また会えたなら(改訂版)
駅の構内に佇んで通り過ぎる人を観測するのは、悪くない趣味だと思う。
不意に降り出した雨に、意を決して走り始める人。
大仰にため息をつきながら、何を頭に載せようかと苦戦する人。
割り切ってさっさと売店でビニール傘を買う人。
すぐさま携帯を取り出すのは、迎えが見込める幸せな人。
僕はコンコースの太い柱に背中をつけて、その反応の多彩さを楽しんでいた。
選択肢は多いんだ。どれを選ぶかはその人次第。
ただ共通して言えるのは、彼らの大部分が『今夜は雨など降らないだろう』と思いこんでいたこと。
降水確率は二十%、確かに雨支度をして出かけるには微妙だったね。
僕の手には愛用の傘。青地に黒の文字を散らしてあるもの。それは君からのプレゼント。あの日以来僕は、たとえパーセンテージが十であっても傘を持つ。君の言葉を思い出しながら。
「知ってる?降水確率ってのはね、一ミリメートル以上の雨が降るかどうかなんだって」
得意げに口を尖らせて、君は重大ニュースを知らせるかのように僕へ告げた。思わず苦笑い。ねえそれって、知らない人がいるのかな。
「だから例えば十%だったとしても大雨かも知れないし、九十%でもぱらっと小雨が降るだけかもなんて、ずるくない?」
あまりに君の口調が真剣だったから、僕はまだ笑いながらそれを見ていた。君の話はいつでもどこまでも広がってゆくから。今日はどの辺りまで行くつもりだろう。
雨など降りそうもない快晴のテラスで、僕らの前には洒落た名のフルーツドリンク。
僕は思わず空を見上げて、今は見えない星の彼方まで君の話が飛び回ればいいのに、と思いを馳せた。
「じゃあさ、人の感情にも降水確率みたいなものがあって、悲しい確率十%の人がいたとするでしょう?」
うん、それで?もうその辺りで笑いをこらえるのに苦労しているのはいつだって僕。
「だけど、悲しい確率九十%の方が不幸かどうかなんて、わかんないってことよね」
すごくすごく薄い悲しみなのかも知れない。朝ご飯に大好きな納豆が出なかったとか。それがもう一週間も続いているとか。
「それってさ、もはや既に確率じゃなくて指数なんじゃないの?」
くすくす笑いながらも僕が指摘すると、どう違うの?と君は小首をかしげた。
「指数ってのは、もうここに存在する値のこと。確率は未来に起こるかも知れない値のこと。納豆が出なかったのは事実であって、未来のことじゃないでしょう?」
それより、そんなに食べたかったら自分で買ってくればいいのにね。僕が茶々を入れると、「ただの例えなのに!!」と君は理不尽に怒り出す。
その仕草さえ、いくら見ていても飽きなかった。
「コスト・ロス=モデルって、知ってる?」
だから君が突然、そんな難しい単語を口にしたときも僕はいつものように笑っていた。冷静さを自認しているくせに、僕は肝心なところで予報を大きく外すんだ。
「どんな意味なのさ」
とうに知ってはいたけれど、君なりの解釈が聞きたくてにやにやしながら質問してみる。僕の意図など全く気づかず、キャラメルカプチーノを両手で包み込み、君は視線を宙に向けた。
「えっと、こないだの降水確率のこと調べてみたんだよね。そしたら何で確率予報なんかするようになったかって書いてあったの」
コスト・ロス=モデルとは、予報が完全に的中しない場合に確率の予報を出すことによって、事例ごとに考えれば損する場合と得する場合があるものの長い目で見れば損失を最小限にできるというモデルだ。
降水確率が二十五%のときに傘を持つのは少し面倒だけれど、その手間と服が濡れてダメになったらどれだけ損をするか、二つの行動を取った場合のコストとロスを計算してどちらかを選ぶ。
この考え方を採用することで、単なる天気の予想にすぎなかったものは、経済に少なからず影響を及ぼす現代気象予報へとがらりと性格を変えた。
さあ、そんなちょっとした専門用語を君ならどう解釈するんだろう。
「例えばさ、目の前に二人の人がいるとするでしょ?」
うん、うん。僕は手にしたエスプレッソの小さなカップを持ち上げる。
「一人は成功する確率が十%くらい、かな。全然売れない役者志望の男の子で、でもステージに上がるとすごく生き生きしてて」
随分とまあ、今回の例えは具体的なんだね。思えば呑気な僕の答え。
「だけど…そばにいるだけでどきどきワクワクできる。私まで何かできそうなくらい心がどんどん広がってく。マイナス要素の方がずっと大きいけど、もし当たったら喜びも大きい気がする」
土砂降りの雨を覚悟の上で、それでも傘を持たない開放感だね。
「もう一人は、堅実な人。成功確率は九十%以上なんだろうな。安定した大手の企業に勤めるエリートコース。彼の隣ならきっと穏やかで、みんなから祝福される絵に描いたような幸せが望める」
僕から笑みが消える。デミタスカップは力なくテーブルに置かれ、気づけば君の笑顔も雲に隠れたまま。
突然鳴り出すぶしつけな機械音は、会社支給の携帯電話。そうだ。僕は一日をこれに縛られ、あくせくと働く。ほんの僅かなランチタイムが、君との大切な時間が、僕には唯一の休息だというのに。
同僚からのメールには、午後のスケジュール確認が記されていた。クライアントを三軒廻って、そのあとは来週のプレゼンの打ち合わせ。帰りはまた十時を過ぎるだろう。
返信を打つでもなく、その無機質な文字列をぼんやりと眺める。
静かな彼女の声。
「でもね、その人のそばにいても私…何もときめかなくなってくの。どちらを選んだらいいのか、いくら計算しようと思ってもできない。答えがうまく出せないの。コスト・ロス=モデルの考えを使ったら、今度こそ答えが出せるって思ったんだけど…」
それでも出ない答えに、眩しいくらいに真っ直ぐすぎる君はとまどったんだろうね。
大ぶりのカップで顔を隠しながら、君はうつむいて黙った。
僕は伝票をそっと手にすると、ゆっくり立ち上がった。君の頭上から言葉を優しく降らせるように。
「じゃあ、僕が計算してあげるよ。その手のやり方なら慣れているからね」
君の肩がほんの少し揺れる。
「後者のロス要素をゼロにしてやればいい。君にとってときめかないことは、たぶん一番辛いこと…だろ?だったらどれだけ成功確率が高かろうが、そこにゼロを掛けてやる。出てくる答えは、いつでもゼロだ」
はっとしたように顔を上げる君に、僕は精一杯微笑みかける。
晴れ渡った空のような君の笑顔が大好きだった。曇らせてしまっては意味がない。
押し黙る君を残したまま、僕は一人、背を向けた。
さようならは到底、自分から言えそうもなかったから。
「待って!」
思わず足を止めた僕に、君は青い傘を押しつけた。立ちすくむ僕の手にしっかりと握らせる。
「午後からは雨だって。降水確率は十%だけどきっと降るから。そんな気がするから」
君が涙をこぼす前に、僕はその場を離れた。ありがとうも言えず…ただ足早に。
駅の構内を行き交う人の数は増え続ける。
僕はラフなカーゴパンツのポケットに片手を突っ込んだまま、まだそれをぼんやり見ていた。
不思議だね。
安定した大手企業と君が思いこんでいた勤め先は傾きかけ、それを機に僕は会社をあっさりと辞めた。
誰もが反対する夢に向かって、僕は毎日一人机に向かう。いつかは、いつかは…。君に話そうとも思わなかった夢を、あのとき伝えていたら計算結果は変わっていただろうか。
さあ、どうだろうね。
苦笑いをして辺りを見回す僕の視界に、大きなポスターが幾枚も飛び込んでくる。
ちょっぴり大人の化粧を施した君の笑顔。
あのとき言っていた男の子や別の誰かに夢を託すのではなく、君自身が輝く何かを見つけたんだったね。 コスト・ロス=モデルを用いる必要もない。自分の夢を自分で追い求める限り、どんなときでも君は幸せなはずだから。
もう一度また君に会えたなら…そのときは僕も言えるだろう。
傘は要らない、と。土砂降りの雨に降られながらも、この僕でさえ前に歩き出せるだろうから。
それまであと少し、これを貸しておいてはくれないかな。
僕は青地に黒い文字を散らせた傘を広げ、夜の街へと歩き出した。
<了>
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