異邦人
注)執筆時期が古いので、現代に合わない表現になっています。
「……あぁぁ……トウ・ヤ……」
息とも声ともつかない夏廉の声を聞いて、冬耶の頭の中も空白になる。ベッドの上で泳ぐ夏廉の手を握ったときに、更に快感が襲った。
なに?コレ―――
考えのまとまらない頭で答えを探す。なんだかいつもと様子が違った。
もしかして? 夏廉の感情か?と気づき、そのとたんにまた思考が途絶えた。強すぎる快感は冬耶の思考を奪う。いまはそんなことはどうでもよかった。
初めて会ったときから、なぜか夏廉は冬耶のそばでは他人の感情の雑音が聞こえなかった。理由はわからないが、冬耶はその事に感謝している。夏廉が自分に興味を持ったきっかけを作ってくれたからだ。
そうでなかったら話すチャンスさえ夏廉はくれなかっただろう。夏廉の「客」にならない限りは。
冬耶と二人で暮らす部屋は夏廉にとって随分と静かなのだそうだ。普通の人間と変わらない感覚らしい。気持ちが通じるに従って夏廉は冬耶に警戒心を解き、同時に自分のバリアーを少しずつ外し、次第に冬耶を全面的に受け入れてくれた。
特にベッドの中では体が近づいている分だけ、二人の感情が重なっているのが最近は冬耶にすらわかるようになった。夏廉は冬耶に心を開いている分だけ、冬耶自身の感情も快感も全て受けいれるようになった。そのことを以前、どんな感じなんだろう?とふと思ったが、それは想像でしかなかった。
そして今日初めて心に直接話しかけられた。夏廉の声が聞こえることがわかったときは驚いたが、同時にすごく嬉しかった。冬耶は夏廉に隠すものなど何もないと思っている。確かに知られたくないものはある。冬耶だって人間だ。
でも夏廉に隠すものは何もない。どんな自分でもそれが冬耶自身だから、出来れば夏廉にもそのまま受け止めて欲しかった。夏廉に心を晒していることは、何よりも愛と誠実の証になる。むしろ、冬耶は嬉しかった。
夏廉のことも同じようにすべてを受け入れたかった。けれど夏廉は冬耶のように単純な人間じゃない。生き方も考え方も、冬耶のように真っ直ぐではないことを恥じている。
プライドの高い夏廉は口にこそしないが、その事は言われなくても冬耶は感じていた。『気にしない』と言葉にするのは簡単だが、百パーセント気にしないなんて嘘だ。愛してるからこそ気になるし、苦悩もする。
だから冬耶は何も言葉にしない。したら最後、心に綺麗事や欺瞞の片鱗が浮かぶことを夏廉はすぐに見抜くだろう。
言う必要はない。ただひたすら夏廉を大事にしたいと思う気持ちだけ伝われば、あとは必要ない。冬耶の夏廉への愛情はそのままの姿で夏廉が感じてくれるのだから。
夏廉があんなに嫌がっていた能力を使って冬耶と繋がりを持とうとしてくれてることに、冬耶は感動した。それだけ信頼されている。まるで野生の生き物のように、生まれてから一度も他人を自分の中に入れたことがないのに。
冬耶は夏廉の「特別」なのだ。それだけで充分だった。
セックスの時にすごい衝撃で襲ってきたのは、多分夏廉の快感なのだ。冬耶がその時感じてるものを無防備な状態に自分を解放した夏廉は感じているはずで、今回それが冬耶に伝わってきた。そして冬耶が今回感じたものをまた夏廉は感じたはずで……考えると少し怖くなった。何度も増幅されるとそれはどうなるんだろう?果てがないんだろうか?
それは夏廉がその気になれば、誰とでもこんな風になれるんだろうか?以前もあっただろうか?冬耶の頭を、以前は誘われるまま誰とでも寝たと言う夏廉の事がよぎった。誰とでも? こんな風に?それは、嫉妬などと言う生易しいものではなかった。抉られたような痛みに一瞬、心が凍りついたかと思った。
当然、冬耶のそんな一瞬の気持ちを夏廉は感じた。根が素直な分、冬耶の感情はいつでもストレートだった。夏廉は大きな瞳を見据えたまま、冬耶を凝視している。冬耶は今まで熱くなっていた身体が、急に冷たくなるのを感じた。
それは自分の感情なのか、それとも夏廉のものなのだろうか。すでにどこまでが自分の感情なのか区別が付かなくなっている。
「ごめん」
冬耶は夏廉を見ることが出来ずに、視線を逸らした。気持ちが『見える』と言うことはすごく残酷なことだといま初めて知った。身体を入れ替えて夏廉が上から冬耶を覗き込む。
「オレは―――」
夏廉の声はさっきまでの行為のせいで掠れていた。
「オレはこうなるとわかっていてオマエに心を開いたんだよ。俺がお前に心を開くということはこうやってお前も余計な思いをするって事だ。でもお前はずっと俺の心が知りたいと思っていただろう?お前はテレパスじゃないが、俺が心を開いてその気になればお前にわかることもある。俺がお前に送る感情は感じられる。でもそれは俺がお前に心を開いているからだ。俺が心を閉ざせば、お前は何も感じることはない。嫌だったか?」
冬耶は首を振った。冬耶の長い黒髪がベッドに散っていた。出会った頃から少し長めではあったが、会社員だったからたかが知れていた。それを夏廉と居るようになってから伸ばしたままなのでかなり長くなってきている。
夏廉はその髪を長い指ですくって握ると冬耶の胸に頭を載せた。冬耶の心臓の鼓動が聞こえる。少し早いが正確な音。夏廉はこの音を聞くのが好きだった。
夏廉に対して清廉な心を持った男の鼓動は何よりも夏廉を安心させる。さっきまでの二人の熱い気持ちは、何処かへ消えていた。
でも、辛くはなかった。冬耶の少し恥じる気持ちと、暖かい気持ちが夏廉を包んでいた。冬耶は夏廉のことを決して疎んじてはいなかった。どこまでも夏廉を受け入れようとする強い心だけがあった。
その感情の流れに夏廉は感動する。どんな愛の言葉よりも。
夏廉は呟く
「俺、もう離れないから……お前が嫌だって言っても、絶対に離れない」
その夏廉の身体を下から冬耶の腕が思い切り抱きしめた。
「俺、店に行って来る」
「あぁ」
冬耶は一人で出掛けていった。明日には冬耶とこの街を出る。今日が最後だ。あの男の居ないところでまた初めからやり直せばいい。
夏廉も多少資金を稼いだ。これだけあれば当分は場所を探して落ち着くまで暮らせるだろう。
今度こそ、二人で落ち着ける場所を見つけたい。なのに、何かが夏廉の心に引っかかっていた。
夏廉はひとり残された部屋の窓辺で膝を抱えた。よぎる不安はなんだろう。
「俺は占い師じゃねぇ」
ましてや、テレパスであっても予知能力はない。
でも、なぜ。明日のことを考えるだけで、こんなに不安になるのは何故なんだろう。
明日がやってこない気がするのは何故なんだろう?気のせいだと何度自分に言い聞かせても、不安は消えなかった。
部屋から絶対に出るなと冬耶に言われていた。時間を確認する。今日は最後の仕事で終わりが早いので、冬耶はそろそろ仕事が終わるはずだった。
そう思ったら、じっとしていられない。部屋に居ろと言われたことも無視して夏廉は店に向かった。
店に入る―――――カウンターの中に冬耶はもう居なかった。仕事は終わってしまったらしい。だが店の隅に目をやると冬耶が居た。
ほっとして、後を追う。
冬耶は正面から入ってきた夏廉に気付かずに裏口から出て行くところだった。夏廉は追いかけようとしたが、さほど広いわけでもないのに、混んでいる店内を横切るのは人をかき分けなければならなかった。もちろん呼んでもうるさい店内では聞こえない。
冬耶を追いかけようとしたとき冬耶の後ろから店を出ようとしているあの男の背中を見た。
あいつ―――
あいつだ。夏廉は焦って追いかけた。同時に冬耶に呼びかける、『トウヤっ!気を付けろ、アイツだ』数秒がすごく長く感じられた。
夏廉が裏口から出たとき倒れている冬耶が見えた。男は、手に棒のようなものを持っている。後ろから殴りかかられたのに違いない。
「冬耶ッ!」
叫んで近寄って、抱き起こす。
「大丈夫だよ。 夏廉の声が聞こえたから避けた。背中で受けちゃったけど」
冬耶のシャツが破けていた。薄暗がりでも酷い打撲の痕がわかる。
少し離れて立っていた男が再び近づいてきた。気配に冬耶が気づいたが避ける暇がなかった。冬耶はそのまま夏廉を抱え込み自分の下にその身体をひいた。
「冬耶、やめろ、どけっ!」
夏廉の言葉が終わらないうちに、男が冬耶に向かって手にしたものを振り下ろした。冬耶の呻きと一緒に、夏廉に衝撃が来た。
背中から骨が砕けるかと思うほどのそれは、夏廉の呼吸を奪うほどだった。 それが自分に被さっている冬耶の痛みだと判るのに一瞬の間があった。
「殺してやる。 お前じゃなくそっちの男……お前から奪ってやるっ」
男は正気とは思えなかった。
何でこんな事。考えている暇はなかった。
男の殺気は間違いなくまだ冬耶に向かっていた。再び向かってきた男に向かって、夏廉は思い切り憎悪を向けた。いまの夏廉には冬耶を守るためにこんなことくらいしかできない。
ありったけのエネルギー。自分でもどうなるのかわからなかった。だが、もう冬耶を傷つけられるのは許せなかった。
これ以上何かあったら、冬耶は死んでしまう。何をどう考えたのかわからなかった。自分の頭の中は真っ白で空白の時間が訪れる。
意識が戻ったのは一瞬の後か?
気づいて記憶を取り戻す。
「冬耶……っ、大丈夫か?」
慌てて腕の中の冬耶を呼ぶ。うっすらと冬耶が目を開けた。
「あぁ、よかった」
安堵に涙が出そうだった。
「あいつ……は?」
冬耶の言葉にようやく思い出して、見回す。離れたところに男が倒れていた。夏廉の心が震えた。
恐い――――――
あの男の憎悪も、自分の気持ちも。
「どうしたんだ?」
冬耶の言葉に夏廉は首を振る。夏廉の感情に気づいた冬耶が気遣う。何が起こったのか冬耶にはよく判らない。自分が殴られて、それでどうなったのだろう?
夏廉は自分の下で動けなかったはずだった。なぜ男は倒れているんだろう。
「夏廉、ケガは?」
痛みに喘いでいるような声しか出ないのがもどかしかった。
「大丈夫、お前が庇ってくれたから」
「よかった」
「俺なんかのために無茶するなよ」
「夏廉を守るのは俺だけだろ?」
「バカ、死んだらどうするんだよ」
「夏廉に何かあったらどうするンだよ、俺は死なない」
「そんなことわかるか」
「死なないよ、夏廉をおいて死んだりしない」
冬耶が死んだらまた夏廉が独りになってしまうから。夏廉は言葉に詰まる。
「行こう」
冬耶の言葉に夏廉はあわてて彼を抱えてその場を離れる。あの男のことは振り向かなかった。
いつかと同じに二人の着替えだけを持ってすぐに部屋を出た。
明日の朝までなんて待てない。シーズンオフで人の少ない寝台車を選んでそのまま乗ってしまった。俯せに寝かせた冬耶の背中をタオルで冷やした。
「医者に見せなくて、大丈夫かな」
「平気だよ」
熱の出始めた冬耶が心配だった。だが平気でなくても、医者に診せられないのはわかってる。
「アイツ……死んだかも知れない」
夏廉が呟く。怖くて確かめることが出来なかった。気を失っていただけなのか、それとも。
自分でもいったいどんな衝撃だったのか想像も付かない。ただ身体が後ろに飛ぶくらいの衝撃だったのは確かだ。
冬耶が殺されてしまう、そう思ったからなのだが。冬耶の背中の傷を見て、あの男の事を思い出して、夏廉は両手に顔を埋めて震えた。信じられない、何でこんな事になってしまったのか。
冬耶は夏廉の手を取りしっかり握った。だいたいのことは夏廉から聞いた。
「夏廉は俺のためにしたんだよ、大丈夫、死んだって決まったワケじゃない。 もし……それにもしもそうだったとしても、誰にもわからない」
夏廉は顔を上げた。見たこともない、冷たい表情をした冬耶が居た。
「いいんだ、あんなヤツ。 俺達が殺されてたかも知れないのに。 夏廉が悔やむ事なんて無い。忘れよう」
そんなこと出来るわけがないのに。
「俺はアイツに同情なんかしない、お前がやってなきゃ俺が殺ってた」 表情も変えずに言う冬耶に夏廉は凍った。こんなに冷たくなれるヤツなんだ。何事にも無関心だったと告げた冬耶を思い出す。
冬耶にとって価値のあるものは夏廉だけなのだと思い知らされた。それは痛みと共に、どうしようもない甘美さも伴っていた。
「なぁ、このまま終点まで行こう?南へ向かって、都会にまぎれる前に少し何処かでのんびりしよう。それから先のこと考えて。なぁ?」
夏廉は頷いた、本当は笑おうとしたのだけれどそれは出来なかった。知らないうちに流れた涙は、抱き寄せられた冬耶の腕にこぼれた。
「大丈夫だよ、俺がついてるじゃん」
先が見えない事をこれほど不安に感じたことはなかった。
夢じゃない。現実なんだ。冬耶の腕を掴んだまま夏廉はまだ震えていた。
なんでもやってきた、人を平気で傷つけてきた。それでも人を殺したことはない。もしもあの男が死んでいたら。
「大丈夫だよ夏廉、俺が居るから」
冬耶の言葉だけに縋った。もうどこにいても冬耶が居なければ恐くて朝を迎えることもできないだろう。
お願いだから。夏廉はその存在を信じたこともない神に初めて縋った。冬耶だけは自分から奪わないで。
列車の窓に朝日が昇り始めていた。
二人は南へ―――――向かう。
第二部 完




