最終話
目を覚ませばそこは白い部屋だった。簡易的なベッドに寝かされて、血で濡れて破れ破れの服は清潔感のある服へと着替えさせられていた。まるで私が最悪へと落とされて、ハカセと出会った研究所ような場所だ。
戻ってきてしまったのか、と率直な感想を抱く。
何も成せずに。終わらせることも出来ずに。
体を起こすと部屋の扉が開いた。ビクゥッと体を揺らしながらも入ってきた人物を見る。
見覚えのあるコクジンと見知らぬ白衣を着たハクジンたち。近づいてきた彼らを力なく見上げる。
「俺と会うときはお前はいつもそんな表情だな」
「次は殺してくれる?」
コクジンに力なく微笑んで見せる。あの時と違い、コクジンはスーツを着ていないが整然とした様子は変わらない。
私の問いにコクジンは静かに首を横に振る。その答えに落胆したようにあえて見せた。コクジンにはそれを見抜かれているのか顔色一つ変えはしない。
「これからお前はここで過ごしてもらうことになる」
コクジンの言葉に拳を握り締める。
「心配をする必要はない。ここは以前お前がいた場所とは違う。お前が望むものはいくらでも用意するだろう」
「私が望むものなんて……」
呻くように呟く。
「もう、何もないんだよ」
コクジンは何も言わない。
「だから、せめて、ハカセと一緒に同じ場所であの子に終わらせて欲しかった」
その望みは叶わなかった。あの化け物に水を指されて私の望みは無理やり終わらされたのだから。
それでも、私は終わっている。例えそれが私の望む終わりではなかったとして、アレが私の終わりなのだ。
悉く、私の望みは叶えられなかった。最後の願いでさえ叶えることは出来なかった。これが人を踏み台にした私の因果なのだろう。
望むことすら間違っていたのかもしれない。
どちらにしろ終わった私が言えることなどない。私に残されたことなど、あと一つしかない。
不思議な感覚──残された一つは私が恐怖し、嫌悪し、この世で一番拒否していたことであるのに、今はこんなに落ち着いている。だからこそ、本当に私にはこれしか残されていないのだなと実感出来てしまう。
俯いた私にコクジンが口を開いた。
「リリー・コンファロニエーリについてだが、病院に運ばれて命にも別状はないそうだ」
目を見開きながらコクジンを見て、また俯く。
「だからといって会えることはない。何か伝えたいことはあるか?」
「ありがとう。そして、ごめんなさい、と」
声が震えていた。リリーに会いたくても、会えるはずがない。会うことができたとしても。とはいえ、会おうとも思わないが。
これが後悔なのだろうか。いや、未練であるのだろうか。納得しているはずなのに、もやもやとした気持ちが晴れない。残された道筋は一つしかないというのに。馬鹿だな、とつくづく思う。
「伝えておこう」
コクジンは淡々と言うと背を向けて部屋を出て行った。
残された私と白衣を着たハクジンたち。ハクジン男性たちはてきぱきと動き始めて、何かしらの機材を置いてそそくさと出ていく。ハクジン男性たちが出ていくと、少人数のハクジン女性がそれらの機材に触り始めた。
一人のハクジン女性が私に近づく。切れ長な目と後頭部でまとめた長いポニーテールが特徴的で私の目の前にイスを置き、座った。
「身体検査を行いますね。横になってリラックスしてください」
女性はとても優しく機械的な笑みを浮かべながら言った。私は断る理由もなく、言われるがままにベッドに横になる。女性は慣れた手つきで私の服をめくり、吸盤らしきものペタリペタリと付けていく。
「そのままじっとしていてくださいね」
「はい」と相手に合わせて答える。その様子に女性は何も反応を示す事なく、淡々と何かを読み取っていた。それに加えて、私にはあまり何の意味があるのかわからない作業を終えてハクジン女性陣は、最後に私の前に食事を置いて出ていった。
目の前に置かれている食事は良く言えば健康的に良さそうで、悪く言えばパッとしない。ただ出来立てなのであろう料理はおいしそうな香りが立ち込めている。
だけど、私はその料理を見るだけで手を付けようとは思わない。料理を眺めるだけでベッドに横になる。
私に食事を出す事は無駄なのだ。
ある程度の時間が経った頃、また身体検査をしたポニーテールハクジン女性が部屋に現れた。私が食事を手をつけなかった事に何か言うかと思ったが、ハクジン女性は手をつけていない食事を見ても何も言わずに食事を片付けて、そのまま出ていった。
何もいわないのか、と思いながら私は横になったまま、目を閉じる。
一人になった部屋で、何事もなく、そしてこの状況に何も感じていない事がすごく不甲斐なく思えた。これまで作ってきたハカセとの思い出も、リリーとの思い出も色褪せていく。全ての思い出がまるで一時の夢のように思えてしまう。
あれは夢で、これが現実。
それが私の中でぴったりと収まってしまう。なのに、ハカセが死んだ事も、守りきれなかった事も、リリーに怪我をさせてしまった事も夢であればいいのに、何故かそこだけはどうしようもない現実感が伴っている。確かに現実感が伴い、悲しく悔しく思っているはずなのに。
人として何かが足りないように思えてしまう。
リリーに対してはまだ嫌われたくないと思い、そして生きている事がわかって、本当に心の底から良かったと思った。でも、会いたいとは思えない。会いに行きたいという気持ちすら湧いて来ない。
一人がいい、と今は思っている。それが薄情で卑怯な事も理解していた。リリーをあんな目に合わせておいて、今は放っておきたいのだから。
本当に、本当に薄情だ。
それに加えてハカセの事──苦しくて辛くて悔しくて。ハカセに触れた感触が、触れられた感触が、ハカセが言ってくれた言葉が、笑い声が、悲しそうな表情が、優しい表情が、寝起きの顔が、笑顔が、今でもはっきりと思いだせる。しっかりと私の中に根付いている。
なのに、何も出て来ないよ、ハカセ。
涙すら出て来ない。今まで、ハカセにあってからというもの、ずっと泣いてばかりだったと言うのに、ハカセが死んだ事に対して涙が一粒も出て来ない。
あんなに大切な人だったのに。
本当に私は人ではないと思えるほどの薄情さに自己嫌悪に陥る。どうしてハカセが死んだと言うのに、こんなに落ち着いているのだろうと。
ただハカセの死を悲しんで、思いっきり泣きたかった。ただ、友達の事を想って心配したかった。
だと、言うのに──リリーの容態を聞いただけでほっと安心して、ハカセが死んだと言うのに感情が失せてしまったかのように涙も何も出て来ない。
だからこそ、私は人として出来損ないなのだ。
まだ、私と対峙したあの子の方が感情が豊かで人間らしい。いや、だからあの子が生きる方が良いだろう。あの子は私と違うのだから。
意識が遠くなる。こんな状況で平然と眠たくなる私はやはり人とは違う何かなのだろう。
「ね、ぇ──はかせ」
返ってくるはずのない言葉を放る。私の言葉はただこの部屋に霧散するだけだった。
寂しい、と思おう。この状況を、二度とできないやり取りを。まどろむ意識の中、せめての想いでそう決めた。
数週間──私は食事も水も取らずにこの部屋に居続けている。さすがに数週間何も食べないと、ここの研究所の人らに、食事を取るように説得された。だけど、私がそれを聞く気がないとわかると彼らは困り果てたように慌て始めた。日に日に衰弱していく私を見て、彼らも顔色を悪くしていく。そんな中でも私の世話をするポニーテールのハクジン女性は淡々と仕事をこなしていた。
困り果てた彼らが私に点滴を行おうと決めた、ということをハクジン女性が私に伝えた時、いつもの身体検査をしながら私の耳元で彼女が──
「死にたい?」
と、囁いた。ハクジン女性が言うとは予想だにしなかった言葉で、私は少しの間呆気に取られて遅れて頷いた。その頷きを見たハクジン女性は初めて機械的ではないふっと緩んだ笑みを見せて去った。
ハクジン女性の言うとおり食事から点滴に代わる。点滴を持ってきた彼女を信用して私は大人しく点滴を受ける事にした。「もう大丈夫」と彼女が言うことに安心して腕を出す。彼女の後ろの方ではここの研究員が心配そうな顔をしながらも、ほっとした様子だった。
だけど、私の衰弱は止まらなかった。彼女らが何かをしたのは明確だが、研究員達は気付いていない。
私が彼女に「何かしたの?」と聞けば、彼女は「いいえ、私たちは何もしていない。何かをしようとしたのは彼らの方」と返してきた。
日に日に力が入らなくなり、徐々に体もやつれ、肉付きも悪くなり皮と骨だけのように細くなった体は言う事を聞かなくなる。起き上がる事すらままならなくなって、挙句の果てに人工呼吸器まで取りつけられた状態になった。
ここに来てどのくらい経った忘れてしまい、目を開ける事さえも億劫になった頃。
「それがお前の選択か?」
久しぶりのコクジンの声を聞いた。目を開けるとそこコクジンの彼が立っていた。声を出そうにも喉が震えず、こくりと頷く。
「そうか……」
彼の言葉にも、吐く息でしか答えられないほどに私は弱っていた。
「ならば、アイツのためにお前はそのままその選択を貫け」
その言葉に私は安心した。あの子にもちゃんと心配してくれる人がいる。あの子を生かそうとしてくれる人がいる。私にとってのハカセのように、あの子にとって大切な存在になるかもしれない。そして、このコクジンならば私とハカセのような間違いに陥らない。きっとうまくやるだろう。
「…………あのこ、なまえ……」
振り絞った声でコクジンに聞く。もうあの子とも会えないだろうから、せめて名前だけでも知りたかった。それにもし名前が『チランウィワー』以外にないのならば、新しい名前をあげるようにコクジンに言いたかった。
「……本人から聞け」
コクジンが冷たく言うとそのまま背を向けて部屋から出ていく。代わりに小さな人影が入ってきた。その小さな人影は真っ直ぐに私の所に歩いてきて、私が横たわるベッドの傍で立ち止まる。私を覗き見るその顔は歪んでいた。怒りにも、悲しみにも取れる表情で。
「クソが……」
悪態をつく彼女に対等に並ぶように私は人工呼吸気を取り外して重い体を起こす。何度か体を起こす事に失敗しながらもどうにか起きあがる事ができた。そんな弱りきった私を見て、彼女はさらに表情を歪めて、言い放った。
「……ふざけるなっ…………」
これがきっと最後になるだろう。だから、私は怒りで震える彼女を見据え言った。
「……なまえを、おしえて」
私の言葉に飛んできたのは拳だった。頬に直撃して、視界が歪んだ。私は倒れそうになるのを彼女は私の胸倉を掴んで引き寄せた。久しぶりに口内に鉄の味がした。
「なんなんだよ、その有様は!」
彼女は怒っていた。何故彼女が起こるのかが理解出来なかった。彼女は私がこうなる事を望んでいたはずだ。例え、あの殺し合いが無理やり終わらされたものでも彼女の目的は達成されている。
だから、後は私の事を鼻で笑い、これからは彼女の思うように生きていけばよいのだ。それなのに──。
「どうして──?」
そんな顔をする。今にも泣いてしまいそうな、崩れてしまいそうな弱々しい表情を。
「どうして? どうしてだと? それを聞きたいのはこっちだ!!」
彼女が力の限り怒鳴る。そして彼女は痩せ細った私の胸に顔を埋めて泣いていた。
どうして彼女は泣いている?
「違うだろぉ。それはお前の役割じゃないんだよ。私はハカセを殺したんだぞ。お前からハカセを奪ったんだ」
理解できないまま私は頷く。
「なら、なんで憎まない? 殺しに来ない? 私はお前よりも弱いんだ。出来損ないなんだ。だから、殺して欲しかったんだ。どうして私を殺しに来ない? 何で出来損ないの私を殺さないんだよぉ」
「それは、ちがう」
彼女の発言に自然と言葉が出た。私の言葉に彼女は「え?」と不思議そうに顔を上げる。その瞳は怯えていた。私はその怯えを払ってやるように言う。
「あなたは私とは、ちがう。出来損ない、じゃない」
「何でそんな事が言えるんだよ」
「あなたは、つよいから」
「だからなんで──」
また泣いてしまいそうな彼女の言葉遮る。
「あなたはきっと、ハカセが、いなく、ても生きていけ、る」
意識がまどろむ。でも、途切れ途切れになってしまう私の言葉を彼女は真摯に聞いてくれる。
「あなたは、ハカセに、依存しすぎて、いないからだいじょうぶ」
「違う、違う違うっ。私はハカセに依存して──」
「でも、あなたは、いまも元気で、いる」
「それは自分で死ぬのが怖くて、だから──」
「それで、いいんだ、よ」
まどろむ意識の私は笑顔を彼女に向ける。私とは違う、と彼女に自信をつけてあげたかった。だから彼女に前を向いてもらうために、私は言葉を紡ぐ。
「私は、ハカセが死んで、じぶんで死ぬのが怖く、なくなった」
「それは──」
「私がハカセに、依存しすぎ、ている証拠。でも、あなたはちがう。あなたはじぶんで、死ぬのが、こわいおもってる」
何も言わずに俯いたと思ったら、彼女は消え入りそうな声で呟いた。
「──キティだ」
今度は私が「え?」と声を出して彼女を見た。
「名前、私の名前だ」
「かわいい、なまえ」
彼女──キティが少し顔を赤らめた気がした。キティが名前を教えてくれたのだから、私も名乗る。
「私は、フェリーチェ」
「……知ってる」
「あなたに、このなまえを、もらってほしい」
キティが顔を上げる。私は少し困ったような表情を見せる。
「迷惑なのは、わかってる。でも、私でおわらせ、たくないの」
ハカセからもらったこのフェリーチェと言う名前を受け継いで欲しい。キティにとっては迷惑だろうことはわかっている。でもここで、私だけで終わらせたくなかった。
私の最後の我が侭だ。キティが聞いてくれるかわからないが。
「わかった。その名前、もらってやる」
「ほんとうに?」
キティの返事のあまりの早さに聞き返してしまった。
「ああ……」
「ありが、とう」
心が落ち着く。キティに受け継いでもらえた。これでもう何もない。思い残す事も、何もない。あとはキティの幸せを願うばかりだ。
「フェリーチェ、は『幸せ』を意味する、ことばなの。『私はあなたが嫌い』とは、ちがう。ほんとうに、私の、ううん、私たちの『幸せ』をねがって、ハカセが考えてくれたなまえ。だから、つぎは、あなたの、番」
キティは涙を拭いて立ち上がった。キティに立ち上がった事で支えられた体が話され私は倒れそうになるが必死に堪えた。
「フェリーチェは幸せだった?」
キティの問いに私は笑顔で答える。
「幸せだったよ」
「……そっか」
キティが私に背を向けた。
「じゃあな、フェリーチェ」
その言葉を言い残し、部屋を出ようと歩き出した。扉に手を掛けた所で私も別れを言う。
「さよなら、キティ」
私の言葉に扉に手を掛けたキティが首だけで振り返った。
「違うだろ」
キティの言葉にくすりと笑う。
「そうだね。さよなら、フェリーチェ」
最後にキティが微笑み、片手を挙げて部屋を出て行った。
それを見送り、私はベッドに倒れこんだ。呼吸が弱い。ひゅうひゅうと抜けるような呼吸は元に戻りそうなかった。それにこれ以上体を動かす力も残っていなかった。
最後にキティの──フェリーチェの笑顔が見れてよかった。本当によかった。
それだけでも私は満足した。この世界に感謝した。
まともな人生ではなかったのかもしれないけれど、それでも幸せだと思える事がたくさんあったのだから。この世界で汚物のような生活も経験して、絶望も経験した。でも、ハカセとリリーとナミセ、そしてキティ──フェリーチェに出会えた。
この世界は本当にきれいで、汚くて、残酷で、そしてこんなにもやさしい。
ハカセ、私はあなたに出会えて幸せでした。
絶望の淵に立っていた私を救ってくれたあなたの事が私は大好きでした。
あなたの優しさ、あなたの温かさ、あなたがくれた言葉が全て愛おしい。
私はあなたが大好きです。
あなたの事を愛しています。私は──フェリーチェ・バローネはロレンツォ・バローネを愛しています。
こんな私を助けてくれて、本当にありがとう、ハカセ。でも、ごめんなさい。
私はあなたを裏切ります。こんな事、あなたが望んでいない事は知っています。でも、私はあなたのいないこの世界で生きていく事は出来そうにありません。
だから、ごめんなさい。
弱いままでごめんなさい。あなたを守れなくてごめんなさい。あなたにこんなにも与えられたのに、何も返せない情けない私でごめんなさい。
あなたの事を愛している。この事に嘘はありません。
でも、私はあなたと共にありたい。こうすれば、私はあなたに近づける気がするのです。
馬鹿な考えだという事はわかっています。
これが私の最後の我が侭です。
ねえ、ハカセ。あなたは私を許してくれますか?
つぅ──っと瞳から涙が流れた。
「やっと、泣けた」
一度流れ出た涙は途切れる事なく流れ続ける。
「やっと泣く事が、できたよ、ハカセ」
ハカセ、あなたがいなくなって私は悲しいです。辛いです。こんな別れになるとは思っていませんでした。
こんな時に限ってやっておけば良かったと思える事がたくさん出てくる。
一つはハカセが生きている時に言いたかった事。
「私は、ハカセの、ことが大好きです。愛して、います」
ハカセに一度も言えなかった言葉。ここになって言っておけばよかったと後悔する
でも本当の望みはただ一つ。
「ハカセと、一緒にいたかった、なぁ」
視界がぼやけ、意識があやふやになる。
これが本当に最後。
「ありがとう、ハカセ。私はしあわせ、だよ」
まどろむ意識に引きずられるように私は静かに目を閉じた。
その後、フェリーチェ・バローネは一度も目を覚ます事なく、静かに息を引き取った。




