最後のジタン
【ブログネタ小説】 <最後のジタン> 北川 圭
「タバコを吸う男がモテる理由って知ってる?」
たまたま飲み屋で隣に座った男は、あたしの顔も見ずにそう言い捨てた。手相を見てやるって言い出さないだけマシだわ。
そういう本人は、いつまでも名残惜しそうに一本のジタンを弄んでいる。
「へえ、まだ売っていたの?確かフランス製のタバコよね」
独特のパッケージデザインで知られるその銘柄は、情熱的なジプシー女が扇を手に踊るシルエットで人の目を惹くもの。自分のキャラクターを手っ取り早く見せる為の小道具。しょせん通りすがりの男なんてそんなものなのだと、あたしは自分に言い聞かせた。
「質問に答えろよ。俺はあんたに訊いてるんだから」
男はただカウンターに視線を落とす。その仕草を見てはダメだとあたしの心に警報が鳴り響く。
「知らないのなら知らないと素直に言えないの?」
小バカにしたような物言い。だから女ってヤツは……。てっきりそう続くと思ったのに、男は「だからあんたは」とだけ呟いた。
「初めて逢ったくせに、随分と偉そうね」
「ああ、俺は偉いからね」
は?鼻で笑ってやろうとしてそれは上手くいかなかった。セリフと声色が全く合ってなどいない。それほど深い絶望を抱えた、暗い表情。
「じゃあ教えてよ。どうしてモテるの?それに、タバコを吸うくらいでモテるんだったら吸えばいいじゃない。未練がましく火もつけないで持ってるだけなんて」
あたしは、そいつからすっと一本のタバコを奪い取る。少しばかり驚いた顔に、サディスティックな感情が生まれる。さあこれを、目の前でこれ見よがしに吸ってみせようか。それともへし折ってしまおうか。
心なしか手持ちぶさたとなったそいつの瞳がかげる。たかがタバコになぜそこまで。
「喫煙習慣は」
寂しげに言葉を紡ぐ。あたしは男の心を踏みつけるつもりで、フィルターを口元まで持って行こうとする。ほんの小さなパワーゲームが、こんな場末のカウンタバーでも行われてるだなんて、どれだけ偉い心理学者でも思いもしなかっただろう。
「口腔粘膜や口唇、舌によって感覚的な快を感じる年頃に、母親からの基本的信頼感を獲得しそびれた男が代償行為として行うものであり…」
「その寂しげな態度から、女性の母性本能を引き出す。とでも?また随分と古くさい説を持ち出してきたのね。フロイトが主流だった時代はもう遙か昔のこと。知らないとでも思った?それとも、これでもかと寂しさを押し出せば女は落ちるとでも?」
他のタバコとは違う短めのフィルターに、あたしのリップが軽く触れる。いくら色落ちのしにくいものが多いとはいえ、そいつが後生大事に抱えていたタバコにはあたしの痕跡がくっきりと残るはず。
残念ね。マザコン男の幻想をぶち壊すような真似をして。
ジークムント・フロイトは二十世紀初頭に活躍したオーストリアの精神科医であり、その後の多くの精神療法に影響を与えた。精神分析という言葉を聞いたことのない人はいないだろう。そして、何かにつけては成人後の問題行動を乳幼児期の愛情獲得失敗へと結びつけた学者として。
「俺は、寂しくなんかないよ。言ったじゃない、偉いんだと」
言葉と態度が裏腹なことを、ダブルバインドって言うの。知ってる?
赤い色で書かれた<青>という文字の持つ矛盾。その字は果たして赤いのか青いのか。
目の前の男は、寂しいのか寂しくはないのか。そしてあたしは、その寂しさを埋めてあげたいと思っているのかどうか。
「あなたの母親代わりなんて、誰にもできないのよ」
「知ってるさ」
男は知らない。どこかに理想の女がいて、枯れることのない無償の愛情を注ぎ続けてくれると信じている。
「あなたがたとえ、今その愛情をもらったとしてもダメなんでしょう?幼子に頬ずりして何の邪念もなく抱きしめてあげられるのは、それが無垢な子どもだから」
「ああそうだね。今からもらえるとも思ってないよ」
男はあきらめない。いつでも心は時を遡り、むさ苦しく男くさい別の生き物に変貌を遂げたあとでも、純真無垢な赤ん坊に戻れると信じている。
いつまでも柔らかい胸に顔を押し当て、心ゆくまで安堵感に浸ることのできたあの頃に戻れると信じ、その代わりにタバコのフィルターを咥えようとする。
唇が寂しいから。寂しいと言葉にするには……ちゃちなプライドが邪魔をするから。
男はいつまでも過去に目を向け、女に母親を求める。
女は……男に対してではなく、否応なく現実の子どもの母親にならざるを得ないから、過去ではなく未来を生きようとする。
埋められない、越えられない、深い深い断裂。
あたしは容赦なく、ジタンに火をつけた。赤い色素をべったりとそのフィルターに染み込ませ、煙を深く吸い込んだ。吐き出した白い残骸は、宙を舞う。男の元へは戻らない。
あたしはこの、小さなパワーゲームに勝ったんだろうか。大して嬉しくもないけれど。
半分も吸ってはいないタバコを、灰皿に押しつけるように消す。目の前の哀しげな男を痛めつけるかのように。
「ありがとう」
そいつの発した言葉の意味を図りかねて、あたしは思わず見つめ返した。ここはあなたが哀しくて泣くところじゃないの?大切に持ち歩いていたであろうジタンは、無惨な姿になってしまったというのに。逢ったばかりで名前さえ知らないあたしを恨むんじゃなくて?
「タバコを吸うことは、結果的には自分の健康を損ねるという意味で緩やかな自傷行為だと言われている。実際フロイトは、自身の長年にわたる喫煙が原因で、口や顎の癌手術を三十三回も繰り返し受け続けた。いつかはやめようと思っていたんだ」
死ぬのが怖いから?ねえ、またあなたの言葉と態度が離れ始めているんだけれど。気づいているのだろうか、この男は。いつ死んでも構わないという絶望しか、あなたからは受け取れないのに。
あたしはあわてて、バッグの中に入れてあったメンソール系の軽いタバコをかき集め、それを男に押しつけた。
「ジタンの代わりにはならないかも知れないけど!タバコで済むならいいじゃない!それで、少しでも寂しさが埋まるのならいくらでも吸えばいいじゃないの!!」
少しばかり大きな声は、安っぽくて分厚い絨毯敷の床に吸い取られてしまった。残るのは男の周りに撒き散らされた、あたしのメンソール。
そいつはもう一度、小さくありがとうと呟いてから、そうっとあたしの手首を握った。
「誤解するなよ。俺はもうタバコには逃げない。女にも、ね。モテない男で十分だ。泥まみれでみっともないと思われようが、あがいてみるさ。生きることに」
そんな言葉を信じろというの?深い闇を抱えた瞳を見せながら。これっぽっちも説得力なんかありはしないのに。
「賭をしたんだ。傲慢で身勝手な、ね」
「賭?」
「今夜となりに座った女は、簡単に俺になびくだろうかと」
手首を掴まれているから、平手を食わせることもできない。あたしは唇を噛んでそいつを睨みつけた。
「なびくのなら女に溺れようと思った。刹那的に今までのように、ただただ呼吸をするだけの存在として。でもあんたは違った」
あたしは睨むのをやめない。
「心のどこかで捨てられずにいた最後のジタンを、いともたやすく吸ってひねり潰した。ああ、こんなに簡単なものだったのだと……思い知らされた」
口唇期の迷信から、呪縛から、俺は自由になる。生きることを選ぶよ、と。
「そんな生き方、しんどくはないの?」
つい口にしてしまった言葉。思うだけで救えるほど軽い絶望ではないことくらい、その瞳を見ればわかる。あたしは、そいつの支えを強引にもぎ取ってしまったのだろうか。
「俺はとてもあんたみたいな女のようには強くないから、しんどいだろうね。それでも、やってみるさ。退路は断たれたからな、あんたからあっさりと」
また鼻で笑われた。けれど瞳に映されたほんの少しの優しさ。
男はあたしを不意に引き寄せると、きつく深く唇を押し当てた。まるでジタンの残り香をすべて奪い取ろうとでもしているかのように。
あたしの身体から力が抜け、頭の芯がしびれる頃に…そいつはあっけなく身を離した。
放心状態で座り込むあたしの手にライターをそっと載せる。
「捨てておいて。もう俺には必要ないから」
いくばくかの札を置いて、男はそのまま出て行った。
あたしは……まだ温かさの残るそのライターを、思い切り壁に投げつけた。
<了>
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