祈りよ届け
夜も明けきらぬ中。
風も空気も冷たいけれど、そうっと息を吸い込むと身体中の細胞が目を覚ますような感覚になる。
僕は人気の少ない神社の、すすけた赤茶色い鳥居を見上げた。
それから、ご親切にもこんな時間に開けておいてくれる社務所の窓口に向かった。
<必勝祈願・絵馬・好評発売中>
僕は苦笑いを一つ、それからこれじゃ宝くじだよ、と今度は本気でくすくす笑い出した。じゃあその、好評発売中でも一枚買いますか。僕の運命を賭けた一枚を。
夜がすっかり明けると、この神社では鈴の音を鳴らす。それまでに絵馬を書き終えて奉納すると願いが叶う。そんな言い伝えがあるんだけれど、何せ地元民しか訪れやしない古びた神社だ。
敢えて大手に行かず、穴場を狙う。
僕の性格に合っているようで、シニカルにもう一度笑おうとして…今度はうまくいかなかった。
大学に受かったからといって何になるんだろうか。僕はこれまで通り、粘度の高い不透明な牢獄に閉じこめられたまま、呼吸をする人形として、息絶えるまで存在しているしかないのに。
胸に広がる灰色の泥。僕の心を塗りつぶしてゆくセメント。
どろどろの闇に引きずり込まれぬうちにと、僕は窓口に歩を進めた。
…先客?…
こんな地味な神社に目をつけるなんて、変わってる。
僕は自分のことをすっかり棚に上げて、その後ろ姿をじろじろと見た。
長い髪を無造作に後ろで束ね、大きなぽんぽんのついたニット帽を被ってる。あったかそうなコートは、せわしなく揺れている。脚にぴったりとしたデニムにスニーカー。
大学受験にしたら、少し歳行きすぎてね?
資格試験かも知れないし、留学でもしたい人かも。社会人入学を狙って医学部か?僕のささやかな妄想をぶった切るように、彼女は大声を出した。
「絵馬十枚ね!!十枚!!領収書出るの!?ああ、もういい!!時間ないから!!…はあ、自腹かあ」
僕は十枚という数の多さと、憎めないせわしなさに、すっかりその人の姿から目を離せなくなってた。
袋に入れるのももどかしげに、十枚の絵馬を抱えた彼女が振り向く。
色白で大きな瞳がくりくりと動く。その綺麗な顔立ちはでも、あわてふためいた表情で愛嬌さに変わっていた。
目が合ってしまった僕は、驚きのあまりつい口走る。
「今から夜明けまで、十枚はきついんじゃない…ですか?」
鈴の音が鳴り終えたら、御利益はない。ただの言い伝えだけどここの売り物はそれしかないんだから。
彼女ははっとしたように僕を見てから、悔しげに唇を噛んだ。
「書くの…手伝いましょうか?」
どうしてそんなことを言ってしまったのか。だいたい見ず知らずの赤の他人が書いた絵馬に、御利益なんてあるんだろうか。
でも、ふと沸いた僕の疑問など吹き飛ぶ勢いで、彼女は「ホント!?ありがとー!!助かる!!」と僕に飛びついた。
領収書とか言ってたから、てっきり塾の先生だと思ったんだ。だからどうせ皆おんなじ文面だろうと高をくくってた。
なのに彼女はカバンから紙を取り出すと、僕に押しつけた。
「一人一人違うから、間違えないように書いて!名前のところは空けといてよ!?あたしが心を込めて書くんだからね!?」
あ、あのさ。僕は確かに彼女より年下には見える、見えるよ。でもご親切にも手伝いを申し出た通りすがりに、ため口の命令口調はないだろうに。
けれど、そんな反論を受け付けないだけの気迫が彼女にはあった。
とにかく二人で寒い社務所の細いカウンターに向かい、僕らはペンを動かし続けた。
「ゆうちゃんは頑張りやさんだから絶対に合格するからね。夜、一人で英単語を練習してたのをみんな知ってるよ。高校に行って友達をたくさん作ろうね」
…これじゃ、手紙だよ。本人に直接渡してやれよ。もらった神様だって面食らうんじゃね?…
そうは思ったけど、気迫の美女に言い返せるはずもなく、そもそもそんな時間もあるはずもなく。
何しろ夜明けまでは、あとほんの少しなんだから。
僕は一人一人に宛てた手紙みたいな絵馬を、必死に書き続けた。どの文にもその子にしかないエピソードが書き連ねてあって、よく見てるよなと感心しながら。
ここまで思われる塾の生徒は幸せだろうな。
僕が文章を書く。彼女は丁寧に名前を書く。不公平だという思いがちらっとかすめたけど、彼女は真剣な表情で祈りを込めるかのように、大切に名前を書き続けていた。
空がうっすらと白じんできた。やば、時間がない!
書くスピードを上げてできあがった一枚を、彼女はひったくるようにして名をしたためる。
最後の一枚!よし!!
無言で目を合わせると、僕らは絵馬の奉納板へ走っていった。
手がかじかむ。手袋なんてとうの昔に取り外してある。真っ赤になった指先で、必死にひもを結びつける。
何枚も書き続けた僕の手は、細かい作業ができないほどしびれていた。じれったくなった彼女が僕から絵馬を取り上げ、素早くしっかりと結ぶ。
早く早く!鈴の音が聞こえる前に。日が昇る前に!!
ラスト一枚。そのひもをくくりつけた直後、静謐な神社の境内に透き通った鈴の音色が響き渡った。
ほう、間に合った。
どちらからともなく大きなため息をついた。そして顔を見合わせて笑い出した。
もともと白い肌なのだろうに、彼女の頬は上気して桜色に染められてく。安堵の表情を浮かべ、ほんのちょっと照れくさそうに笑うのが愛らしい。
年上だろうに、可愛いとか言ってもいいのかなあ。
僕が何となくその場にぼうっと立っていると、彼女ははっとしたように口元を押さえた。
ホントによく、表情が変わる人だ。
「あ、あの、お礼も言わずに。本当にありがとうございます!おかげで助かりました。全員の絵馬を奉納できたの、あなたが手伝ってくれたからです!!でもあのその…」
「えっ?」
お礼の言葉なんていいのに。一人充足感を味わってた僕に、彼女はばつが悪そうに言い添えた。
「…あのお、あなたも合格祈願の絵馬…奉納しに来たんじゃないんですか?」
彼女の台詞に、僕は当初の目的を思い出す。さあっと血の気が引く。そうだった、僕のセンター試験は来週で、暦がいいのは確か今日が最後で…。
引きつった顔の僕は、心底申し訳なさそうな彼女を見て、逆に思い切り吹き出していた。
身を折って笑いこける僕を、あわてて「大丈夫ですか?」とねぎらう彼女。
ねえ、もう遅いって。
日は昇っちまった。鈴は鳴ってしまった。そんなもんさ、僕の人生なんて。
涙をにじませながらなおも笑う僕に、彼女は声を掛けた。
「せめて!!せめて甘酒おごります!!てか…おごらせてください!!」
いったん顔を上げた僕は、彼女が指さした先ののぼりを見てさらに笑い出した。
甘酒一杯300円。
300円で、僕の合格祈願はチャラかよ。
笑いが止まらない僕に、二杯飲んでもいいですよ!。彼女は大あわてで付け加えた。
何となく、その辺の階段に腰を下ろす。冷え切った身体に甘酒は染み入るように温かかった。
「塾の先生、か何かですか?ずいぶん生徒思いなんですね。みんな受かるといいな」
十人で済む塾ってどんなだろう。手分けしてんのかな。それにしてもあんなにあったかいメッセージ、生徒が知ったらどれだけ嬉しいだろうね。
僕の質問に、でも彼女はそっと首を振った。
「養護施設の職員なの。親元を離れた、というか親元にいられない子供たちが暮らす共同生活の家。今年は受験生が多くて」
彼女の言葉に息を飲む。
「親代わりにはなれないけど、誰かが期待してあげればちょっとはあの子たちもがんばってくれるかなって」
僕の手の中で、冷えてゆく甘酒。無理に口をつければ舌を刺すショウガの苦み。
「…羨ましい、です、ね。そんな風に…思って…もらえ…」
その場を取り繕うように言ってみても、どんなに努力しても、僕の言葉は続かなかった。どう捉えたんだろうか。彼女の面がほんの少しこわばる。
「そんなに羨ましいの?あの子たちにとって中卒で就職するか、何とか高卒の資格を取るかは文字通り死活問題なのに。うちの施設は原則的に15歳を過ぎたら退所が決まり。入りたくても入れない待機児童がたくさんいるから。どの人にとってもそうかも知れない。でも本当に彼らのこれからの人生は、たかだかたった一回の高校入試にかかってる。親という後ろ盾のない生き方が、どれだけしんどいものか…あなたは想像できる?」
静かな声だった。けれど心の奥底に怒りを抱えた訴えの声。神に祈るのは、試験の合格ではなく彼らの将来。
「それでも、その子たちには…あなたが…いる。親身になって…想ってくれ…る」
十人分の絵馬を必死に書きつづる彼女は、普段からきっと惜しみない愛情を注いでいるんだろう。まだ若い、それでも親代わりとしての愛情を。
「あなたは大学受験かな?センター試験も近いし」
目に見えないような棘が含まれてる気がするのは、僕のうがち過ぎだろうか。
そうだよね、端から見れば僕は恵まれたお気楽受験生。大学に進学させてもらえるほどのゆとりがあり、親元でぬくぬくと。
「なまじ親がいるからこそ、しんどいこともあります。なんて言っても伝わらないだろうけど。あなたみたいな心優しい施設職員さんには」
「お勉強のできる、恵まれた青少年の言いそうなことだよね。過剰な親の期待。息が詰まるほどの過干渉。いい加減にしてくれ。うっとうしい。親が憎い。そう言いながら、お母さんが作ってくれた温かな手料理を食べて洗濯をしてもらって、お金の心配もなく受験できるんだから」
彼女の口元が引き締まる。一介の職員ではどうすることもできない現状への苛立たしさが、こんな言葉を吐かせるんだろう。わかってる。こんなこと、言われ慣れてるから。
「そうですね。不幸を比べたって何の得にもならない。甘酒ごちそうさまでした」
僕は立ち上がると、冷たい石の階段にそっと百円玉を三枚置いた。
彼女の辛さも、施設の子供たちの悲しみも辛さも、想像することはたやすい。同情ももらえるだろう。何の腹の足しにもならないけれど。
僕の…僕の抱える荷物は、誰一人理解されることなどない。今に始まったことじゃない。それで、いいさ。
「待ちなさいよ!!」
不意に背後から怒鳴り声。うざってえ。説教はイヤだなあ。人に親切を強要されてとくとくと上から目線で叱られるなんて、割が合わなすぎる。
のろのろと振り返る僕に、彼女の拳が飛んできた。反射的に僕は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
しばしの無言。声にならない…やっぱり…のつぶやき。
気づくと僕は全身を震わせていた。彼女の言葉が頭の上から降ってくる。
「誰かが何の気なしに振り上げた手におびえる。叩かれる、と身体が反応する。被虐待児の特徴…だね」
「決めつけないで…ください。勝手に、勝手に決めつけんなよ!!」
身体を丸めたままで、僕は叫んだ。同情なんか要らない!おまえに何がわかる!?
「うちの施設にもたくさんいるから。実の親から愛されないどころか、酷く殴られなじられ、人としての尊厳も何もかも踏みにじられ。それでも、その場から逃げ出せたのは不幸中の幸いかも知れないということを、あたしはすぐに忘れてしまう。目の前のあの子たちの苦労を間近で見続けすぎているからかもね」
僕は立つことができなかった。身体をすくませ、何かに怯え、嵐が通り過ぎるのを待つ日々と同じように。
「…外面だけは…いい親です。だから黙ってさえいれば、僕は大学に入ることができる。就職の際の保証人にだって苦労しなくて済むし、住民票も取れる。僕は…恵まれているというんでしょう?あなたも…僕を甘えてるとなじるんでしょう!?」
僕が毎日のように気まぐれに殴られることも、飛んできた食器でけがをすることも、包丁を突きつけられることさえも誰も知りはしない。
見えない場所につけられた幼い頃からの虐待の跡は、巧妙に洋服の下に隠されているから誰にも気づかれない。施設の子供たちのようにはっきりとした形では見えやしない。
僕さえ我慢していればいい。今までみたいに。
わかりにくい不幸は、見えやすい不幸の陰で小さくなっている他はないんだ。
辺りはまた、静寂に包まれた。
砂利の敷き詰められた境内に人はいない。ただ二人の他には。
彼女がそっと立ち上がったのを気配で感じる。それでも僕は、張り詰めていた何かが切れてしまったかのように、じっとしていた。
軽い足音が遠ざかり、再び近づく。
目を開けた僕の前には、差し出された一枚の絵馬。
「はい!」
「!?」
意味もわからずきょとんとする僕に、彼女は微笑みかけた。
「同情なんかしない。知りもしないで余計なことを言ってしまったけど、もうそれは戻すことはできない。ただ、私はまだまだ未熟者だってことは本当にわかった。見えない痛みが見えてないんだなあ」
あーあ、半人前だあ!大きくのびをすると、彼女は思いきり身体を折って「ごめんなさい!」と声を上げた。そして照れくさそうに今度はにっこりと笑って、両手で絵馬を持ち直した。
「…もう、夜は明けた…んですけ…ど…」
僕のとまどう声に、同じようにしゃがみ込んだ。
「ねえ、夜明けは明日もあるんだよ?」
その言葉に目を見開く。
「日取りが悪いとか方向が悪いとか、気にするの?それよりも、明日の朝に鈴が鳴るまでには…23時間くらいあるかな。この絵馬びっしり願い事書いても、きっときっと間に合うと思うよ」
間に…合う?まだ間に合うと…言うのか。
僕は震える手のまま、絵馬とペンを受け取った。
「鈴は毎日鳴らされ続ける。その鈴を信じるかは、あなた次第じゃない?」
今度はまっすぐ彼女の目を見つめる。
「もうとっくに夜は明けたと考えるのか、今は明日の夜明け前だと思えるのか。どうする?あなたは自分で選べるんだよ…」
すっかり陽は昇り、あちらこちらに木漏れ日を差し込ませている。こんなに明るくても、僕にとっては明日の夜明け前。
「…親に…内緒で…一つだけは、遠くの大学…の、願書を取り寄せて…あるんで…す」
彼女が力強くうなずく。
「自宅からは、絶対に…通え…ない。受かる…か、な…」
難易度も高くて、合格圏内には入ったことのない学部。親の押しつけた進路とは真逆な。
「他は全部落ちちゃえ!そうすれば、そこに行くしかなくなるし」
無茶なこと言う人だなあ。呆れて僕は苦笑いを一つ。それから立ち上がって、何とか書ける場所を探した。
両手をぎゅっと握りしめて、大きく深呼吸。もう手は震えてはいない。
ペンのきしむ音だけが響く。受かれ、ここに。他の大学は落ちろ。僕を縛る親から、恐怖による支配から逃げ出せ。
書き終えた僕の腕を取って、彼女が走り出す。向かうは絵馬の奉納台。
急げ急げ!明日の夜が明ける前に。
しっかりとひもを結び、僕らは手を合わせた。
ふいに吹き付ける冷たい木枯らしが、古い鈴をしゃりんと鳴らす。
そしてまた、多くの祈りが込められた絵馬をも揺らして……。
<了>