなに遠ざけても、いつでも夏廉を包んでくれたから。だから夏廉も心を許した。
やっと見つけたと思った。自分を預けられる相手。でも彼もけっきょく他の人間と一緒だった。夏廉のことを疎ましく思うのだ。
これからどうしよう?初めて夏廉は心細い思いを感じる。誰も信じない時の夏廉は強かった。自分しか居ないから、何も恐い物もなかった。
周りを拒絶している間は、誰も夏廉を傷つけられる人間など居なかったのだ。
だが─────誰かを愛すると弱くなるのだと夏廉は知った。小さな時から孤独などなんとも思わなかった。寂しいなどと思ったこともなかった。でもそれは、初めから知らなかっただけなのだ。愛されたり守られたりしたことがなかったから、優しくされたことがなかったから、そういう感情が夏廉に欠落していただけだった。
冬耶と出会って教えられ、彼に寄りかかる安心を覚えてしまった自分はもう以前の自分ではない。今まで誰にも注がれなかった分、夏廉の情愛は深い。多分冬耶が感じている以上に。だが一度心に広がった染みは消せないことを、今までの経験から夏廉は知っている。
夏廉が一度疑ったら、もうその人間に心は許せない。もっとも今まで本気で信じた相手など居なかったが。でも冬耶に対しては……今のこの苦しさからどうやって逃れよう?自分の縋っていた物がなくなってしまった。
『信じてたのに』同じ言葉ばかりが繰り返される。涙が止まることはなかった。これからどうやって生きていこう?いつの間にか自分はこんなにも弱くなってしまった事に気づかされる。
彼がいないと生きていけないなら、もう生きていかなくていいのかも知れない。ずっと前に決めていたのだから。冬耶と離れるときは死ぬときだと。それがこんなに早く来るとは思わなかったけど。
今は体が重くて起きあがることもできない。頭の中の考えは、先に進まなくて自分に何が起きているのかよくわからない。もう体も思考もバラバラで、自分の物だと認識することも出来なかった。
冬耶はずっとぼんやりしていた。涙はいつの間にか乾いていた。二階の気配を伺ったが、見に行く勇気はなかった。それでも
「仲直りしなきゃ、許してもらわなくちゃ」
冬耶はそう思った。でも今は勇気がない。どんな顔をして向かい合えばいいのか?自分が伝えたいことはあんな事じゃなかった。
夏廉が大事だった、自分なんかよりずっと彼の方が大事だ。彼のためなら何でも出来る。その気持ちに変わりはない。
日の傾き始めた室内。冬の日差しは短い。夏廉に話し始めたのは昼食の後だった。まだそれほどは遅い時間ではないはずなのに早くも夕方の兆し。
ふと、夕食のことを思い浮かべた。そうだ暖かくて美味しい物を作って二人で食べよう。 そして今度こそちゃんと話そう。
買い物に行くことを思いついた。材料を買いながら、少し自分も頭を冷やそう。ちゃんと考えをまとめて、夏廉に話さなくては。
夏廉に黙って外へ出た。彼が下へ降りてきたときのためにメモだけを残して。
今日は久しぶりに青空だった。
冬の綺麗な青空が、黄昏に向かって色を微かに変え始めていた。久しぶりに見る色だった。
「こんな日に喧嘩なんてダメだよな」
自分の気持ちだけで精一杯の冬耶には、夏廉がどれくらい思い詰めているかなどという思いには及ばなかった。
その事を後悔した。夏廉を疎ましく思う事なんてあるはずないじゃないか。冬耶にとって夏廉は自分の命よりも大事なのに。ただ不安な気持ちがお互いに行き違っただけなのだ。
夏廉だってちゃんと話せば判ってくれるに決まってる。長い冬の夜を美味しいものを食べながら夏廉と温かく過ごしたかった。
「なにを食べさせて上げよう」
あれこれ考えを巡らせながら、冬耶は薄暗くなり始めた道を急いだ。
夏廉が重い体を起こして下へ降りたのは、もう太陽が地平線に沈み始めた頃だった。あまりに静かな下の様子が気になって降りてくると、ひと気がない。オレンジに染まったテーブルの上に、メモがあった。
"夕食の買い出しに行って来ます、後で美味しい物食べよう。ちゃんと話して仲直りしたい。さっきはごめん、夏廉が好きだよ"
『夏廉が好きだよ』その文字を見たら涙で霞んだ。好きだよ冬耶、なのに何故?
テラスの窓を開いて外に出る。薄暮が海の色も変えていた。海は何度その色を変えるのだろう。天気で、時間で、季節によって。
人の気持ちもそうやって変わってゆくものだ。同じ所にとどまるのは無理なのかも知れない。夏廉は簡単に人の心が読める故に、人の気持ちを推し量ることが苦手だった。
そんなことをしなくても、相手の気持ちはストレートに分かる。いつだって自分がその気になれば、わからないことなど無いのだ。
だったら……なぜ冬耶の気持ちには踏み込めないのだろう?それは?
彼の気持ちを読まないのではなくて、知りたくないのだ。彼の気持ちに変化が起こるのが恐いのだと気づく。自分は今まで誰にも愛されたことがないから、愛される自信がない。真っ直ぐに向けられた冬耶の気持ちが、いつか自分から逸れて行くのを確かめるのが恐いのだろう。
自分の気持ちも恐かった。こうやって彼以外、目に入らなくなる日が来るのが恐かった。それは夏廉がよく知っている感情だ。独占欲。それが醜いものだと知っている。
自分には今まで無関係なものだったから、そう言う感情を軽蔑していた。もっと知ってる、嫉妬、猜疑心、妄執、固執、執着。独占欲。醜い感情の羅列。今まで自分とは無関係で、自分がもっとも忌み嫌っていたマイナスの感情だ。
だがひとつ言える。夏廉もまたそういう普通の感情を持つことが出来るのだ。今までそういうものを知らなかったのは単にそういう相手に巡り会わなかっただけと言える。思わず泣き笑いの表情になる。皮肉な顔で笑った。
「なんだ、俺ってそこら辺にいる普通の人間と同じじゃん」
そう思って初めて気づく。自分は普通じゃないと思っていた。他の人間とは違う、そう思っていたのだ。
もしかしたら?夏廉はそこまで考えてショックを受けた。
「俺って、サイテー」
その場にそのまましゃがみ込んだ。身動きできない程ショックだった。 いつの間にか自分は周りの人間を馬鹿にしていたのだ。自分の感情をコントロールできずに、醜い姿をさらす人間を。
そしてそんなものに無縁な自分だけが、優秀なものであるような錯覚になっていたのだ。他人の気持ちを読んでは、馬鹿にして見下していたことに気付く。自分以外を上から見下ろしているような気になっていたのだと思う。自分はそんなに立派な人間なのか?
周りから、疎外されているうちにいつの間にか自分が周りを疎外してきたのだ。他人から気味悪がられ、迫害されているうちに自分だけが彼らと違い醜いものとは無縁な、まるで高等な生き物のように思いこんでいた。
『自分は違う』自分を差別していたのは他ならない彼自身だった。とんでもなく傲慢な奴なのだと気付く。多分冬耶に対してもそうだったのだろう。
思えば、冬耶に自分から優しくしたことなど無かった。甘えさせてくれるから甘えていただけで、自分から彼に与えたものなんて何もない。
いつでも彼に包まれていたのに。
ふと寒さを覚える。風が冷たくなって、心細くなる。冬耶が隣に居ないから。熱が引いたばかりなのにこんなふうに冷たい風に当たっているのを知ったら、きっとすぐに文句を言いに来る。
まるで母親みたいだ。そう思って可笑しかった。自分は母親が居なかったのに、冬耶を母親みたいにうるさいと思うなんて。
今までどれだけ大切にされていたのかと、改めて思った。自分のことよりいつも夏廉のことを心配していた。それなのに……謝らなければいけないのは自分の方だと夏廉は気づいた。
相手を責めるだけで、冬耶の気持ちなど知ろうともしなかった。ここ最近、ちゃんと会話すらしていなかったことを思い出す。
「ごめんな、冬耶」
部屋を暖めて冬耶を待っていてあげよう。それとも途中まで迎えに行こうか。もうすぐ帰ってくる。冬耶の笑顔を思い浮かべた。それは温かく、夏廉の一番大切なもの。そう思ったとき、
「かれんっ」
そう呼ばれた気がした。振り向いたけれど冬耶がまだ帰った様子はない。
「気のせいか?」
そう思って部屋に入ろうとしたとき、突然夏廉の全身を痛みが貫いて身体が硬直した。
「な……に?……」
ひとりで立っていられなくて、窓枠にしがみつく。馴染んだ痛みではなかった。頭の上から足の先まで引き裂かれるような痛みだった。
「ぅ……ぅ……」
声を押し殺してそれに耐える。掴まっているのに痛みで力が抜けてずるずると体が滑り落ちる。気が遠くなりかけた。しっかりしないと倒れたらダメだ。自分の意識を保たせようと必死になった。
これはなんだろう? めまぐるしく考える。今までの記憶を辿る。今までこんな事はなかった。知らない、経験したことがなかった。
そう思いめぐらすうちに……否、あった!思い出した。どうしよう?思い出して転がるように外へ出た。
「トウヤっ!」
足元がおぼつかない、上手く走れなかった。病み上がりで体力がない上に、今の痛みが残る。この痛みは。
あの時─────以前あの男に冬耶がめった打ちにされたとき、同じように夏廉に伝わった衝撃を思い出した。同調したのだ、冬耶が自分を呼んでいた。それに自分の意識が重なった。
冬耶に何かあった!そう気付いて反対に呼びかける、なのに返事がない。取り乱しているから、集中もできない。声に出して叫ぶ、
「とうやぁーーっ!」
正体の分からない不安だけが焦らす。なのに、病み上がりで体力のない体は思うように動いてくれない。いつも買い物に行く店は田舎にしては大きな通りの向こう側。歩いて二十分くらいの所だった。
ずっと寝付いていた夏廉は久しぶりに向かう。けれどこんなに遠かったっけ?いくら走ってもたどり着かない、息だけが上がって苦しい。
いつも冬耶と二人で歩く道だった。見慣れた町が、夕闇に沈みかける。
そして通りを走る夏廉の瞳に飛び込んだのは、倒れている冬耶と数人の人だかり。
「冬耶っ!」
転ぶように駆け寄った夏廉に顔なじみの店主があわてて抱き留める、
「今、救急車呼んだから、はねられたんだよ車に」
そう夏廉に話しかけたが、半狂乱の夏廉には聞こえなかった。血だらけの冬耶を抱えて名前を呼び続けたまま、救急隊が来てもその体を離そうとしなかった。
病院について冬耶が手術室に運ばれても、夏廉はそのドアにしがみついて泣き叫んで離れない。看護士が見かねて、ずっと付き添う羽目になった。放っておいたら倒れるまで泣き叫んでいるに違いない。
何度言葉をかけても聞こえないようだった。死人のように青ざめた顔と大きく見開いたまま何を見ているのか焦点の合わない瞳はそれだけで彼が正常な状態でないことを物語る。
怪我人の生死も今はまだ不明だが、目の前の彼もこのままにしておいたら危ない気がした。けれどそんなことには構わずに、夏廉はずっと冬耶の名前を呼び続けていた。
手術をしているのだから麻酔で意識がないのはわかっている。それでも呼び続けた。返事がないのが不安で仕方がない、探っても冬耶の意識に届かない。きっとこのまま彼は死ぬんだ。不吉な思いが夏廉にまとわりついて離れない。
彼が死ぬ─────
死ぬのは自分が先だと思っていた。自分が死ぬことは考えても、冬耶が死ぬことなど考えたこともなかった。置いて行かれる。今度こそ本当に置いて行かれる。彼が遠いところに行ってしまう。
嫌だっ、そんなの絶対に嫌だ。全身で拒否しているのにそれが事実になるのだと、答えない冬耶の意識が夏廉にそう告げている。探っても届かない冬耶の意識が、遥に遠く小さくなっていくのを夏廉は止められない。
「いくなよ……俺を置いて……」
その声ももう届かない。誰かが自分の傍で呼んでいる。それでも夏廉は、厚いドアの向こうにいる冬耶を呼び続けた。けれどどうしても届かないと知ったとき、夏廉は絶望した。呼びかける力はもう限界だった。
「ひとりで行くなよ」
泣いてももう遅い、そう思ったとたんに自分の意識が遠のくのを感じた。喧嘩なんかするんじゃなかった。途切れる意識の中で後悔だけがあった。




