marriage:マリアージュ
あたしは狭いアパートの一室で、いつまでもかべに掛かった服を見つめていた。
純白のウェディングドレス。
ただしそれは、一度も袖を通されることなく、もちろん式でも着ることはなかった。
今どきすべて手縫いのそのドレスは、生地もデザインも一昔前流行ったもの。襟元は中途半端に開いたもので、袖はパフスリーブ。
あたしの着たドレスはもちろんビスチェタイプだったし、そこにやわらかなシフォンのベールを掛けた。
光沢のある生地は高級感を出していて、招待客の誰もが褒めてくれた。
おっくんのなけなしの預金が減ってしまったけれど、妥協はしたくなかったんだもの。
第一この服は……。
式の三週間前に突然送りつけられたドレスを見て、あたしは母に詰め寄った。
「どういうことよ!?誰があの女にあたしの住所を教えたの?こんなの要らない!!まさか式に参列したいだなんて言い出す気じゃないでしょうね!?」
母は私の暴言をそっと諫めた。あの女だなんて、本当のお母さんじゃないの。
スリーサイズを教えたのも今の母だった。お母さんは洋裁がお上手だからきっとお似合いよ。
お人好しの今の母の言葉に送られて、あたしはもう一緒に暮らしているおっくんの部屋に戻った。
そして、裁ちばさみを持ち出すと一気にドレスへと切り込みを入れ、力いっぱい手で引き裂いた。
その夜、あたしは泣き疲れておっくんの腕にもたれたまま、眠りについた。
ようやく掴みかけた幸せの階段を、どうか外すようなことはしないで、と。
生みの母が手縫いで作ったウェディングドレスを着て式に出る。テレビだったらさぞかしいい美談になることだろう。バカバカしい。あんなものを信じられる単純で幸せな人がいることすら、腹立たしかった。
宅配便に書かれた配送伝票を元に、黙ってそれを送り返す。あの女の名前を書くとき、手が震えた。
式が終わって数日が経ち、それは再び送り返されてきた。手紙も何もなく、ただ、あたしが切り裂いた傷口が細かく細かく縫い合わされた状態で。
心も縫い直せればいいのに。
こんなふうに、あっさりと簡単に。
あたしだって知っている。あれだけびりびりにしたものを、元に戻すのがどれだけ大変だったかなんて。
でもね、あたしの中の愛されたがったあの頃のあたしの傷は、まだこれっぽっちもふさがりはしないのに。
もう涙も出なかった。ゴミの日に出してしまおうか、それとも燃やしてしまおうか。ぼうっと見つめる日々が続く。
「ただ今!」
おっくんの声に我に返る。まずい!まだ夕食の買い物も済んでない。
焦ったあたしの目に飛び込んできたのは、紺のタキシードを着込んだおっくんだった。
「ほら、急ごうぜ。この格好で外を歩くのはけっこう勇気が要るんだから」
にっこり笑うおっくんと、混乱気味のあたし。彼は急いでそのドレスを取り外すと、あたしに手渡した。
厭々をするように首を振る。おっくんの笑顔は変わらない。
「着替えさせて欲しいのかよ、お姫様」
彼の手がそっと、あたしの着ていたラフなTシャツをまくり上げる。恥ずかしさに急いで自分で脱ぐと、なかばヤケになってそのドレスを身にまとった。
吸い付くように身体へぴったりと合った細いライン。もう十何年も会っていないのに。
不意にこみ上げる涙を必死に抑える。
かぎ裂きがあちこちに目だって、とてもドレスとは言えない。あたしの心のように。
こんな布きれ一枚で、許されると思ってなど欲しくない!!
あたしの混乱をよそに、おっくんは手を引いてドアを開けると、外階段を歩き出した。
あの日のように、優しくエスコートしながら。
怖くて訊けなかった。どこへ行くの、と。
あたしを軽に押し込めると、おっくんは「写真撮ろうぜ!」と陽気に言った。
「ちょっ!待ってよ!化粧もしてなければ髪もそのままだよ?」
いいからいいから。車は走り出した。
おっくんの向かった先は、耳が痛くなるほど騒々しいゲームセンターだった。機械に向かってゲームに興じる若い子たちは、あまりの驚きに声も出ないようだ。
場違いのカップルは、おっくんに導かれるまま、ある場所へと歩き出した。
騒音対策の赤い絨毯が、あたし達のヴァージンロード。恥ずかしさに顔も上げられないあたしは、うわあ綺麗の言葉にハッとした。
制服を着くずした女子高生らの、憧れを含んだ瞳。
堂々と胸を張って歩くおっくん。
そしてあたし達は、一台のプリクラ機にぎゅうぎゅうになりながら入り込むと、カメラを見つめた。
「縫い目も傷も、強い光を当てれば見えないよ。全部ハレーションで吹き飛ばしちまえ。これからはおれが、亜紀の光になってやるから」
バカ、かっこつけて。そんな童顔で言われたって似合わないよ。
あたしは泣くまいと、必死に笑顔を作った。ピースサインを我慢して、彼の腕にしっかりしがみついたままで。
できあがりまで、あたし達は笑顔だった。見ず知らずの若者達が取り囲む。みんなで現像を楽しみにする。
デコレーションも書き文字もない、至極シンプルなプリクラは、涙もかぎ裂きも何も見えずに、ただただ幸せを撮し出していた。歓声が上がる。
照れくさそうに、二人で顔を見合わせた。
この写真はきっと送らない。あたし達とここにいる子たちだけの秘密。
それでもいい。強いライトは悲しみをすべてはじいて、時代遅れのウェディングドレスは、最高級のシルクのように光り輝いていた。
Fin
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