「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」の感想 この作品は倫理ホラー寓話で踏み絵だ。
映画『ちいかわ』島編・個人的考察まとめ
映画『ちいかわ』の島編は、人間の罪と罰、復讐の連鎖、帰属意識、被害者意識を描いた古典的かつ普遍的な寓話だと感じた。
表面は「ナガノ節」全開の可愛らしい物語だが、構造を俯瞰するとかなり恐ろしいしとても面白い。
読者が誰に感情移入するかによって、見える被害者と見えなくなる被害者が変わる。
そのため、感想を語ること自体が、その人の視点や倫理観を露呈してしまう。
なるべく、原作と映画の描写のみから考察や感想を導き出した結果、その結論に至った。
※島民とセイレーンの、薄氷の上に成り立っていた共存については別途、感想があるがそこは除外する。
そのことなど、語り出すと今作やちいかわワールドについての感想や考察はキリがない。
神話的など別の視点の感想や考察もあるが、今回は「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」作品は倫理ホラー寓話で踏み絵だという話だけしていく。
☆
事件の始まりはセイレーンの事故
セイレーンはフタバに大怪我を負わせた。
ただし、これは故意ではなく事故である。
セイレーン自身は事故を認識していない。
巨大な生物であるセイレーンからすれば、人間との身体的なスケール差は非常に大きい。
人間が蟻を踏んでしまっても、それに気づかなければ謝罪しないのと同じで、セイレーンが事故を認識できなかったこと自体を、直ちに悪意ある加害とすることは難しい。
難しいというよりも、ルールのない海の中で、遊んでいたら他種族を傷つけてしまって、体が大きいので気づかなかったは、明確に悪意の無い加害だ。
罪はあるが、そこに悪意は無い。
人間社会の法律や倫理においては、故意=害意を持って行ったことと過失=注意義務を怠った、または不可抗力は区別されている。
今回の場合、ルールのない海という環境や、物理法則上の圧倒的なスケール差を考慮すると「過失」ではなく純粋な「事故」と言える。
もちろん、フタバには「大怪我をさせられた」という被害がある。本人や関係者が文句を言う権利は大いにある。
しかし、故意の事故でなおかつ認識すらしていない事故、と悪意ある加害は全くもって別物だ。
今作の踏み絵はまず、これについてどう考えるかである。
フタバの被害は、セイレーンとの事故は、物語の最後の方で提示される。
それと、ヒトハ視点に見えるようなもので描写された。
視聴者(読者)はその視点につい引っ張られてしまう。
これはおそらく、ナガノ先生の計算だろう。
この視点設計で釣られた者たちは、セイレーンが最初だから悪いと断罪しがちだ。
君たちは日々の生活の中で、悪意無しに他者を傷つけてしまった時に、被害者が報復してきて、自分ではなく愛する者を殺されても許せるのか?
私は許せないし、事故の場合は報復ではなく事故原因究明でどうにか溜飲を下げようと考える。
経験していないので、想像でしかできないけれど。
それに、事故について訴えた時の相手の反応で意見を変える。
ヒトハとフタバ視点に引っ張られ、彼らに同情心を抱き、セイレーンが最初だから悪いと断罪した者は、裏返すと下記の立場になることを、受け入れられるのだろうか。
悪意無しに他者を傷つけてしまい、被害者が報復してきた。自分ではなく愛する者を殺された。
しかし、最初に被害を出したのは自分なのだから受け入れる。復讐を行わず、怒りや悲しみと共に生きていく。
私はそんなことは出来ない。
声を大にして、悪意や明確な不注意ではなく人を傷つけてしまった罪は背負うが、愛する人を殺されるような報復は受け入れない。
被害を訴えずに、いきなり復讐されても、反省も謝罪も出来ない。
お前の復讐行為には、正当性がないと激怒する。
フタバは被害者。交通ルールなどない世界の海で、警戒心を抱かずに事故に遭うかもしれない場所に留まったという失敗を犯した。
セイレーンは加害者。ただし、そこに悪意はなく、明らかな過失もない。交通ルールなどない世界の海で、周囲を観察しない不注意さで他者を害した。
ちいかわの世界に法律なんて無さそうだが、自分たちの世界に落とし込んで感想を述べるなら、法律に当てはめてみる。
車がほぼ来ないからと道の真ん中にいたら、信号がないからと車が突っ込んできたようなもの。
被害者は道の真ん中にいるな、加害者は信号が無いからと観察を怠るなと非難されるだろう。
セイレーンの罪は「過失傷害」
フタバは即死していなかったので。死んだら「過失致死」だ。
車と人ではないが、そのようなものだとして、フタバに落ち度はあるので過失の割合は、セイレーン対フタバで、9対1か8対2か7対3といったところ。
フタバの関係者ヒトハが、セイレーンの愛する者を殺すまでの罪ではないことは確かだ。
改めて述べるが「セイレーンが最初だから悪い」とは「セイレーンは、ヒトハにコーラス人魚を殺されるほど悪い」という意味になる。
ヒトハとフタバ視点に引っ張られ、彼らに同情心を抱き、セイレーンが最初だから悪いと断罪した者は気づいているのだろうか。いや、気づいてないだろう。
これが、物語における視点マジックである。
ここまで分解して説明すると、セイレーン視点にも立つので、セイレーンが初めで悪いけど……ヒトハもヒトハで悪いよねという感想が出てくるはずだ。
もしくは、ヒトハの方が悪くない? という意見を持つ人もいるだろう。
そして、最初からこういう俯瞰視点で見ている者たちは、別の感想を述べている。
セイレーン視点で見ていた場合も、違う感想を語っている。
本作が「踏み絵」というのはまさにこの点のことである。
☆
客観的に指摘すると、復讐の連鎖の物語を始めたのはヒトハだ。
フタバは事故の被害者。ヒトハは事故そのものの被害者ではない。
ヒトハはフタバを心配する者として登場し、その後、怒りと憎悪から復讐を選択する。
ここが復讐の連鎖の物語の、最初の大きな分岐点だ。
ヒトハは、「フタバが大怪我をした。助けてください」とセイレーンに訴えることもできた。
セイレーンには会話能力があり、友好性も描写されている。
過失傷害事故について訴えれば、状況が変わった可能性はある。
でも、ヒトハは対話や懇願より先に復讐を選んだ。
おまけに、復讐の対象にしたのは事故の当事者であるセイレーンではなく、弱く小さいコーラス人魚だった。
図鑑に描かれていた人魚の姿はコーラス人魚のもの。しかし同じ尾を持ち、コーラス人魚と共に生きるセイレーンの肉からも「永遠の命」を得られることは推測可能だ。
しかし、ヒトハは「事故を起こした存在」への対話ではなく、無関係な弱者を殺す道を選んだ。
コーラス人魚の殺害は、故意ではなく自主的なもので悪意に満ちている。
事故に限ればフタバは罪なき被害者だが、コーラス人魚もまた、この事件における被害者だ。コーラス人魚は殺されたので、フタバと異なり加害者になりようのない、純粋な被害者として存在し続ける。
ヒトハは明らかにセイレーンたちに怯えて警戒して、近寄るのはやめようとフタバに訴えていた。
なので、被害を訴えることができた、恨むよりもまず対話ということは理想論でしかない。
おまけに、フタバは大怪我をしているので時間が無い。
ヒトハとセイレーンは同種族ではないし、畏怖の対象だ。さらに、普段から魚を食べているヒトハにとって、セイレーンや人魚は深層心理的には食物側の存在でもある。
絶望と憎悪によって、即座に復讐と「永遠の命」に望みをかけた心理は想像に容易いし、理解したり、なんなら同情・賛同してしまうだろう。
ただ、私はどうしてもヒトハの選択には引っかかった。
加害者への恨み、復讐心をセイレーンに向けたのなら理解を示すが、ヒトハは「加害者本人ではなく、加害者の大切な存在。小さくて弱い、殺しやすい者」を選んだ。
ヒトハの復讐心には、明らかに「自分と同じく大切な者を失え」という悪意があったと考えてしまう。
過失傷害(過失致死になりそうな事故)の被害者ではなく、関係者でしかないヒトハが、明確な悪意を持って殺人を犯す。
もう一度言うが、ちいかわの世界に法律は無さそう。なので人間(日本)の法律に当てはめてみる。
過失傷害(過失致死になりそう)な事故では、死刑にはならない。
復讐殺人も死刑にはならないが、過失障害(過失致死になりそう)よりも罪も罰も重い。
ヒトハとフタバは可哀想。セイレーンが最初に傷つけたから悪いよね。
こんな感想を見ると、「私はあなたの倫理観が怖いよ!」とゾッとする。
感想主の倫理観が恐ろしいのではなく、ナガノ先生が設計した視点誘導で見える世界に引っ張られているだけなので、怖いのはナガノ先生だ。
冷静に物語を分解することで自分でも気づけるようになっているが、そもそもナガノ先生が視点を中立にして両者の被害や訴え、感情を平等に描写していれば、違った感想になる。
なので今作は「踏み絵」であるだけではなく、引っ掛け問題みたいなものでもある。
ナガノ先生は読者を騙してはいない。軽く誘導はしているが。
自然に読者の感情を特定の人物へ誘導しながら、別の視点に立つための情報もちゃんと不足なく配置している。
読者自身が勝手に共感できる視点を選んで感想を述べて、自分と似た視点を暴露し、その視点で感じる倫理観も教えてしまうことになる。
怖くない?
☆
セイレーンの報復が始まる。
セイレーンによる島民への攻撃は、悪意ある加害行為である。
ただし、感想で見かける「無差別殺人」ではない。その表現では、物語の構造をかなり取りこぼす。
セイレーンは作中で、「犯人?」「探して」と犯人を探している。
セイレーンの島民への怒りには理由がある。
自分の仲間である人魚が殺された。だから、その犯人を探している。
ところが島民たちは、犯人が誰か分からない状態でも、犯人探しをしない。
セイレーンからすれば、「仲間を殺した犯人を、島全体で庇っている」ように見える。
ここは明確に描写されている。ちいかわたちにも、「犯人の味方をするんだ」と非難の言葉を投げている。
人魚を殺した犯人が誰か分からない以上、「島民の誰かが人魚を殺した」「島民全体で人魚の肉を分け合ったのではないか」という疑心暗鬼に陥っても不思議ではない。
それでも無関係な島民を殺すことは、全くもって正当化されない。セイレーンの報復殺戮は悪事である。
ヒトハの一匹殺害よりも、さらに罪深い犯罪だ。
しかし「無差別」という言葉だけで片付けると、セイレーンが「犯人を探している」という物語上の重要な描写が消えてしまう。
無差別殺人ではなく、連帯責任だという非難と断罪だ。
小さくて可愛い島民たち。
大きくて強いセイレーン。
この見た目や描写に引っ張られると、大切な仲間を殺されたセイレーンは被害者だった、という立場を見失う。
島民は仲間を守ることで加害者になった。
なにせ島民たちは、セイレーンに対して「犯人を探します」とは言わなかった。
むしろ、セイレーンそのものを討伐しようと決意している。
ここには非常に強い帰属意識があるように見える。
犯人は仲間であるから、仲間を差し出すより、仲間を守るという選択をした。
この瞬間、島民は被害者という立場だけではなく、加害者の側面も持ってしまった。
島民は被害者であるが、犯人を庇うという意味で加害に加担してしまったのだ。
島民たちが、以前からセイレーンとの危うい共存を望んでいたとは思えない描写がある。
突然現れたセイレーンに怯えて、食べ物を捧げることで難を逃れてから、島民はずっとセイレーンたちを恐れていたのだろう。
フタバのように好意的に感じている者もいただろうが、巨大な力を持つ別種族への畏怖の念は簡単には消えない。
「豊穣を与えてくれる巨大な存在だからと、仕方なく共存していた」のであれば、セイレーンを討伐する名目を得て、「もう豊穣を失ってでも、この暴君と決別したい」と考えた可能性が高い。
実際に、島民は「犯人探し」ではなく「討伐依頼」を選択しているので、これは単なる推測ではなく事実に近いだろう。
ヒトハが始めた報復の連鎖の物語に、セイレーンは悪意を持って参加した。
フタバも含む島民は、仲間を守るという大義名分を掲げてセイレーン討伐という選択をしたことで、参加者になった。
これで、みんな、被害者だったのに加害者だ。
地獄の完成だ。
読者がどこかの視点に偏って物語を見て、同情するたびに、そのキャラ視点の影=加害者側面を見落としがちになる。
死んだことで加害者にはならないコーラス人魚視点に立ち、「何も悪く無いのに殺された。辛い。悲しい」という感想はザッと見た限りでは見かけない。
コーラス人魚中心の視点がないからだ。
これもナガノ先生の罠である。分かっててやってるでしょ!
☆
ヒトハとフタバの倫理観は異様でグロテスクだ。特にヒトハ!
島民たちは、自分たちの仲間が犯人かもしれない状況で仲間を守った。
拐われた島民たちは、犯人を知らないとしか言わない。
犯人を探すから見逃して欲しい、助けて欲しいと泣きすがることもしていない。
※描写のないことは、無いものとして考察している。
島民たちは自らの命よりも、見知らぬ犯人=仲間の島民の命を優先している。
ところが、ヒトハとフタバは自分たちが原因だと分かっているのに、島民のために名乗り出ることはしない。
島民が次々と犠牲になっても、「犯人は私たちです。私たちを殺してください。島民を返してください」と言わない。
セイレーンは憎むべき相手だからか、討伐隊に加わっている。
その先で、ヒトハとフタバは、自分たちの代わりに捕まって味噌漬けにされている島民と遭遇する。
そこでも「やめて、彼らを殺さないで。食べないで。自分たちだ」と言うことはなかった。
自分たちの命が惜しい、助ければ良いと思うことは当たり前の心理ではあるものの、そこに帰属意識や「ヒトハとフタバ」以外への慈愛は見出せない。
それはずっと続き、カレー作戦などのときもそのままである。
で、ヒトハとフタバはセイレーンに犯人だとバレたら逃げた。
二人の世界は、「ヒトハとフタバ」で閉じている。
島民の家族愛や共同体意識とは実に対照的である。
もちろん二人に他人への親切心がないわけではない。
二人の自己愛とお互いへの愛は非常に強いから、愛とは何か理解しているのに、その愛は二人だけの世界に閉じている。
特にヒトハはかなりグロテスクだ。
* 事故について訴えない
* 対話をしない
* 即座に復讐する
* 無関係な弱いコーラス人魚を殺す
* 犯人を庇う島民が殺されても名乗り出ずに見殺し(おい、それはつまり、身代わりにしてるってことだぞ)
* フタバ本人の了承もなく永遠の命を与える
* フタバが孤独を恐れて人魚の煮付けをすすめたら、最初は嫌がった
* セイレーンに犯人だとバレたので逃亡する。コーラス人魚を殺した後悔など微塵もない。
フタバは事故の被害者であり、ヒトハとは立場が異なった。コーラス人魚を殺したのはヒトハでフタバではない。気絶している間に、自分のために復讐だと暴走されても、それはフタバの罪にはならない。
しかり、被害者だったフタバは、ヒトハを殺人の罪で断罪はしていない。永遠の命に恐怖を覚えた描写はあるが、それだけだ。
セイレーンの報復が始まると、ヒトハと同じく島民の命を身代わりにして生き延びている。
フタバは被害者だったのに、加害者に引きづられて甘んじて、おまけに島民殺戮を無視するという加害に及ぶ。
ヒトハもフタバも、人魚殺害や島民の犠牲に心を痛め、助けようとする姿が強く描かれているわけではない。
フタバはちいかわか、ヒトハを庇って単三電池が抜け落ちた。
漫画だとフタバはヒトハを庇ったように見える。映画での立ち位置は、把握し損ねた。
つまり……おいこら、ヒトハ、お前はいつだって優しく無いな!
探してもお前がフタバ以外へ愛を示すところが見当たらないぞ!
コーラス人魚をしるこサンドで誘って撲殺して、フタバを勝手に不老不死にして、島民は見殺しで、最後は逃げやがった。
この視点に引っ張られた私は、どんな倫理観なのだろうか。
というよりも、この視点は誰のものだろうか。
私はセイレーンも島民も、地獄の住人になったと思っているので同情心は薄い。だが、かなり理解はできるしそれぞれの視点に立って共感も可能だ。
コーラス人魚は視点から消えがちと拾ったから、その視点なのだろうか。全体を見ている視点、かもしれない。
とにかく、ヒトハ、お前はダメだ。理解できても、ヒトハ視点に立てても、全くもって共感できない。
グロい。
俯瞰視点ではない場合、ヒトハとフタバは可哀想、ヒトハは可哀想などの感想は自然な共感だ。
物語の視点は、わりとそちらへ誘導されている。
*フタバは本当に大怪我をした
*セイレーンは恐ろしい存在になった
*ヒトハはフタバを失う恐怖に追い詰められた
*愛する人が死にそうだったから、永遠の命に縋りたくなる心理は分かる
*異種族への恐怖も理解できる
*対話しろというのは結果論になり得る
*復讐したくなる感情そのものは理解できる
だから「ヒトハに同情した人は倫理観が悪い」という話ではない。
ヒトハ(とフタバ)に同情すると、他の視点で読む人からすると倫理観が悪く見える。=踏み絵
ヒトハ(とフタバ)に同情・共感して、コーラス人魚殺害の事実や島民を身代わりにしている点が見えなくなったり、その罪の重さを矮小化してしまうと、倫理観が悪化する可能性がある。
復讐だから、相手の愛する人(小さくて弱い)を殺すのは悪か?
→悪党だ。かなりの大悪党。
愛する人が殺されかけた。命が間も無く消える。永遠の命を手に入れられるかもしれない人魚を食べさせるしかない。
→人魚を殺しちゃう気持ちも分かるよ……。ダメだけど、辛くて苦しいよね泣。
同じ事象のことなのに、全く違う感想が出てきてしまう。
ねぇ、視点を固定することで、絶対的悪である殺人(関係ない弱い者を殺す)を肯定するような考えをしてしまうって、かなり危ういことだよ?
これを仕掛けているのはナガノ先生だ。
さらっと視点誘導して、踏み絵を踏ませて、でも視点を変えたら分かるよね? 描いてあるよ? と言わんばかりで恐ろしい。
私は引っ掛からないぞ。
ヒトハには時間がなかった。フタバは今まさに死にかけていて、対話や懇願を試みる余裕はなかった。そこは理解する。フタバを失う苦しみを想像すると泣ける。
だがしかし、追い詰められた極限状態での判断は、行動は、その者の本質を最も露わにしてしまう。
復讐だ、弱い人魚を狙え、フタバに必要な永遠の命も手に入るかもという本性がグロテスク。
セイレーンへの恐怖は合理的だった。会話能力があると言っても、巨大な異種族に単身で「あなたのせいでフタバが怪我をした」と訴えに行くことが、どれほど命がけか。恐怖で足がすくむのは当然の反応だ。
それなのになんで、バレたら報復されるのにコーラス人魚を殺したんだ?
お前が復讐の連鎖の火蓋を切っているぞ。
コーラス人魚の殺害は、追い詰められた末の選択だった。悪意というより絶望から来ている。愛する人を失いたくない一心で、判断力が極限まで歪んでいた状態での行動だ。
かといって、殺人は選べない。
よくもまあ、小さくて弱いコーラス人魚を、しるこサンドで誘ってボコボコに撲殺したな。
ある意味すげぇ。
いくら主食の魚も似ているとはいえ、食物ではない動物を撲殺とは、根っこが悪党なんだな。
この感想も、踏み絵を踏んでいるのだろう。意見があれば受け入れるし意見を述べる。
ちなみにセイレーンのことはグロテスクとは思っていない。
セイレーンは愛する者を殺された。ヒトハとほぼ同じだ。
しかし、セイレーンは復讐の始まりで、無差別に即殺ではなく「犯人?」と確認したりしている。
島民が、仲間を守るためにセイレーンと敵対したため、対立の幕が上がった。
セイレーンは己の罪を知らず、疑心暗鬼の果てに殺戮モンスターとなった哀れな罪人だ。
ヒトハと違ってまず対話を試みたり、島民と間違えたとちいかわたちに謝ったりなど、倫理観と理性が透けて見える。
もちろん、復讐を選んだことで、人間の法律では死刑である。
島民やちいかわたちに討伐されたら、自業自得だ。
ヒトハとは互いに復讐相手なので殺し合っても当事者同士なので好きにすれば良い。
倫理観や理性がグロテスクではないのは、描写の範囲だけなので、ヒトハと同じ「小さくて弱い存在」だったセイレーンが何を選ぶのかは気になるところ。
だが、「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」について語っているので、もしもを言い出したらキリがないから横道には逸れないで続ける。
☆
ここでようやく、主役のちいかわたちの話ができる。
ちいかわたちは「大きくて強くて怖いものは討伐する」という固定観念が強い。
なにせ日々の生活や討伐の仕事で「大きくて強いデカツヨは暴君であり、討伐するもの」という価値観が形成されている。
友好型かと思ったら擬態型で危機一髪。そんな生活をしているのだから、当たり前のことである。
ちいかわたちは、騙されて島へ呼ばれた被害者だった。
島民とセイレーンの対立が判明すると、「犯人探し」ではなく「セイレーン討伐」の方向へ進む。
ちいかわたちは、セイレーンの怒りの理由を完全に理解しているわけではない。
なにせ、助けを求める声を無視できないという善意につけ込まれて討伐隊にさせられ、理解が追いついていないまま被害者の島民を探しに行き、セイレーンに襲われた。
流されるように、島民を襲う巨大生物としてセイレーン討伐側に立ってしまった。
これにより、ちいかわたちは、島民とセイレーンという加害者たちのうち、片方に乗っかってしまった。
中立ではなく加担を選んだ時点で、ちいかわたちは被害者+加害者になってしまったのである。
前述した「大きくて強くて怖いものは討伐する」という固定観念も原因だ。
討伐は正しいのかと立ち止まるのに突き進んだのは、悪意や強い意志での決定でもなく、潜在意識と同じ「小さくて弱い者」への同情心、味方意識が理由だろう。
犯人を探して事情を聞き、セイレーンに教えて和解を試みて、無関係の自分たちや島民の命を守る。
ハードルの高いこのミッションよりも、「いつもの仕事のようにみんなで力を合わせて、大きくて強くて怖いものを倒して平和を取り戻そう」という心理的ハードルの方が低かった。
そこには、何が正しいのか、誰が正しいのか、何が悪いのか、誰が悪いのかという思考は不足している。
それを悪いと断罪できるのは、力を持つものだけだ。
世の中は、小さくて弱い者たちがそんな綺麗事を突き通せるほど甘くない。
自分たちを誤解や勝手な連帯責任で殺そうとしてくる相手を、力を合わせて殺そうとすることは正当防衛である。
被害者だったのに、加害者にもなったちいかわ組というのは、ちいかわ、ハチワレ、うさぎ、ラッコ、古本屋。討伐隊のメンバーたちだ。
くりまんじゅうは、騙されて島に来たけど討伐隊にはならなかったので被害者ではない。
さらにセイレーン討伐作戦で何かしただろうか?
カレーの味見をしていたような。
状況を把握しないまま、セイレーンから見た加害者組に参加してしまってはいるが、味見したくらい。
シーサーも似たようなものだ。カレーを作ったから、少し加害者側面がある。
ひとまず、くりまんじゅうとシーサーも被害者だったのに、加害者の側面も持ったということにしておく。
モモンガだけは、もうモモンガだ。
こいつも騙されて島に来て、討伐隊と一緒に行動しているけど、本人にはその意識がないので被害者とも加害者とも呼びづらい。
モモンガはセイレーンに狙われてもひょうひょうとしている。
永遠の命は良いと言い、自己愛でセイレーンに敵対心を見せた。
ちいかわが落下しそうでも、飴が欲しいと自分の欲望優先。
モモンガは「復讐と報復の物語」の外側にいる、なんかもう別の倫理問題を有しているキャラだ。
モモンガに共感するための視点、モモンガの倫理観などを考察したり自分なりに説明することはできるけど、映画とまるで関係ないから放置する。
ヒトハと異なるグロテスクさを有しているが、自己愛しかなさすぎて、他人の感情も生死も気にしないから、ある意味ピュアだ。
グロい面もあるが、ヒトハには共感しやすい。
モモンガはモモンガになったつもりになっても、理解はできても、そのほぼ自己愛だけの価値観に共感することは難しい。
愛する他人なんていないから、復讐なんて考えない。
古本屋が目の前で殺されても、モモンガなら自分は死にたくないから逃げよう。可愛こぶって、泣いてみよう。こんなものだ。
キャラクターたちは「被害者から加害者へと落ちていくような地獄」の中でもがいている。
なのに、モモンガだけは最初から最後まで「ただのモモンガ」として、その地獄の横を涼しい顔で通り抜けていく。
すごいよモモンガ。体を返せ。
☆
ちいかわは、討伐が本当に正しいのかずっと悩んでいた。
しかし、同じちいかわ族の島民側に立ち、ずるずると討伐隊として働く。
やがて、ヒトハとフタバが犯人だと知ってしまう。
ちいかわは、それでも二人をセイレーンに突き出すことはしなかった。
島民に、「犯人はヒトハとフタバだ!」と告げることもしない。
あの観察力と犯人を知ったという状況からして、ちいかわは読者(視聴者)と同じくセイレーンの「分かった」=「犯人が分かった」だと気づいた可能性が高い。
そうなると、ちいかわはセイレーンを撃退して、説得に成功したというお祭りムードの中、再襲来する危険があることを認識していることになる。
ちいかわは、沈黙している。
島民や、ヒトハとフタバを守るために、セイレーン再襲来に備えようとはしない。
ヒトハとフタバが犯人であることは、セイレーンにバレてそうだ。
二人がそれを分かっているのか、気になるところだがちいかわは沈黙している。
ヒトハとフタバが逃げれば、セイレーンは彼らを追い、島民は平和を取り戻す。再襲来はない。
再襲来があっても、この「すべてが終わった」という偽の平和を理由に、自分たちは明日帰る。
手を握り合うヒトハとフタバに、ハチワレやウサギと自分を重ねる。
自分ならどうするか、自分に問いかける。
このお祝いムードを壊して良いのか、セイレーン再襲来の可能性を訴えて戦いの準備をするべきなのか、犯人を突き出して他の島民を守ることが良いのか、ヒトハとフタバに逃げるように言うか、あれこれと思案した。
ちいかわが悩んでいる、黙っている姿を見て、読者(視聴者)も落ち着いて考えられる。
自分は何を見たのか、何か見落としていないか、考える時間である。
ちいかわが選んだのは「薄氷の上の平和」だ。
多くの復讐劇では、「復讐はここで終わらせる!」
「俺はお前を殺さない!」と主人公が叫ぶものが多い。
しかし、ちいかわはそうしなかった。
もう少し様子を見た。
セイレーンはもう現れなかった。
帰るときに、ヒトハとフタバの姿が無かったので逃亡したと判断した。
島には平和が訪れたと理解する。
ちいかわの視点では、そこには誰の断罪も謝罪も和解もない。
ただ、ヒトハとフタバをセイレーンが追いかけた以上、そこには当事者同士のやり取りがあることは確かだ。
小さくて弱いヒトハとフタバがセイレーンに報復されることは、ちいかわなら容易に想像可能だ。
ちいかわは島民という加害者への加担から、中立な立場に移動した。もうセイレーンはいないから、被害者ではなくなっている、だからこそ、中間に移動できた。
セイレーンの願い、「犯人探し」に協力することはしない。
ヒトハとフタバの逃亡を手助けすることもしない。
中立とは、とても苦しい選択である。バレれば全方向から非難されて突き刺されることにる。
けれども、ちいかわはこの選択をした。
ハチワレが「また来たい」と言い、ちいかわは「うん」と答える。
理解して飲み込み、悲しみや苦しみを友人に与えなかった。
明るい未来を信じているハチワレのために、静かに「うん」と答えた。
うさぎはあれこれ気づいてそうだが、持ち前の決断力や価値観で、仲間(ちいかわたち。島民は含まれない)を守るために戦った。
無事に帰ることが目的でブレない芯がある。
うさぎは、事件の罪や罰などについて悩むことはしない。
ちいかわとうさぎ、それからモモンガ以外は、加害者になっていたことに気づくことなく帰路につく。
セイレーンが許してくれて、島は平和になったと信じている。
みんなで力を合わせて、大きくて強くて怖いものに一矢報いて対等になったことで、「もうやめよう」という和解を受け入れてもらったと、まるで疑わない。
視点、視界が狭いということは、ある意味幸福である。危険と隣り合わせになったりするが、余計な苦悩はしなくて済む。
うさぎのように、優先順位をつけて突き進む性格でも、余計な苦悩はしない。
一方で、ちいかわのように視点や視野が広く、共感性が高くて優しさがあると、葛藤や苦悩が増えていく。
そこには、成長がある。
ちいかわの沈黙理由は何か?
正解がない問いかけなので、己が鏡に写って、露わにされてしまう。
☆
ネット上にある感想をそこそこ眺めているが、殺されたコーラス人魚は無視されてそう。
島編にて、多くの読者(視聴者)の感情は、以下のどこかに偏りがち
* セイレーンに襲われるちいかわたち
* 攫われたり殺された島民
* 事故で傷ついたフタバと悲しむヒトハ
* 大切なコーラス人魚を殺されたセイレーン(少なめ)
そこからこぼれ落ちまくりなのが、殺されたコーラス人魚である。
コーラス人魚は、復讐と永遠の命獲得のために故意に殺された、事件の最初の純粋な被害者だ。
自分から何もしていない。セイレーンと遊んでいただけ。それなのに殺された。
大きくて強くて怖いセイレーン。そのセイレーンは島民を怯えさせた。そんなやつと一緒にいたこと、つるんでいることが悪い。
そんな意見も出せるけど、その程度で「殺されても仕方ない」となる世の中になったらデストピアだ。
読者(視聴者)はコーラス人魚殺害を比較的軽く扱って、気にかけていない節がある。
人間は「小さい」「可愛い」「弱そう」「主人公に近い」「自分が感情移入しやすい」という属性によって、無意識に被害者への同情を選別してしまうからだろう。
だから私はこういう考察をして、今作は「踏み絵」だという話をしている。
あなたはどこ視点で物語を読んだ?(見た?)
そこに認知の歪み(悪い意味ではない)や倫理観のバイアスがあるよ。
鬼滅の刃と島編(こっそり屍鬼も)。
復讐と報復の物語は鬼滅の刃だけではないが、有名なので参考として使う。両者は共通の骨格でできている。
『鬼滅の刃』は、倫理の教科書に近い。
鬼になった者には事情がある。その悲しみも理解可能なように描写されている。
しかし、「それでも罪は罪」という倫理を炭治郎が示す作品である。
読者が猗窩座や妓夫太郎、堕姫などに感情移入しても、炭治郎が倫理の軸を提示する。
鬼滅の刃は少年漫画であり、そのためにそのような構造で設計されていると思う。
そのため、鬼滅の刃の世界では、別の解決方法を設定でかなり封鎖している。
「鬼と人間は共生できないのか」
「人間を殺さずに鬼が生きる方法はないのか」
という方向へ、物語が進むことはない。その道は、設定であらかじめ塞いである。
鬼を倒すことは必須で他の道はないという、勧善懲悪の骨格が作られて維持されている。
「欠けている」のではなく、物語の本筋から逸れないように、なおかつジャンプ作品として倫理を明確に伝えるための設計だ。
例えば、猗窩座。
恋雪や師匠との悲劇には強く同情できる。
女子供を殺さないという一線もある。
それでも、猗窩座は他の人間は大量に殺している。
事情を理解することと、罪を免除することを分ける。
炭治郎たちはそこを分けている。猗窩座に至っては、炭治郎は過去を知らない。知らないからこそ切り捨てられた。
知っていても、炭治郎なら「それはそれ、これはこれ」と切っただろう。
視聴者もその線路に乗って、猗窩座に同情して泣き、仕方ないよねと泣く。
一方、島編には、炭治郎のような「答え」を提示する人物はいない。
だから、あちこちの視点に立って、俯瞰して読むと倫理問題や苦悩が大量に見えてくる。
しかし、「これが正解です」という答えは置かれていない。
「誰に同情した?」「誰を悪いと思った?」「誰の被害を見落とした?」「誰を庇った?」「誰を裁こうとした?」という問いかけられた時に、いや、問いかけられる前に感想を述べた時点で、己の価値観や倫理観・視点が浮き彫りにされてしまう。
写し出されたものは、その人の全てではない。
けれども、沈思したり議論する前に出てくる純粋な己の価値観や倫理観・視点だから、その人の本性の一部であることは明らかだ。
だから私は島編を、「倫理観の鏡」であり、「踏み絵」のような作品だと感じた。
感想に正解・不正解があるという意味ではない。
ナガノ先生の意図としての正解はあるだろう。
しかし読者の感想は、その人がどこに感情移入したかを含めて成立する。
島編は視点を変えると見えてくるものが異なる、それぞれの視点ごとに想像できる不足のない描写・設計がされている。
正義とは、共存とは、罪と罰とは、何が正しいのか。この物語にその答えはない。
作中にあるのはそれぞれのキャラの選択、決断だけ。
答えのない現実と同じだ。
そのような作品の感想で「その解釈は間違っている!」と殴り合うものではない。
討論会なんてしたら、相手を傷つけるだけだ。ほぼどの視点にも加害者面が描写されているのだから、非難材料が揃っている。
純粋な被害者コーラス人魚でさえ、殺戮モンスターになる素養のあるセイレーンの仲間だったからと言えてしまう。
言った方は、その程度で他者を悪意を持って屠ってもいいなんて倫理観は歪んでいると反撃される。
だからこのような作品では「なぜあなたはそう思ったの?」と聞いたほうが面白いし平和だ。
面白いことに感想こそが島編になる。
「セイレーンが悪い!」
「いや、ヒトハが悪い!」
「島民が悪い!」
「ちいかわたちも討伐しようとしたじゃん!」
と感想同士が争い始めると下記のようになる。
自分の視点こそ正しい。相手の視点は間違っている。相手を訂正しなければならない
こうなったら、島で起きたことと同じだ。
誰もが自分の被害、自分の正義、自分の帰属意識を中心に世界を解釈する。
自分が見ているものだけを「物語の全部」だと思う。
「その感想は間違っている!」と言い合うと、島編の再演みたいになる。
一方で、「私はこう読んだ」「私はこう感じた」「なるほど、あなたはそこを見ていたのか」と話せば、他人の認知や倫理観を知ることができる。
少し視点を変えると、見える世界が変わり、新しい価値観や認知、倫理観が人生をきっと豊かにする。
争いではなく対話を選んだ先には、ほんの少し、今よりも平和な世界がある。
そこにはきっと、自分の人生の好転もあるだろう。
私がかなり好きなホラー、屍鬼も構造は似ている。
屍鬼は、鬼滅の刃と異なり、難しいが共生の道もあったのでは?という道が塞がれておらず、問いかけとして物語の中に置いてある。
ちいかわ島編とは異なる視点展開ではあるが「生きるために、自らと同じ姿形の、仲間だった他者(広義では同種族、狭義では家族や友人など)を殺さなければならない存在がいたとき、どうするのか?」という、非常に嫌な問いかけがある。そして島編と同じく、やはり作品としての答えは書かれていない。
ナガノ先生の作品は恐ろしい。
『ちいかわ』はとても可愛い世界だ。
なのにその裏で「殺人、復讐、共同体、帰属意識、罪、罰、被害者意識、加害者意識、報復の連鎖、赦し、平和」をやっている。
※本編を含めると、決して可愛いだけの世界ではないし、裏で並べられているもの怖いものは沢山ある。
これが「ナガノ節」なのだと思う。
島編で作者は答えを説明しない。
読者は自分で考えるしかない。
読者が考えた結果を感想として吐き出すと、今度はその感想から「あなたは誰に感情移入したのか」が透けて見える。しかも、ちいかわの感想だから、そんなに深く考えないで感想を言うので、その人の本性の一部がさらりと世に出てしまう。
ナガノ先生が実際にどう考えるかは分からないが、私なら面白くて仕方がない。
なにせ作者でなくても、既に面白くてならないから。
作品を見る限り、ナガノ先生は「人間が好きだからこそ人間の醜さをよく見ている」ような感触があるので、感想を肴に美味しい物を食べてそうだ。
だらだらあーだこーだ書いたが、まとめとして、ちいかわ島編は倫理観や価値観の踏み絵寓話だ。
人間の罪と罰、復讐の連鎖、帰属意識、被害者意識を描いた、古典的かつ普遍的な物語。
表面は「ちいかわナガノ節」全開の可愛らしさでコーティングされているから視聴に耐えられるし、また観たくなる。
実写や同種同士、化物と人間では浮き彫りにしきれないところを、ちいかわワールドという衣で上手いこと成立させている。
人間は、己が被害者だと思うことで、他者への加害を正当化できてしまう。視点を切り替えることができて、己の加害性に気づける優しさや尊さを持つ者は、時にかなり苦悩する羽目になる。
負の連鎖を止めるには、誰かが精神や身体を犠牲にしたり、自分の正当な権利を飲み込まなければならない。
『鬼滅の刃』が「事情を理解しても、それでも罪は罪」という倫理を教える作品なら『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、あなたへの問いかけだ。
「あなたは誰の事情を理解し、誰の被害を見落としましたか?」
あんな可愛い世界観で、こんな踏み絵をさせるなんて怖えよ!
ほぼ全てのキャラが被害者で加害者なので、擁護も反論もできてしまう。
ジャンルは「ダークファンタジー/冒険・コメディ」ではなく、どう考えても「ホラー/冒険・コメディ」だよ!
演出もホラーのそれであった。
あちこちの視点に立ち、物語を整理し、この物語は踏み絵だと気づき、答えのないものをグルグルと考えさせられ、そもそも島民とセイレーンの共存の始まりは危うくて……と考えていたら一日が終わっていた。
これ以外も語りたいことは色々ある。
ハチワレ、そういうところだぞ! 警戒心! とかね。
キャラごとの視点に立って物語を確認すると時間が溶ける。
なお、原作を読んだ上で映画を観た感想なので、一回目でこのような考察をする可能性は非常に低い。
再視聴して、また新たな目から鱗や、新しい感想や考察をするのはちょっと怖いので、時間を空けてまた観たいと思う。
素人小説家なので、物語の設計や読み解きという点でも、この映画は非常に面白かった。
ネットの感想会を見て、多種多様な認知の歪みやバイアス、踏み絵で暴露されたその人の価値観を観察することもあまりにも楽しい。
さあ、みんな。映画館へ行こう。
どのキャラになって世界を見るか決めたら、新しい世界が見えてくる。あそこには世界が何通りもあるよ。




