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頑なな贈り物

「紅茶の缶は…中身開けないと燃えないゴミに出せないよな」


僕は、流し台の下を開けてしばし呆然となった。それほどの大量の山。紅茶の大群。

すっかり忘れていたんだ、ここにしまい込んでいたことを。


普段は全く紅茶なんか飲まないし、第一この部屋にはティーポットすらない。

封も開けていない一缶を手に取る。賞味期限は昨年の日付。少しだけ胸がちくりとした。


「信!荷物は全部できたの?」


急にドアが開き、明るい声が飛び込んでくる。未だキッチンの床でもぞもぞしている僕の姿を見て、沙紀はため息をついた。小首をかしげて不満げな唇までもが愛らしい、と言っておけば機嫌はいいんだろうな。

彼女は僕の横に同じように座り込むと、勝手にグリーンに光る缶を手に取った。


「へ…え、フォートナムメイソンかあ。信もけっこう趣味がいいんだね」


ちょっと小バカにした物言いに、僕はなぜかむっとして彼女の手から「それ」を奪い取った。趣味も何も、紅茶のことなんか何も知らないよ。開けてもないくらい、見たらわかるだろ!?


「…怒ったの?どした?」


いつもやるように、沙紀が僕の額にその冷たい指を当てる。ひんやりとした感触が好きで、普段ならされるがままになっているのだけれど、でも。


「沙紀にしたら、おれなんかガキっぽいだろ?本当にいいのかよ!?」


彼女は少しばかりまじめな表情を作り、僕の目をのぞき込んだ。


「普通さ、女の方が悩むんじゃないの?三つも年上で…ってさ。信みたいな若い男の子は、いつかはやっぱり若い女の子のところに行っちゃうんじゃないかって」


気にしてたの?かすれた声で僕がささやく。そっと首を横に振る沙紀。僕には彼女の真意がつかめない。



海外支社への転勤希望を出したから来年の春には渡米かな。そう告げた彼女に、遠距離恋愛ではなくついて行くと言い張ったのは僕だった。

別れ話を切り出したつもりだったのに。あっけらかんと言われて、離れるもんかとふてくされた。

研究職志望でもともと大学に残るつもりだったから、僕があわてて留学の受け入れ先を見つけ出した頃には、季節がいくつも変わっていた。


そのときのドタバタぶりを持ち出しては、沙紀は僕をよくからかった。



「信って、そんなに好きだったっけ?あたしのこと」


今日だって、ほら。寒いワンルームのキッチンに座り込み、大きな瞳をくるくるさせて僕を軽く睨む。

返事もせずにそっぽを向いた。口の中だけでそっと呟く。


「えっ、何て言ったの?聞・こ・え・な・い!」


「離れちゃいけないんだよ。せっかくつながった二人なら、手を離しちゃダメなんだよ」


僕の声にひそむ何かを察したのだろう。沙紀から笑顔が消え、真剣な目がまっすぐ僕を向いた。



沈黙に耐えきれずのばした僕の指に、紅茶の缶が触れてかたんと音を立てた。


アイリッシュ・ブレックファスト


アッサム・スパーブ


クイーン・アン・ティー


セイロン・オレンジ・ペコ


そして、ファウンテンブレンド…。



美しい色に輝く真四角の缶を、沙紀はまるで積み木のように並べてゆく。僕の知らない銘柄も、彼女には簡単にわかってしまうのだろう。僕が押し込めた想い出も、おそらくきっと…。


「よほどこのメーカーが好きだったんだね。こんなにたくさん送ってこられて、嬉しかった?」


沙紀の視線は僕には向かない。ただじっと、紅茶の名前ばかりを見つめるだけ。


「そこの街にはさ、デパートなんて一つしかなくて。ここにしか売ってない有名なイギリスの紅茶だって言って」


あの娘はいつも、僕に紅茶を入れてくれた。苦いばかりでうまくもないのに。何度もそう言ったのに。あの娘はこの緑色に都会を感じて。僕はただ、カップを飲み干せばこの苦みから逃れられるとだけ念じて。


遠い距離が二人を変えた。ありふれたストーリー。


あの娘は毎週のように紅茶の缶だけを送りつけてよこした。僕は、断ることもできずに受け取り続けた。


逢う約束さえしなかった。遠い遠い…想い出。



「失いたくないんだ。今度は間違えない」


たぶんあの娘とは、距離がなくても離れていたんだろう。今ならそれもわかる。


でもなお、心に残るのは…もしあのとき…


「…ありがとう」


聞き取れぬほどのささやき。勝ち気な沙紀の初めての言葉。


めまぐるしく変わる環境に慌ただしい毎日。わかっているけれど、今だけはもう少しこのままでいたいから。



「どうするの?この缶の集団!」


集団?変な言い方。くすくす笑ったら沙紀はふくれた。


このままこっそり燃えないゴミかなあ。僕が声をひそめると、ぴしっと指で弾かれた。


「あのね、時代はエコなんだよ!!って、これはビン・缶の収集日には出せないだろうし」


そう言いながら、凝ったデザインの缶に見とれている。こういうの好きなんだよな、女ってさ。


「一つ飲んでみない?」


え…、おれは苦いのがダメでだから。それに道具もないし。

言い訳はすべて却下された。沙紀は、まだ梱包もされていない急須を見つけ出すと、手早くお湯を沸かし始める。

二人で、じっとガスの火を見つめ続ける。


沙紀は平気なんだろうか。昔の彼女からもらったお茶を飲みたいと思うものなのだろうか。

まるで僕の心を見透かすかのように、彼女は身体をそっと寄りかからせた。

めったにしない、甘えるような仕草。しっかりしていて頼れる姉御の顔から、僕の前だけに見せる顔へ…。


「全部、割り切れると思ってた。仕事で長く海外に行くのに信とは続けられない。あたしはそれで平気だと思いこんでた」


うん。沙紀の体温が伝わる。


「でもきっと本当に忘れるためには、山になるほどの紅茶缶が必要なんだなって。長い長い時間、あたしは前の彼女と同じように一人で店に行き、一つの缶を選び、包んで。毎週送りつけなきゃ思いは断ち切れないんだよね、きっと」


「沙紀は送らないよ、もし離れても」


強いから。そう続けようとした僕は言葉を止めた。

沙紀の頬に指を置く。そうだね、離れる辛さを知っているからこそ、自分から切ろうとしたんだね。

傷つかないうちに、紅茶の葉が開ききって苦みが出てしまわぬうちに。あっさりと白湯のような関係だけを繰り返して。


ムードないけど、我慢して。沙紀は少しだけ笑うと、丁寧に缶を開け、古ぼけた急須で紅茶を入れ始めた。

時計を見て、頃合を慎重に図る。苦くないように淹れてあげるから。マグカップに最後の一滴までもを注ぎきる。

今まで一度も開けようとしなかった紅茶の香りが、部屋いっぱいに広がる。閉じこめていた想い出も、すべて皆、空間へと拡散してゆく。香気成分はやがて空気中へと溶け込み…消える。


ああそうか。あの娘もこうやって少しずつ忘れて欲しかったのか。僕はそれを頑なに拒み続けていたのか。

おおよそ自分勝手な論理で、納得させようとした。


封を切れば、ゆっくりと混じり合えるのにね。あとはただ、缶のふたを開けるだけの勇気さえあれば。


なぜだか立ったまま、僕らは淹れたての紅茶を味わった。

上手に淹れられたそれは、期限が切れているにもかかわらず、ちっとも風味を損ねてはいなかった。

微かに、ほんの微かに舌に残る苦み。それはきっとあの娘の想い。



僕は沙紀を後ろからかかえるように腕を回し、紅茶の入ったカップごと…やがて来る春を抱きしめた。


<了>


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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