第10話
「君を死なない体にしたのはこの僕だ」
その瞬間、男に飛び掛っていた。胸倉を掴んで押し倒し、拳銃を奪い取って男に突きつけていた。
「お前の、お前のせいで……私は──」
──死ねなくなった。
男は殺されそうになっているのに、表情一つ変わらない。それどころか私を見る目があの兵士と重なった。哀れな者を見る目。その目のせいで引き鉄を引くのを躊躇してしまった。
「撃ってくれてもかまわない。君に一つだけ聞きたかった。どうして君は自殺しなかったんだい? 聞いていただけでも君は頭が良いとわかる。君はわかっているはずだ。食事が出されていると言う意味を。君は理論上は不老不死に近い再生能力を持つようになったが、それは食事、睡眠を取る事が前提だ。睡眠はともかく食事を取らなければ君は確実に死ぬことが出来る。君は死にたかったんじゃないのかい?」
自殺。自分で自分を殺すこと。
その言葉でお母さんの事を思い出した。言い知れぬ恐怖、悲しみ、憎悪。そして拭いきれない罪悪感。
「自分で死ぬのは……怖い」
俯いて小さく震える声で言った。撃つ気力も失くし、突き付けていた銃も力なく下げていた。
怖い。死ぬ事は怖い。でも死にたい。生きるのが辛かった。
──お前なんか生まれてこなければ良かったんだ。
お母さんが自殺する直前に言った言葉。私は生まれる事を望まれてはいなかった。愛されてなどいなかった。お母さんは父親に孕まされただけ。でも、お母さんはハクジンに媚を売ったとしてコクジンから嬲られた。それにお母さんは耐え切れなくて自ら首を切った。刃がかけてぼろぼろな碌に切れないナイフを使って。苦しみの絶叫を上げて。
私はお母さんが死ぬまで必死に目をつぶって、耳を塞いで震えることしか出来なかった。今でもお母さんの死ぬ姿が目に焼き付いて、叫び声が耳にこびりついている。
だから、あんな死に方をするなんて怖くて出来なかった。
だけど、本当は生きる事も苦しかった。自分のことを他人事のように見ようとしても、それが自分のことには変わりなかった。他人事と思い込んでも、生きる苦しみはじわじわと私を蝕んでいった。
飢えが苦しかった。怪我が苦しかった。犯されるのが苦しかった。暴力を受けるのが苦しかった。
こんなにも苦しい事ばかりで、生きる希望なんてなかった。だから、私は私に有無を言わせないような誰かに殺されたかったんだ。
それでも子供たちの面倒を見るようになって、ここに来てここなら自分も変われるんじゃないかと思えたのに、待ち構えていたのは今までにないくらいほどの苦しみで。死ぬ事を殺される事を許されずに生き続けなくてはいけない体を与えられるなんて。
「それを聞いて安心したよ」
男の手がそっと私の頬に触れて涙を拭った。拭われて初めて泣いている事に気が付いた。もう涙なんか出ないと思っていたのに、この男にこうも簡単に泣かされてしまった。もしかしたらあの兵士も──とあの時引き鉄を引いた事に後悔が生まれた。あの兵士はやさしい人だったのかもしれない。
男は微笑んでいた。まだ希望があるというように。まだ遅くはないと安堵しているように見えた。
その表情がどれだけ私を苦しめるのか、この男はわかっていない。
「……だから、殺してよ。もういいじゃない、もう死んでもいいじゃない。ご飯なんて持って来ないでよ。ここにずっと閉じ込めていいから。逃げられない様にしていいから。無理矢理にでも餓死させてよ。もう苦しませてもいいから殺してよ……」
力無い声を出してぽたぽたと男の上に涙を落とした。男に対しての懇願であり、拒絶であった。
「それはできない。君は大切な研究対象であり、僕の最高傑作なんだ。でも、いつの日か君を元に戻して君の望む事をしてあげよう」
「本当に……?」
「あぁ本当だとも。約束しよう。僕は嘘をつかないことで有名なんだ」
「……約束」
「そう、約束だ。だから、君もその時まで頑張ってくれないか?」
元に戻す。本当にそんなことが出来るのだろうかと疑わしく思わざるを得なかった。でも、それが私にとっての一筋の希望だった。もし、この永遠の苦しみを終わらせてくれるのであれば、一時の苦しみなんてどうとでもなる。
「……わかった」
私は男と約束をした。男が約束を守らなかったら、その時は男を殺そう。そう自分に誓う。
私が男の上から退くと男は座りなおし、嬉しそうに笑って、手を打って仕切り直しだと言わんばかりに嬉々として声を上げた。
「そうと決まれば、まずは自己紹介しよう。僕の名前はロレンツォ・バローネだ。まぁ、名前ではなくて博士とか、先生とかで呼んで欲しい。さて、君の名前を教えてくれるかな? 1328番では味気ないからね」
私の名前。こんな私にも名前くらいはある。例え、お母さんに愛されていなくても。だけど、それは私にとって──。
『──私はあなたが嫌い』
「それはわかっているんだけど、教えてくれないかな」
男が苦笑いしながら言う。
「……チラン……ウィワー。私の名前はチランウィワー……です」
ぎゅっと胸が締まる思いで自分の名前を言った。
「そうか、わかった。──うん、わかったよ」
男の声が少し固くなった。それから、唸り始めたと思ったら、いきなり立ち上がって──。
「よし、僕はすることが出来た。だから今日はこれで失礼させてもらうよ」
と言って、部屋を出ようとした。その時に男があの拳銃を持っている事に気づいた。いつの間に取ったんだろう。自分の事に必死だったから気づかなかったのかもしれない。
「それ……」
私の声に男は気づいて、目線で察してか銃をふりふりして言った。
「これはもう君には必要ないだろう」
私はまだ何も言っていないのに、そう言って、そのまま部屋を出て行ってしまった。
男が出て行ったドアを眺める。
もう必要ない──本当に?
頭の中で繰り返される男の言葉でその日はあまり眠れなかった。




