風紋の章
弱い心をねじ伏せると
心に穴があくんだ
そこから赤い血が流れ出す
自分を守るためには
君でさえ傷つけなきゃならない
僕はそんな自分が許せない
だからまた僕は血を流す
そしてまた弱くなってゆくんだ
夏廉は今日も海を見ていた。波の届かないところに座り、ただぼんやりと過ごしていた。
ここへ来て忙しく動いたのは、あの家を整えて回った一週間だけで、その後はずっと何をするでもなくぼんやりしていた。こんなに何もしないで暮らしたのは初めてだった。
のんびり……と言う気分なのではない。正直言って何もする気が起きないと言った方がいい。それはあのことも原因ではあったけど、それよりも何処か身体が怠かった。
最初の一週間はそれほどでもなかったのに、ここへ落ち着き始めた頃からどことなく体が怠くなり、それに連れて頭の中も何処かぼんやりしていた。それは霞がかかったようでもあり、眠いような感じでもあった。すっきりしている時間と交互にやってきているようで、はっきりしないときは思考を保たせるのにかなりの努力がいる。
次第に無口になっている自分には気づいていたが、仕方がなかった。冬耶が変に思っているのもわかっていたが、こんな自分の状態を話しても心配させるだけだと思う。
意識が集中できないから、冬耶に意識も送れない。だが此処に来てからはずっと一緒にいるのでそんな物は必要ないとも思う。冬耶はずっと夏廉のそばにいてくれた。
ここでの冬耶と夏廉の思い違いは、夏廉が冬耶の心を今では殆ど覗かないことだった。夏廉はどこかで冬耶とは普通に接したいと思っていた。覗くことは簡単だった、覗かないように努力しているのだ。
夏廉は冬耶と同じでいたいと思った。冬耶が夏廉のことを何も知らなくても愛してくれているように、自分もそうしていたかった。冬耶の心を覗き見するようなことはしたくない。
夏廉が冬耶に寄せている信頼の気持ちはそれほど強い物だった。だからこそ、冬耶の気持ちが揺れていることなど夏廉は想像もしていなかった。
いつでも二人で居るのだから、それだけで何も必要ないと思ってしまったのだ。冬耶の心の不安など微塵も思いやってはいなかった。
それは今まで夏廉は言葉のコミニュケーションを必要とせずに生きてきたからだった。時には『言葉』にしなくては相手に伝わらないのだと、そんな簡単なことを知らないでいたのだ。冬耶もまた、夏廉の能力を過信しすぎて余りにも簡単で必要なことを忘れているようだった。
暖かい日差しだった、健康な人間でも眠りに誘われるほど、今日は風もなく波も凪いでいた。もう少しこうしていたい。だがあまりこうしていると、冬耶がまた心配する。必要以上に心配性の恋人の顔を夏廉は思い浮かべた。
微かに笑みがこぼれる。冬耶は夏廉にとってのすべてだった、冬耶が居てくれればそれでいい。他には何も望んでいなかった。誰にも邪魔されずに二人でいられれば。
その時夏廉はふとよぎったあの男の顔をあわてて振り払った。そろそろ昼食かも知れない、呼びに来られる前に帰ろうとしたとき、
「……い……って…………」
身に覚えのある激痛が頭をおそった。立ち上がりかけていた膝を砂につく。 頭を抱えてしばらくじっとしていた。それは長い時間だったのか、それとも一瞬だったのか。まだ痛む頭は、それでも顔を持ち上げられるくらいには回復した。
言いようのない不安を感じた。痛み事態は、馴染みのあるものだった。子供の時からの避けようのない痛み。だが、これは違う。
夏廉は痛みとは別にその意味を考えて青ざめた。昔から馴染んだその痛みの原因は、いつも周りの人間たちにあった。
だがここは─────夏廉は周りを見回す。ほとんどひと気のない場所なのである。だからこそ、ここを選んだのだ。人が殆ど寄りつかず、隣家もない。 ましてや、頭痛の原因である『負』の感情をはらってくれる冬耶がいつも一緒だった。
実際今も、この近くに人の気配はない。姿も見えない。そうなるとこの頭痛の理由はひとつだった。前々から気づいていた、でも本当の理由がわからなかったから考えまいとしてきた。
その事に気づいた頃に冬耶と出会って、はじめて『幸せ』と言う思いを知った夏廉には余計なことを考えたくなくてそれを避けてきた。
「とうとう来ちゃったか」
痛みで生理的に滲んだ涙を拭って顔を伏せる。まだ痛む頭を家の方へ向けた。もしかして冬耶に見られたかと思ったのだ。だが家から冬耶が出て来る様子はない。夏廉はほっとため息を付いた。
いずれ冬耶は気づくだろう、隠しようがない。でも一瞬でもそれを先に延ばしたかった。
「あいつが知ったら、悲しむ」
せっかく拭った瞳にまた涙が浮かんだ、心配そうな冬耶の顔も。
「もうダメかも」
冬耶がそこで聞いていたら怒りそうな台詞だった。震える手で砂を握りしめる。言いようのない怒りが浮かんだ。
「どうして」
自分が何をしたというのか、だいたい自分は何故生まれてきたんだろう? 冬耶と出会ってからは考えなかったその疑問は、物心付いたときから何万回となく自分に問いかけてきたものだった。
「このまま死ぬなら……」
生まれてこなければよかった。その言葉は涙で声にならなかった。冬耶に見つかる前に戻らないと。そう思うのに涙が止まらない。決して見られたくなかった、でも抱きしめて欲しかった。抱きしめられたらこの不安が何処かに行くかも知れないと思った。
昼食の準備をあらかた終えてしまった冬耶は夏廉が海を見ていたのと同じ頃、リビングの床に座り込み同じようにぼんやりしていた。自分は何のためにここにいるんだろう。相変わらず同じ質問を自分に向けては、出ない答えに苛立っていた。
「時間がありすぎるのかもな」
訳の分からない人間がいる、うるさい街の中で生きていた頃は生活に必死だった。まるで何かに追われているように、落ち着かない毎日を暮らしていた。夏廉と二人で自分たちの暮らしを守るのに必死だったのだ。
ここへ来てからは、幸せなことになんの雑音もない。この町の人間とは殆ど顔を合わさなかった。買い物に出た時くらいである。それでも余所から来た二人に余計な言葉をかける人間は少なかったし、顔見知りになった人も悪い人は居なかった。
安心して暮らしていたし、何よりも誰にも邪魔されることがなかった。尋ねてくる人間も居なければ、大声を出しても聞こえぬほど隣家は遠かった。
当然、夏廉に聞こえる嫌な雑音もこう離れていると、全くと言っていいほど聞こえないようだった。そのことに冬耶は何より安心した。自分がいつも隣にいればなおのこと、夏廉は安心できるはずだった。
でもここにいれば冬耶が居なくても大丈夫だろう。何も聞こえないだろうし、小さく聞こえるそれも波のうねる音に比べればよほど小さいはずだった。
「もう俺が居なくてもだいじょうぶだよなぁ」
ついそんなことまで考えてしまう。それもこれも、きっと無駄な時間がありすぎるのだ。確かに、ここへ向かったときは静かになりたかった。夏廉との暮らしを邪魔されたくなくて、こんな所へ来てみたかった。
だが落ち着いてみると、家事をすること以外冬耶にはすることがなかった。 食事の支度と洗濯くらいで掃除なんて二人だけだから殆ど汚れることがない。あっという間に終わると、もう何もすることが無くて、気が付くと夏廉はいつも海にいて、自分だけがこうやって時間を持て余しているのだ。
冬耶は決して真面目な人間ではなかったが、それでも普通のサラリーマンだった。ちゃんと時間に起きて仕事をして空いている時間には適当に遊びもした。遊びはともかく、こんなに長いこと決まった仕事をしないのは初めてだった。
夏廉のようにその日暮らしをしたことはない。今は家の心配がないので食べるくらいのお金はまだあった。だが、やっぱり働いた方がいいのではないか? 頭の中をぐるぐるとそんな考えが回る。
その時夏廉が帰ってきた。
「おかえり……ん、どうした?」
何だか顔色が悪いような気がする。そばに近寄ったとたんに抱きつかれた。
「どうした?具合悪いの?」
急いで夏廉の顔を覗き込む、しがみついた手を離させようとしたけれど、夏廉は離さなかった。
「大丈夫……大丈夫だから、もう少しこうしてたい」
その物言いが、らしくない気がしたのだが気の済むようにさせてやった。 背中を抱いてやると、小さくため息が聞こえた。
「俺でもまだ役に立つ?」
独り言のように小さな声でい言ったせいで、夏廉にその言葉は届かなかった。
「なに?」
聞き返した夏廉に
「なんでもないよ」
そう言って冬耶は微笑んだ。
風の音と波の音が高かった。昼間の静かな海が嘘のようだった。いつの間にか空は曇り今晩は星も出ていない。窓の外は暗い空と海が続いているんだろう。空と海の境も見えない真っ暗な世界だった。
それは夏廉に「死」を想像させた。思わずベッドの中で冬耶にしがみつく。 夏廉の体にキスを降らせていた恋人の動きが止まった。裸の胸を合わせたまま冬耶も恋人の顔を覗き込んだ。
ほとんど暗闇の、それでも薄明かりが届くなか、夏廉の大きな瞳は見開いたまま窓の方を向いていた。
「なに見てる?」
静かな問いかけも聞こえないようだった。いったい何を?どこを見ているのか。
ここ数日夏廉はおかしい。そして何回冬耶が問いかけても答えようとはしなかった。そんな夏廉に冬耶は苛立つ、自分に心を開こうとしない相手に怒りに似たものまで感じていた。何を見て何を感じているのか?それを答えようとはしない相手。
自分の腕の中にいながら何度問いかけても自分を見てくれようとはしない。 その苛立ちに我慢できずに反応のない恋人の体を乱暴に貫いた。
「あっ……」
仰け反った背中を抱きしめて聞いた。
「おまえ、いったい何を考えてるんだ」
強引に自分の方を向かせて、唇を塞いだ。怒気の混じった瞳で見つめられても、夏廉に冬耶の怒りは通じなかった。ガラス玉のような瞳は見開いたままだった。何かに怯えたように、一点を凝視している。
夏廉は目を閉じるのが怖かった。あの暗闇が自分を飲み込みそうで。瞳を見開いたまま恋人の背に腕を回してしがみついていた。
終わった後もしがみついて離れない、いつもと違う夏廉が気になりながら、冬耶はもう無理矢理聞き出すのを諦めていた。喧嘩などしたくはない。
「なぁ」
腕に抱えた彼がわずかに動く。
「俺、働こうかな?」
返事はない。
「ここにじっとしていてもすることがないんだよ、退屈だし」
余計なことばかり考える、とは言わなかった。
「なぁいつも行くコンビニでも……」
「だめだっ!」
思いの外、きつい口調だった。冬耶は言葉を飲む。
「絶対ダメだ!」
「なんで」
「まだしばらく暮らすくらいの金はあるだろう」
「そうじゃなくてさ、俺、ここにいてもすること無いじゃん」
「俺だって同じだ」
「そうだけど」
「おまえ……」
「なに?」
俺のそばにいつも居てくれるんじゃ……と言う言葉を夏廉は飲み込んだ。 冬耶には少しもここでの暮らしの危うさがわかっていないようだった。
一見穏やかで平和な暮らしがとても危ういものだと言うことが。普通に暮らしてきた彼には、夏廉がいつも感じている『危険』など縁のないものなのだ。だからあの時一緒に暮らすのは無理だと言ったのに、今更ながら冬耶と自分の違いに距離を感じる。
「何でこんな所に来たんだ?」
「なんでって」
確かにもう都会から離れたいと言ったのは冬耶の方だった。
「俺がなんでいつもあんな所に住んでいたか、おまえには話したことあんだろ」
「わかってるよ、でも別にここにいても問題ないじゃん、それに働きに行くのは俺だし……」
「おまえは、わかってないっ!そんな単純な事じゃないんだ!」
「そんなに難しく考えなくても」
「退屈って……俺のそばにいるのがそんなに退屈で嫌なのかっ」
「そうじゃないよ、ごめん、言い方が悪かった。だから俺は……」
「もう、いいっ!!」
冬耶の腕を思い切り振り払うと夏廉はベッドから飛び出してしまった。
階段を駆け下りる音がする。冬耶は途方に暮れて、思い切りため息をついた。
夏廉はテラスに通じるリビングの大きな窓のそばでほとんど裸の状態のまま、暖房も明かりも付けずに床に蹲っていた。シャツの上着を肩に羽織っただけだ。
冬耶は暖房のスイッチだけを入れると、持ってきた毛布の中に夏廉と自分を包み込んだ。
「寒いのになにやってんだよ」
驚くほど冷たくなってしまった夏廉の体を抱きしめた。
「行ったらダメだ……」
それがさっきの話の続きだと気づいた。ふっと再びため息が出たが、
「わかった、行かないよ」
冬耶がそう言うと、夏廉が確かめるように見上げる。
「行かない」
冬耶は夏廉の瞳を見てもう一度答えた。
「…にいて…」
「なに?」
「……そばにいて」
「いるじゃないか、ずっとそばに」
らしくないな?冬耶は思った。
「なんかあったのか?」
腕の中の夏廉が緊張したような気がしたが答えはない。
「気を付けろよ」
関係ない答えに戸惑う。
「えっ?」
「あまりこの辺の奴らと親しくなるな。外へ出たときもなるべく言葉は交わさないようにしろ」
「なんで?みんないい人だよ」
無防備に聞き返した冬耶を呆れたように見返した夏廉の顔は、初めてあった頃を思い出させた。
「バカかおまえは」
何だかそんな言葉も久しぶりに言われた。
「相変わらずバカ正直なヤツだなぁ」
「なんだよっ」
少しムッとして冬耶が答える。それをなだめるように夏廉の手が伸びて冬耶の頬を撫でた。冬耶の首に抱きついたまま夏廉が言う。
「俺たちは此処に旅行に来てるんじゃないんだ、住んでるんだ。些細なことも疑問をもたれたらすぐにまたここを出て行かなくちゃならないじゃないか、この家だってどうやって手に入れたかよく考えて見ろ。都会の人間と違ってこういうとこのヤツは親切だ、だから厄介なんだよ。親しくしたら最後、おれたちの生活に干渉される。俺たちがどういう人間かわかったら……」
「わかったよ」
「俺がなんであんな嫌な人間ばかり集まってる場所にいたと思うんだ、ろくでもない汚いヤツばかり……だがな、あいつらもそうだから誰も何も言わないんだよ、後ろ暗いとこがあっても何も言わないし、何も聞かない。綺麗な人間なんていやしなかったけど、俺はそういうところでしか生きられない」
「もう、わかった。俺が悪かったから、なにも言うなよ」
聞いていて切なくなった。わかっていたのに、夏廉がどんな寂しい生き方をしてきたか、だから守ってやりたかったのに。
「ごめんな、よく考えないで」
「ここは天国かも知れない、あんな汚い街に比べたら。でもその代わり違う危険がいっぱいなんだ。こういうところでは一人が変に思ったら、あっという間に噂が広まる。そしたら俺たちは……だから俺はこういうところには住めないんだ」
「来なければ良かった?」
冬耶の問いかけに夏廉は首を振った。
「いいところだ、だから平和に暮らしたい。できればずっと」
ずっと、と呟いて心が痛くなった。ずっと?いつまでだろう?せめてもう少しの間。もし終わるとしてもあんな汚い街よりは、この静かな場所を最後の場所にしたかった。
「そうだな、ずっと居よう。もしもの時はまた探すさ」
不安な夏廉を知らずに冬耶が答える。恋人を気遣うように冬耶の唇が降りてきた。夏廉は嫌な考えを思い出したくなくて自分から彼の頭を引き寄せた。外の暗い闇の中で、波の音だけが荒々しく響いていた。




