幸せな痛み
【ブログネタ小説】<幸せな痛み> 北川 圭
「ふわあああああ」
朝っぱらから大あくびをしていたら、向かいの席からくすくす笑いが起こった。
二つあけた隣の白井さんからは棘のある視線、とどめは課長からバインダーで頭頂部を強打された。
「あにすんですか!?」
割と本気に涙目で訴える僕に、助け船を出そうとする勇者は現れない。課長は半ば呆れ気味に…ほどほどにな、新婚さん…と苦笑いした。
鈍感にもほどがある僕は、そこでようやく皆の表情が意味することを理解した。そして、こぶになったんじゃないかってくらいまだ痛む頭を抱えた。誤解だよ、それは…と。
「式も挙げなかったんだって?」
昼休みには、同期の東條が社員食堂で大声を出す。トレーを持ったまま僕は、あわててヤツを隅のテーブルに引っ張っていった。
「何だよ、すっかり<寝不足・安藤>って有名になってるぜ?友人代表のスピーチならいつでも引き受けるからさ」
一番安いたぬきうどんをすすりながら、東條は意味ありげに僕を見上げた。なんだ、愛妻弁当じゃないのか、余分な一言を付け加えながら。
「いいんだよ、向こうは二回目だし」
「勇気あるな。子持ちの年上だって?どこで知り合ったんだよ」
東條みたいなスピーカーに誰が話すか。明日には下手すりゃ、これだけ大きいうちの社長までもが知っていてもおかしくはないのだから。ボリュームのあるA定食に、僕は無言で食らいつく。
「食欲あるよなあ、若いから」
同期だってのに、嫌味にもほどがあるぞ。三人の子持ちのやっかみか!?
「いろいろ訳があるんだよ!」
どんな訳だ!?途端に食いついた東條は身を乗り出した。
残念ながら、僕が亜美と結婚した訳やら事情やらを話す気なんかない。ただ出会った。たまたま彼女には以前、結婚経験があり、まだ幼い子どもがいたというだけ。普通の恋愛と何が違うというのだろう。僕の言った訳とはそんなことじゃない。
例えば、寝不足になるのはさ。
…………
三歳になる正俊は、ものの見事に寝相が悪い。前にどこかの雑誌で読んだことがある。子どもは昼間の運動疲れを、眠る姿勢でうまく矯正するのだと。大人のように行儀よく眠らないから、疲れを残すことも身体の節々が痛むこともない。背中を丸めていた日は、ぐいと伸ばし、右側をたくさん動かした日は左でバランスを取り…。
本当かどうかは知らない。けれどそのおかげで、僕の背骨には素晴らしい蹴りが入り、あまりの痛さにうめくことしかできなかった。気を抜いていると、ぐーの拳が顔面を直撃だ。ふと目を覚ますと、僕の腹の上に全体重をのっけていたこともあったっけ。
そのたびに僕はしっかりと覚醒してしまい、続きの眠りはなかなか訪れず、痛さをこらえ。そして、その身体の重みにホッとするんだ。
母親である亜美は、たぶん意識もない状態で掛け布団を引っ張り上げ、正俊の上に掛けてやる。何度も何度も。
僕らは、暮らし始めてからずっと、真ん中に正俊を挟んで川の字に寝ている。それが夢だったと、うつむきながら彼女に言われた日から…僕はささやかな夢を叶えてやりたいと奔走した。
三つ年上の彼女を、別れてからも追い回す元亭主から匿い、警察と弁護士に相談し、裁判所にも足を運び。
二人に近づくことを禁じられた男が去って行ってからも、正俊は怯え続けた。いくらそばに添い寝しようとしても身体をこわばらせ、僕が鼻でもこすろうかと手を動かしただけで頭をかばうように小さくなった。
そのたびに亜美は根気よく小さな身体を抱きしめた。
…大丈夫。真澄くんは優しいの。叩いたりしないの。お酒も飲まないの。だから大丈夫…
僕はビール一本も飲むことをしなくなり、その代わり昼間くたくたになるまで外遊びをした。小さい彼を放り投げてキャッチする。重たいとも言えず、喜ぶ顔が見たくて繰り返す。ボール投げと言ったって、彼の足元に落ちる柔らかな球を僕は必死に拾いに行く。正俊が取られまいと手を伸ばす。二人で取り合いだ。ようやく目を合わせて笑顔が浮かぶ。
疲れ切った幼い子どもは、ぐっすりと眠った。僕ら二人の真ん中で。両腕を武器のように振り回して。
僕の感じる痛みはうれしさの混じったもの。幼い彼がこれまで感じていた痛みは…想像もできない。
だからこそ、川の字にこだわった。亜美を抱きしめるときも二人一緒に。僕のそう長くもない腕を精いっぱい伸ばして。
寝相で身体のバランスを修整するのと同じように、夢を見ることで心のバランスは少しずつ治されてゆくのだという。ときおり大声を出す彼を、亜美と奪い合うようにして抱え込んだ。
大丈夫、ここは安全だよ。安心していいよ。いくら暴れてもいいんだよ。僕がいるから。守ってみせるから。
…………
「年上のかみさんはさ、料理とかできるのか?まあ、スタミナは必要だろうけどさあ」
東條の含み笑いに、顔面パンチを食らわせようかどうしようか悩み、それよりも食欲を優先した。話したってわからないだろうさ。
家事の上手い亜美が作る料理は、大人用二人のしゃれた皿と、お子様ランチ風のプレートにちゃんと分けて盛りつけられる。
それなのに、僕も亜美も、お子様用プレートに正俊の好きそうな肉やミニトマトや栄養のありそうな魚をどんどん放り込む。
「おなかいっぱい!!」甘えた声が響く。それが嬉しくて、また入れてしまう。
亜美と顔を見合わせて笑う。ささいな幸せが怖いくらいだと、彼女は涙ぐむ。
自分の食欲を満たすより先に、二人の心を安心という栄養で満たしてやりたい。僕の偽らざる想い。
東條に、他の連中に話してもわからないだろう。僕にだって説明もできないくらいなんだから。
背中についた目に見えない小さな足跡は、なりたての父親を試すかのように…安心して蹴り飛ばした幸せの跡。
いくらでも酷い寝相で暴れていいんだよ。それが柔らかな君の心をどんどん修復していくのだから。
東條が大事に残しておいたたぬきうどんの薄っぺらなナルトをつまむと、僕はさっと自分の口に放り込んだ。
「何すんだよ!貴重な具だぞ!?魚のすり身なんだからタンパク質に違いない!俺の大事な栄養素を!!」
習い事の月謝がかさむと、小遣いを減らされたらしい。僕はざまあみろと笑うと、いつもの癖で取っておいた唐揚げを、東條の前にあった小皿にそっと載せた。
「…おまえも……父親か」
「ああ。朝起きたらいきなり…ね」
身に覚えがあるんだろう。彼も忘れていたのかも知れないね、このくすぐったい感覚を。東條は照れくさそうに僕を一瞥すると、鶏肉にかぶりついた。
僕は、背中の幸せな痛みを想い出しながら、もう一度大きなあくびをした。
<了>
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