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ディオニソス

立野駅は半年前と変わらず、ひなびた駅舎をさらしていた。名のある避暑地だというのに今は人の姿もまばらで、今の電車で降りたのは良介だけだった。

人待ち顔のタクシーに近づく。すぐに愛想よくドアを開けた運転手は、乗り込む彼を見ていぶかしげにバックミラーをのぞいた。


「立野丘の上病院まで」


「…お客さん、テレビに出てませんでした?」


気さくそうに声を掛けてくる初老の運転手に、良介は苦笑いする。


「っかしいなあ、まだ指名手配されてないはずだけど?」


まだ年若い良介の戯れ言に、笑いを返す。またまたあ、まあ詮索はしませんよ、と。


「詮索も何も、一般人ですよ。そんなに芸能人っぽい?俺。まだJ事務所とか狙えるかなあ」


ゆるくウエーブを掛けた髪を結わえ、黒いレザーキャップを目深にかぶる。その上から度の入っていないセルフレーム。都会から解放された気軽さで、ようやく良介の口も軽くなる。


「あー、思い出した!」


運転手の声に、一瞬現実に引き戻されそうになる。ミラーの彼と視線が合う。


「お客さんさ、こないだ出てたスポーツ選手に似てるんだ。言われない?」


さあね、スポーツ見ないから。野球かなんか?そう言いながら良介は、日本では盛り上がってきたとはいえまだマイナーなあの競技、それも実績を残してもいない選手をどうか覚えていませんようにと願っていた。


「野球と言えばね、ここの高校出身のピッチャーが…」


うまい具合に話がそれる。もしかしたらそれは彼の気遣いだったのかも知れない。これから良介の向かう場所は、もし有名選手だとしたらあまり知られたくないものだろうと瞬時に察したか。


良介は、全日本フィギュアスケート選手権大会の初出場を間近に控えた選手だった。バッジテストも受かり関東大会には参加するものの、高校を卒業するまでは全くの無名。それが今年に入ってから東京のアイスクラブに拠点を移すと、今まで眠っていた才能が開花するかのように次々と予選を通過した。

彼の持ち味は、高いジャンプとスピード感。相反する要素のしなやかさと表現力。どちらも兼ね備えて、なぜ彼が今までジュニアで活躍できなかったのか。それまで所属していた長野アイスクラブを暗に非難する者さえいた。


…四回転を飛べたのも、まぐれ。あとがないのも事実…

本当の理由は…単純に金だ。

練習にすべてを費やせるほどの収入が家にあろうはずもなく、それどころか生活費にも事欠く日々。彼自身がバイトをして手に入れたわずかな金は、食費と光熱費…それすら必死に削って何とか捻出したクラブ代にすぐ消える。

彼の才能を見抜いた長野クラブの母体、京王中央アイスクラブに引き抜かれ、東京大会予選通過を条件に奨学金を手に入れた。

そして、今。

俺は理事のジジイどもに言われるがまま、プライバシーを切り売りして練習費を稼いでいる。


黙って目をつぶる良介を、眠ってしまったと判断したのか、運転手も無言となる。

何度も通ったはずの丘の上病院が、やけに遠く感じた。



「いつもお世話になります。高杉ジュリアンの息子ですが」


受付で言い慣れたセリフを告げる。前と同じように事務的にドアが開き、鍵を持った看護助手と看護師に付き添われて廊下を歩けばいいはずなのに、今回ばかりは勝手が違った。


「あー!!ちょっとちょっと、良介くん来たの!?」


わらわらとギャラリーが集まる。見慣れた顔ばかりではあるが、いつも物静かな病院なのにと思うと良介は面食らった。


「すごいじゃない!テレビですっかりおなじみになっちゃって」


「あんなにスケートが上手だなんて知らなかったあ。あーあ、応援に行っておけばよかった」


「ねえ今度の全日本、みんなで旗持ってって、それから花束投げてもいい?いっぺんあれやってみたかったのよねえ」


女性ばかりのにぎやかな声に囲まれ、良介はどう答えていいものか戸惑った。



ニュース番組のドキュメンタリーコーナーで、まだこれから活躍が期待される選手として紹介された。フィリピン人の母と早くに亡くなった日本人の父とのハーフ、高い身長と彫りの深い顔立ち。それだけでも目を引くのに、彼には制作側のスタッフに言わせれば「売りになるもの」がいろいろあるのだという。

日本で生まれ、一度帰った母国からまた長野へと舞い戻った。そのときにはすでに彼の脚には、もうこの国では珍しい伝染疾患の後遺症。大きなハンディを背負いながらのスケートへの挑戦。それを母親と二人三脚で乗り越えてきた。

全日本で勝っても負けても、おそらく良介の記録番組は高視聴率を取るだろう。プロデューサーとやらにそう笑顔で告げられたとき、あまりのおぞましさに反吐が出る思いだった。


俺はハンディを克服して、それでも純粋にスポーツを極めたいと努力する美談の主役なんかじゃない。


本音など、胸の奥底に深くしまい込んだ。誰にも気づかれぬよう。何ごともなかったかのように、カメラの前で母への感謝の言葉を語り続ける。応援のメールが次々と送られる。すべての想いを飲み込み、良介は健気に微笑んでみせる。


黙っていればバイトをせずともリンクまで貸し切りだ。腕のいいコーチも雇え、トレーナーに脚の状態を見てもらうこともできる。


お涙頂戴で、いい身分だな。急激に成り上がった彼に、口さがないクラブメートやトップ選手らは容赦のない言葉を浴びせた。言われても当然だ。良介はそう思い続けていた。



嬉しそうに彼を迎える善意の看護師たちに何と伝えたらいいのか。困惑する良介と彼女らの後ろから、大きな咳払いが聞こえた。


「いい加減になさい!職務がおろそかになってやしませんか?」


総看護師長の稲葉が、意志の強い大きな目で皆をぎろりと見渡した。若い彼女らは首をすくめて急いで持ち場へと戻る。

稲葉は良介の背中を押すと、師長自ら閉鎖病棟への鍵を開けた。


長い長い廊下を、二人はしばらく無言で歩く。世間のイメージと反して静かな空間。

ここはその殆どが一人用の病室だ。病棟という名の…収容所。


「あの、母の様子は」


ためらいがちに口を開く良介に、稲葉は滅多に見せない柔らかな表情を浮かべた。


「このところ落ち着いているのよ。保護室入りは、一度だけだったから」


…やっぱり、何かあったんですね。良介がうつむく。今度はどんなトラブルを起こしたというのだろう。気が重くなる。


「あれはどちらも悪いのよ。他の患者さんがこっそり見舞客から差し入れられたウィスキーを…」


「母が取り上げたんですね」


うなずく稲葉に、事実はおそらくもっと酷かったのだろうと推測する。母ほどのアルコール依存症患者に、理性の歯止めは利かない。



「立野丘の上病院」は、アルコール依存症患者のための専門医療機関として名が知られている。

一年ほど前、今度こそきっちり病気を治すと涙を流す母に、役所の人たちが苦労して見つけてくれたのがここだ。

頼るべき親類も誰もいないたった二人きりの家族なのに、これで解放されると思った良介はその瞬間から感情を閉ざした。

もう、暴れて酒瓶を投げつけられることもない。夜中にコンビニへ裸足で買いに行かせられることもない。


たった一人、俺は…自由。泣くこともできずにここまで過ぎてしまった。


環境は変わり、きりきりと神経が張り詰める勝負の世界へ。たった一人の肉親を家族をここへ置き去りにしたまま、俺は笑って過ごしている。



母の病室の前に立つ。清潔で光のあふれる部屋。俺たちが住んでいたアパートの一室よりよほどマシだ。良介は頭を軽く振ると、晴れやかな笑顔を作った。

稲葉の視線をわずかに感じる。それでも彼女は何も言わなかった。

ドアの鍵を開けた瞬間、母親は良介にすがりついてきた。


「良ちゃん、良ちゃん!待ってた。帰ろ?早く家帰る!」


「ママ、元気そうでよかった。師長さんと一緒に、ママの部屋に入ってもいい?」


声のトーンを上げ、明るく声を掛ける。やっと逢えた。そんな表情が見て取れる。

母親のジュリアンは、子どものようにうなずくと、彼らを部屋に招き入れた。

病院のスタッフによって清潔に保たれた部屋と、きちんと整頓された衣類。お母さんも少しずつやってらっしゃるのよ。稲葉がそっと良介に耳打ちする。

ジュリアンは嬉しそうにはしゃいで、取っておいたと思われる菓子を良介に差し出した。


「おやつ、ママ要らないから良ちゃん食べて。食べて大きくなって。背、伸びないと」


「ねえ、ママ。僕はもう十分伸びたって。でも、ありがとう。すっごく嬉しいや」


そっと、袋の中で割れてしまったクッキーを手に取る。封を切ることもせず。

ジュリアンはそれで満足したのか、今度は週刊誌を取り出した。


「松野さん、くれた。良ちゃん載ってる。すごいね。すごいね。ホントよかった」


言い続ける彼女は、もうすすり泣いている。その肩と背中を、良介は優しくさするようにする。


「ママのおかげだよ。ママがずっとスケートをやらせてくれたおかげで、僕は大会に出られるようになったんだ。今度は日本一を決める大会だよ?全日本だ。ウソみたいだね。自分でもまだ信じられないや。みんなみんな、ママのおかげ…」


彼女の肩が上下する。実際のところ病気のせいで両脚の長さが違ってしまい、三度も骨を伸ばす手術までした彼を、歩くのもままならない良介を、それでもリンクに無理やり引きずっていったのは母親のジュリアンだ。安全面の保証をしかねると、どこのリンクでも断られたのに、あきらめずに長野アイスクラブに強引に入れたのも…彼女だ。

ヘッドギアとプロテクター、そして母親が目を離さぬこと。幾多の条件をつけられ、滑ることができるとは思えないと断言され、なのに「この子は絶対滑れる。選手になる。大会に出す!」と言い返したのも。


「ママが僕のスケートを支えてくれたんだ。靴代とクラブ費のために、毎日慣れないお酒ばっか飲んで。ママを病気にしたのは僕だ。だから今度は、僕がママを治してあげるよ。ね?だから先生たちの言うことをよく聞いて?」


「もう飲まない。良ちゃんと約束。だから帰ろ?一緒、おうち」


幼児返りのように駄々をこねる。それを優しくいさめる。


「ママが大好きだよ。早く治って欲しいんだ。我慢して、もう少しここでしっかり治そうよ。そうしたら僕が必ず迎えに来るから。全日本でメダル取って、世界大会にだって出て。ママと一緒に住める家を探そう。そのために僕も頑張る。だから…だからママも。ここで頑張って」


ジュリアンの視線がうつろう。その手をそっと持ち上げて、良介は指先を絡めた。


「約束だよ!?今度僕が来るまで、お酒は飲まない。みんなと仲良くする。先生の言うことは聞く。できるよね?」


うん、うんとうなずく母親に、良介はもう一度にっこりと笑いかけた。

稲葉が彼の肩に触れ、時間だと促す。良介は後を振り返ることもなく部屋を出た。



ドアの鍵が閉まる音。中からすすり泣く声。彼は思わず耳をふさいだ。

ふいに駆け出すと、廊下の一角に置いてあるベンチに手を掛ける。えずきを抑えるように下を向く。息の荒さを必死でコントロールしようとした。フリーの演技が終わったときのように。

近寄る稲葉の気配に振り向いた彼は、もう笑顔を浮かべてはいなかった。


「良介くん」


「あんなババア、早くくたばれ。もう…顔も見たくない」


食いしばる歯の隙間から、押し殺すような低い声。稲葉はそっと手を差し出すと、彼をベンチに座らせた。

頭を抱え、良介は何も言わない。稲葉もまた、忙しいであろうに黙って待ち続けた。


「大嫌いだ、あんなヤツ。あいつのせいで俺が今までどれだけイヤな思いをしてきたと思ってんだ。それなのに、何一つわかってない!何で身体だけは丈夫なんだよ!!」


視線を合わせることなく、厳しいはずの看護師長はゆったりと背中を壁にもたれかけた。


「良介くん、スケートは好きなの?」


好きな訳ない!即座に吐き捨てるように言い切る。歩くのだってやっとなのに、あいつは鬼みたいに俺をリンクに突き飛ばしたんだ。いつも、いつも!いつも!!


「お母さんは、それほどスケートをさせたかった。あなたのリハビリになると思ったからなのかしらね。いつもその話になるの。あきらめずに通ったから、良ちゃん歩けた。走れたってそれはそれは嬉しそうに、ね」


「…男だよ」


聞こえぬほどの小さなつぶやき。それでも静かすぎる空間にはわずかに響いた。


「高杉の父とは血のつながりなんかない。本当の父親が誰だか、あのババアは俺には言わない。でも一度だけ口を滑らした。パパさん、見返す。あんたのパパより強くなりなさい。酔っぱらって本音が出たんだろ。あのババアは自分を捨てた男が許せなくて、俺を復讐の道具にしたいだけなんだ…」


稲葉の声も微かなものだった。誰も聞いてはいないのに、静かな片隅でのひっそりとした内緒話。


「お母さんのこと、憎んでる?」


答える代わりに、良介は何度も何度も首を縦に振った。手を固く握りしめ、額に当て、うなずき続けた。


「…よかった」


師長の意外な言葉に、ハッとして良介は顔を上げた。


「みんな心配してたのよ。あなたがあんまりいい子だったから」


どういう…こと…?困惑気味の表情の良介に、彼女も今度は、はっきりと微笑んで見せた。


「さっきの病室での会話。テレビで語るあなたの姿。何も知らない人から見れば親思いの優しい子。誰だってそう思うでしょうね」


良介の顔が辛そうに歪む。


「でもね、よく聞いてちょうだい?アルコールに飲まれているのは、あなたではなくてお母さん。そうよね?」


でもそれは、俺のリンク代を…。言いかけた彼にそっと手を触れる。その先は言わなくてもいいから、と。


「確かにお母さんはあなたを支えてくれたかも知れない。世間から見たら、感謝することは悪いことじゃないのでしょうね。でも、お酒を飲むと決めてそうしていたのは、あくまでも彼女であってあなたじゃない。どうしてあなたが責任を感じる必要があるのかしら」


あくまでも静かな稲葉の声に、戸惑いが隠せない。


「だから、もし本気であなたがお母さんのことを全面的に受け入れていたらどうしようかと、ニュースを見るたびにここのスタッフたちは心配でならなかった。あなたが、ちゃんとお母さんを憎んでいてくれて…よかった」


泣くまいと唇を噛みしめる。動揺がばれてしまわぬよう。


「あなたにはお母さんを恨む権利も、嫌う権利もある。思い切り心から、きっちり憎みなさいな。そして、あなたはあなたの生活を大切にして…えらそうに聞こえたらごめんなさいね、あなたの人生を生きて欲しいの。スケートが嫌いなら、今すぐ辞めればいい。誰も止めないわ。滑りたいのなら、お母さんのためではなく」


「…自分の…ため…に、と?」


今度は稲葉が深くうなずいた。手にした鍵束がじゃらんと音を立てる。静かに立ち上がり、今までの会話がなかったかのように自然に歩き出す。良介もまた、のろのろとその後をついて行った。


先ほどの一喝が効いているのか、帰りはみな静かに見送ってくれた。

稲葉はまだ、誰にも何も言っていないはずなのに、良介を見つめる瞳はどれも優しい。




自分のために、滑る。母親の期待に応えるためでも、見知らぬ父親を見返すためでもなく。

…できるのだろうか、この俺に。


知らぬうちに彼は、傷ついた方の脚を温めるかように手を置いていた。

手当て…手を当てて癒す。本当に癒したいのは、どこ?そしてそれは…誰?


外の木々に目をやると、良介は胸の奥から大きく息を吸い込んだ。


                 <了>


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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