美術館の片隅で
静寂が支配する美術館で、誰もが足を止める場所がある。その床は毎日磨かれているにもかかわらず、いつしか皆の靴跡でうっすらとした影を作っているほどに。
いかにも観光客といった風情の中年男性のグループが、足早に多くの作品の前を素通りしてゆく。なのに、ほんの小さな額縁の前で必ず彼らでさえも、その絵に見入るのだ。
秋彦は、絵になど興味もなかった。静佳がそこで待っていろと言うから仕方なく。
確かに目立つ主要駅の前でありながら、人通りは他の施設より少ない。暇をつぶしながら誰かを待つには、いいのかもな。
久しぶりに海外から帰国してまで逢うのだから、空港まで迎えに行くとの申し出を彼女は断った。
…大事な話があるから…
結論がどちらに転がるのか、秋彦自身にも予想すらつかなかった。ただ、気持ちを落ち着かせる猶予が欲しかったのだろう、お互いに。
彼もまた、多くの観光客と同じように順路を示す矢印に従ってただ歩いた。写実的な絵には、へえ、と感心させられたが、それらの作者とて当時写真があったならためらわずシャッターを押す方を選んだだろう。
無粋だとの自覚はあった。有名だと言われる絵もわかりはしない。写実的な絵はやがて大胆に省略されてゆき、とうとう人の表情すら描かれなくなってしまった。
わからないな、俺には。
そう、わかりはしない。人間を識別する上で一番大切な顔すら描こうとはしない芸術作品も、仕事を辞めることを躊躇し、それでも酷く離れた日本と海外に住みながら二人の関係を続けようとあがく静佳のことも。
約束の時刻までまだ間がある。歩くのも疲れて、その辺のベンチに座り込む。秋彦の気持ちを反映してか、知らずに視線が俯いてゆく。だから床が気になったのだ。
なぜここだけ?
ふっと顔を上げた彼の目に飛び込んできたのは、本当に小さな額縁。そこに描かれた薄桃色。最初、何が描いてあるかさえもわからなかった。しかし、秋彦はその絵から目が離せなくなっていた。
隣にはもっと明るく朗らかな絵がある。大きな作品もある。新居のリビングに飾ったらさぞ見栄えがするだろう。
それなのに、取り憑かれたように目を逸らすことができない。
たったこれだけの小さな絵。なのに、それはまるで命を持つかのような脈動を伝えてきた。比喩ではない。根っからの理系の彼にそんな文才はない。
生きているのだ、この絵は。
遠目からもわかるほど、線が激しく盛り上がっている。油絵の具。それくらいしか知識がない。
それでも他の平坦な絵とは違う。立体作品のようにうねり、荒々しい絵の具の固まりが無造作に置かれている。それが動く。蠕動を繰り返し、己をこれでもかと主張する。
気持ち悪いとまで思った。
理解できないほど気味が悪いとも。
知らず知らずのうちに秋彦は立ち上がり、その絵に吸い寄せられるように近づいていった。
ああ、花の絵だ。
そんなこともわからなかった。きっとこれはバラだろう。こんな綺麗な花は、疎い秋彦にとってはバラ以外思いつかない。
思わずそっと手を伸ばす。どうしても絵の具に触りたい。この溢れ出す血液のような薄桃色に触ってみたい。生きているのだから、この花は触れば痛みも感じるだろう。涙を流すように、叫びながら血を流し続けるだろう。それこそが生きている証。
あと数センチ。あと…数ミリ。
「触らないで!!」
あまりにも厳しい声。秋彦は絵の中のバラが叫んだのだとばかり思った。あり得ない妄想だ。冷静に考えればわかるだろうに。頭を軽く振って苦笑する。
振り返れば、青いセルフレームの眼鏡を掛けた女性が秋彦をにらんでいた。
「す、すみません。あまりにこの絵がすごいから…」
うろたえるような彼の声に、彼女の方もハッとしたように我に返った。バッジをつけているということは、ここの職員なのだろう。顔を赤らめて頭を下げる。
「申し訳ございません。お客様に大変失礼な言葉をお掛けしてしまって」
普段はおそらく、穏やかで落ち着いた人なのだろう。必死に謝る姿に秋彦は自分の方こそ、と応えた。
「大事な美術品に触るななんて、小学生でも知ってることですよね。本当に恥ずかしいです。僕は全く絵のことはわからなくて。だけど、わからないのにこの絵だけは違うんです。生きてるみたいで気持ち悪くて、でもすごく綺麗で」
こんなとき、この絵の美しさを伝えられるだけのボキャブラリーがあったなら。いやそうじゃない。自分の中に生じた違和感と衝撃を、この女性に伝えられたら。秋彦は初めてそんなことを思った。
しかし彼女は、ふふっと笑って「わかりますよ」と柔らかな声色で言った。
きょとんとする秋彦に、作者をご存じですか?と問う。知るはずもなかった。
「これはヴィンセント・ゴッホの作品です。今日では、彼がサン=レミの精神療養院で描いたものと言われています。ゴーガンと仲違いし、彼が元々持っていたタッチを取り戻した頃の…」
ゴッホという名は聞いたことがある。耳を切り落とした自画像。画家なんてもんはすげえなあと、びっくりしたことを覚えているから。
しかし秋彦が目を白黒させているのを見て、彼女は説明を止めた。
「細かい解説は要りませんね。お客様はどう感じられましたか?どうして生きていると?」
油絵の具ってこんなに盛り上げて描くものなんですか?あまりにも初歩的すぎる質問だったかもしれない。それなのに彼女は深く頷いた。
「ゴッホの絵の魅力ですね。彼はその生命のすべてをカンバスに叩き付けた。あまりに激しい想いを、こんな清楚な静物画にもかかわらず、これでもかと言うほど塗り込めた。理解できないと去っていく人も多かったのです。先ほどのゴーガンもその一人です」
女性ですか?思わず訊いていた。恋人に去られたのかと思ったのだ。彼女はかぶりを振ると、男性の画家仲間です、と静かに答えた。そして隣を指さす。
明るくまぶしく健康そうな、真昼の太陽が似合いそうな絵。確かにうまいんだろうな。見栄えもするんだろう。評価も高いに違いない。しかしこの絵は、秋彦にとっては生きていない。脈動しない。その差が自分でもわからないことが歯がゆかった。
「ゴッホの絵は、見る人を一瞬で引き込んでしまいます。それほど強いエナジーを持っているのです。この絵の前から動けなくなってしまう人を、今までにたくさん見てきました。お客様のような方を」
まるで神の託宣でも聴いているかのように、その声は秋彦の心に届いた。
強いエネルギーを持つ絵。それはまるで、一心不乱に仕事に打ち込み、それでいて貪欲なまでに人を求める静佳の姿に重なった。
静佳という名に合わないねと、いつも笑いながらどことなく距離を持って見ていたのは俺だ。
激情とも情熱とも、そんな言葉には全く無縁だと信じていた。自分の中にこの絵に吸い寄せられる何かがあるとしたら。
「他の作品はないんですか?その、えっと…ゴッホの」
すみません、こちらにはこの一点だけなのです。軽く頭を下げたあと、お客様は海外にはよく行かれますか、と訊かれた。
ニューヨークになら…。静佳が暮らす街。一度だけ足を運んだ美術館で、あまりの広さに俺は一人、カフェテリアで時間をつぶしていたっけ。絵を見るのが好きな静佳に、あとでえらく叱られた。
「メトロポリタン美術館にも、ニューヨーク近代美術館にもゴッホの作品はあります。日本よりも、かえって落ち着いてゆっくりご覧になれるかもしれませんね」
おしゃべりが過ぎました、申し訳ございません。どうかこちらでもごゆっくり。
職員の女性は、優しげな香りだけを残してその場を去っていった。あのときの声とは別人のように。
やはり触るなと叫んだのは、この絵自身なのかもしれない。
もう一度、秋彦はゴッホの絵を見返した。
引き込まれる絵。何度見ても、どこから見ても。
どれくらい経ったのだろう。ぽんと肩をたたかれた。振り向けばそこには、厳しい表情の静佳。
「秋彦が絵に夢中になるなんて。ずっとカフェと売店を探し回っていたのよ?」
何か言いたげな静佳の手を引いて、ようやく秋彦はばらの絵から離れた。そうでもしなければ離れられなかった。
息苦しいほど、何かが追いかけてくるような気がした。手のひらに伝わる静佳のとまどい。
ようやくロビーにまで来て、秋彦は彼女に向き合った。
「あのね、あたし…」
「ニューヨークに行きたいんだ。どこの観光も要らない。行きたいのは二つの美術館だけだよ」
静佳が目を丸くする。そりゃそうだ。今までそんなこと言ったこともない。
「…そんなに絵が見たいの?」
ようやく口を開いた彼女に、秋彦はそっと首を横に振った。
「そうじゃない。見たいんだ、君が生きているところを。ちゃんと息をして脈を打って、生身の人間として動いている君の姿をこの目で見たいんだ」
そう、ゴッホの絵のように。
つぶやく秋彦に、静佳は黙って売店の方を指さした。
思わず振り向く彼の目に入ったのは、店中にあふれるばらの絵のレプリカ。
…取り憑かれたのは、俺だけではなかったのか…
静佳は腕を絡めると、ここ何年も見せていなかった心からの笑顔を秋彦に向けた。
彼女の脈動、息づかい。生きているからこそ、誰もが惹かれる。
秋彦は静佳の肩をぐいと引き寄せると、その体温を確かめるかのようにしっかりと抱きしめた。
< 了 >
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