深海魚
【短編】 <深海魚> 北川 圭
『無知の偽善者ほど、たちの悪い者はないのだ!』
棒読みにもほどがあるセリフに、僕は頬杖をついてため息だけをそっと吐き出した。
外からはやぐらを組む音、廊下からはにぎやかな笑い声と金属のぶつかる音、あれは段ボールを引きずる音だ、文化祭特有のね。
ほとんどのクラス連中が帰った教室で、僕と桜は行儀悪さもこの上ない格好で沢高祭の前日準備に……追われているはずだった。
「あーあ、おれもたこ焼き屋が良かったなあ。じゃなきゃお化け屋敷」
他のクラスの微笑ましい空気だけが、すべての壁を突き抜けて伝わってくる。誰だよ、演劇をやろうなんて言い出したのは。
「しょうがないじゃん!うちの担任様は悪名高き山センだし」
取り敢えずこれだけはとかぶっていた百均のカツラをむしり取ると、主役の桜でさえふくれ顔をした。
そのまま、チェックのスカートが広がるのを気にもせず、僕の隣に座り込む。
「だからって、何でシェイクスピア?」
ぼそりと呟いた僕に向かって、桜は小首をかしげる。形の良い眉はひそめられたまま。
「……この原作って、そいつだっけ?」
「えっ、違う?ああじゃあ、バーナード・ショウとかワイルド?まさか山センのオリジナルじゃねえよな」
英文学専攻がいたくご自慢の教師のことだから、てっきりシェイクスピアみたいな有名どころだとばかり思っていた。僕はどれ一つ読んだことなんてないんだけどさ。
ごく普通の規模ばかり大きな新興私立高校に、ウリのように作られた特進クラス。僕らは実験動物のようにかき集められ、明らかに学校全体から浮いていた。化粧道具も携帯も、隠し持つしかない窮屈な空間。そして、華やかで明るくて擬音だらけの他の子たちみたいにはしゃぐことさえはばかられた女の子たちと、添え物くらいの価値しかない僕ら。
他のクラスみたいに、いかにも文化祭のノリで出し物をしたかったのにね。
「このクラスの品位を落とすわけにはいかないだろうが!」
担任の一言で、聞いたこともないお堅い劇を発表する。それも教室で。おそらくほとんど観客などいないだろうに。
それでも、誰一人反対することもできず、かといって協力するわけでもなく、要領の悪い僕ら二人はいつの間にか実行委員にさせられ……どこの誰が書いたかも知らない台本を演じさせられている。
一応、衣装係はそれなりのドレスと古代風のコスプレ服を置いていってくれた。せめてもの善意。けれど皆、このイベントあけのテスト準備に追われている。本気で、成績が下がったらクラス替えもあり得るし、下手をすれば退学だ。新興高校が名を売る為にとる方法は二つ。スポーツに金を掛けるか、有名大学への進学率を上げるか。
僕らは、たった二人その狭間に落とされたみたいな気分で、深海魚のように静かな教室でじっとしていた。
成績が悪くて退学、それでもいいやなんて思いながら。
この学校全体で言えば特進クラスは異端だし、特進の中で勉強しないヤツはマイノリティだった。
どこへ行っても居場所なんかない。
無造作に散らかった机に寄りかかりながら、僕はずるずると床にのびた。劇に登場する配役は二人。他のヤツらがやるわけもないのだから、実行委員が責任を取れよな。無言のプレッシャーに耐えかねて、とにかく明日を乗り切ることだけを考えた。
桜はそれでも中学のときに演劇をかじったことがあるという。市民文化祭で手作りのミュージカルをやったのだと。期待した僕に彼女は「あ、でもセリフは一個だけだったけどね」と舌を出した。
この棒読みの、明らかにやる気のないセリフを聞けばわかるよ。はあ。
これを受けて僕は何か言うはずなのだ。台本は見てもいいことにしたから、何も頭に入れてない。ああ、もちろん実行委員の独断と特権発動だ。山センが見に来たら、情感を込めて黙って手でも握りあっていることにしよう。
そんな思惑を知ってか知らずか、桜は台本を僕の頭上に落とした。投げ渡すなんて甘いモンじゃなくて、本気で角が当たったぞ!?
「ってええなあ。何すんだよ杉山!」
「……次のセリフ」
言えっての?この僕に?ふざけんなよ。係を断り切れないほど気の弱いこの僕が、人前でセリフ?
真面目にやる気なんて、はなっからない。突っ立ってりゃいいんだろ?
けれどだるそうに目を向けた僕は、意外に真剣な桜の視線にびびった。頭を上げて取り敢えずその台本を手にする。
彼女がどこを読んでいたかも知らないのに。
探すページには、きちんとマーカーで縁取りがしてあった。自分のセリフにパステルの蛍光ペンでデコレーションをする桜。少しは……本気だったんだろうか。
僕はあわてて次のセリフを追った。何て言えばいいんだ?何て…。
『それでも、何もせずに傍観者でいるよりは、遙かにマシではありませぬか』
精いっぱい、声を出してみる。音読なんて小学校以来かも知れないのに。
『愚か者よ、無知であることを知らぬ罪ほど重いものなどない。いっぱしのことを語り、善意を押しつけ、相手が受け取らないとわかれば理解せぬ方が劣っていると思いたがる偽善者など、すべて滅びてしまえばよいのだ』
桜の声が艶を増す。小さく呟いているだけなのに良く通る。さっきの棒読みセリフは何だったんだろう。
『神よ、我々は無力です。知らぬことばかりで闇の中を手探りで歩くしかできませぬ。ならば、お互いが身を寄せ合い、少しでも暖を取るくらいしかないでしょう』
『知らぬことが恥なのではない。力を持たぬことでもない。知らなければ訊ねよ。知らぬことを認めよ。できぬのなら手を離すがよい。おのれの我欲を満たす為に他が存在しているのではないのだから』
「おのれの我欲?それってどういう意味さ」
セリフであることも忘れて、僕は桜へと訊いた。
偽善者だって指さして、他人を非難することはたやすいさ。でも何もしないよりずっといいだろ?それとも、僕らのしていることを皮肉ってるっての?
山センの印象を良くして内申を上げるとか?そんなに器用に立ち回れるなら、とっくに僕はここを逃げ出してるよ。
「…別に……、今岡のこと言われた訳じゃないでしょ?」
ふっと素に戻って桜が苦笑いする。でもそれは本当にニガそうで、哀しげだった。
「あたしだって、びんぼーくじ引いて実行委員してるわけだし。勉強時間を潰してまでお芝居ごっこやらされてるんだし」
お芝居ごっこ。あの声がごっことは思えない。桜は本当は。
言いかけた僕の言葉を、口尖らせて阻止しようとする。好きでやってるわけないでしょうが!!照れ隠しのように声を大きくする。
そうか、桜も語る言葉を今は持たない。誰に何を言っても伝わらないと知っているから。台本のセリフなら、自分は安全な場所にいて言うことができるんだろう。せめてそれなら、と。
僕も同じだ。
嫌いではない勉強も、強制され競争させられ続け、来年の沢高に志願者が増える為だけに名を売れと言われてりゃ、いい加減イヤにもなる。
これだけたくさんの生徒数がいるのに、他のクラスとはほとんど共通点が持てずにいる。僕らは四十数名の箱詰めされた実験動物のまま、ひたすら回し車で同じ場所を走り続けるんだ。
「おのれの我欲」という言葉は、僕らではなく周りの大人たちのエゴ。そう思えばいい。
だったらいくらでもぶつけてやる。誰に?見るはずのない観客と、特進クラスを物珍しそうに見学に来る大人どもに。
「無知の偽善者がいけないだなんて、何でさ」
僕は膝の間に顔を突っ込んで、妙に小器用に丸まっていた。顔を上げるだけの勇気も元気もない。くぐもった声はそれでも桜には通じた。
「ただの劇のセリフでしょ?何熱くなってんの、それも今さら。今岡がそういうキャラだとは思わなかった」
鼻白んだような彼女の言葉は、乾いてかさかさ。反対に僕の心が乱される。
「真面目に言ってんだよ?ちゃんと応えろよ」
…知らないよ。山センにでも訊けばいいのに。不機嫌そうな桜の不満がこぼれる。
黙った時間が通り過ぎる。けれどそれは、雄弁な沈黙。二人の内言語が、見えない空間に飛び回っている。
やがて桜は、ぼそぼそと話し出した。僕にではなく自分へと言い聞かせるかのように。
「特進クラスを作った大人連中は、あたしたちが客寄せパンダだって最初からわかってる。あたしたちもわかってる。その方がずっと楽。割り切れるもん。でも……山センは違う」
ずっと特進クラスの担任しかしないだろう山崎先生。どっかの進学校から引っ張ってきたらしい。
俺は苦学したんだ、と事あるごとに説教をする。
金がないから奨学金をかき集め、大学を出た。そのあとも肉体労働をしながらもう一度進学し直し、教員免許を取った。学びたかったのだ、と。のほほんと生きているおまえら生徒に、それも特権階級のように優遇されている特進クラスのおまえらにわかるか?そのちゃちなプライドをへし折らなければ、おまえらは人間的に成長なんかしない。親の金で小さい頃から塾へ通わせてもらい、こんな恵まれた学校へと進学できて、それで当たり前だと思っている。
ならなぜ、もっと学ぶことに貪欲にならないんだ!?もっと知りたい、もっとわかるようになりたい、もっともっと!おまえらに足らないのはそのハングリー精神だ!!
優秀な大学には優秀な人材が集まる。その知的な刺激ある会話に加われる喜びを、おまえらにも味わわせてやりたい、と。
耳にタコどころか海洋生物のほとんどが住み着くんじゃないかってくらい、何度も聞かされた。
「バッカみたい。何にも知らないくせにね」
桜の声色に、僕は物憂そうに少しだけ体勢を変えた。
「今岡にだから言うからね。誰にも内緒。まあ、あんたにチクる相手がいるとも思えないけど」
一言よけいな、かちんとする釘の差し方。彼女なりの配慮。
「うちのクラス…安西はリスカ常習犯だし、三井は制服の下がアザだらけ。だからあの子、体育出たことないでしょ。優香はお弁当も学食もお金ないから無理だっつって、コンビニで食べられそうなものくすねてる」
僕の目が、信じがたいものを聞いた気分で見開かれる。まさかそんな。
「特進以外のクラスの子たちは、目に見える問題行動を派手にやらかすから、大人にもみんなにも構ってもらえる。でもあたしたちは、誰にも言わないで一人でそうやって暮らしてる。山センなんかが想像もつかない世界が、家庭って言う名前の小宇宙で起こり続けるのにね。あいつらには教師には一生理解できない。だから平気で無神経なことを言う。おまえらは甘えてると。俺だけがこんなに苦労してきたのだと、壮絶な人生を生き抜いてきたのだと自慢する。恵まれたおまえらにはわからない苦しみを、一人で乗り越えてきたんだって大きな声で怒鳴ってる。そこにしか、すがるものがないから。みんなは……最初っからあきらめてるから白けて聞き流すしかない」
どうしてそんなことを桜が知ってるんだろう。
ああそうか、彼女は無知な偽善者の傲慢さを知っているから、そんな言葉を遣わないんだ。だからこそ、他人は桜には告白してしまうのかも知れない。
深刻な顔をしてたんだろうか。僕の表情をのぞき込むと、桜はもっと暗い瞳で微笑んだ。
「自分のことなんて、初めて誰かに言うんだからね。今岡を共犯者にしてやる」
僕のうつろな目と、寂しげな瞳が絡み合う。
……あたしね、ここの学費払う為に援交してるんだよ……
どうしてそんな行動を自分が取ったのか、理由なんてわからない。気づけば僕は彼女を床に押し倒し、さらさらの前髪をかき上げてた。顔がよく見えるように。僕の身体の重みが桜に掛かるように。……うんと近くで見つめ合えるように。
「何?援交するようなジョシコーセーなら、すぐヤらせてもらえるとでも思った?」
彼女の嘲笑う声。違う、そんなんじゃない。
「同情?愛のある行為なら満たされると。もっとぶっちゃけて言おうか。愛って名前をつけとけば、自分の欲望とジジイどもの援交とは違うって言い訳が立つと思ったわけだ」
それも違う!全然違う!!上手く伝えられない。
「言っとくけど、哀れみを掛けられるほど最悪なことはないからね。重いからどいてよ」
新興高校でかき集められた優等生は、わざわざ自ら実験体になることを選んだ。成績だけでここに来るヤツなんて少ないんだろう。ああそうだよな。少しだけでも想像力ってものがあればわかること。
ここに来るしかなかった。逃げるように、シェルターに鍵掛けて閉じこもれるように。
僕自身の抱えている闇は。止めておくよ。不幸自慢を語りたい訳じゃないから。
その代わり、真剣に桜の瞳を見つめ続けた。言うべき言葉を探しあぐねて。
「いいよ、あたしは一晩二万。学割利かないからね。ただ、客を選ぶのはあたし。どうせおんなじことするんだったら、金持ってるジジイの方が効率いいし」
「そんなんじゃないって」
僕の手が制服のリボンに掛かる。頸元にそっと手を置くと、桜が震えてるのが伝わる。
彼女のことをずっと気にしていたわけでも好きなわけでもない。ただ、今の僕がしたいと思うこと……。
「共犯にしてくれるっつっただろ。今だけでいいから、おれも杉山と同じディメンションに立ちたい」
「今岡ってカノジョいるの?いないんならただの欲求処理じゃん。かっこいいこと言ってごまかさないでくれる?」
「…そんなにおれが、怖い?」
ねえ、あの台本書いたの桜だろ?おまえの本意をごてごての装飾に紛れ込ませて、誰も見ない劇に託したんだろ?誰か一人くらいは、このメッセージを受け取ってくれるかも知れないと、本当に微かに微かな期待だけを込めて。
「ここじゃ服が汚れるから、ヤダ」
「汚さないようにしてやる」
「何、その変な自信?笑える。あたしにメリットなんて何もないじゃん」
「あるよ」
あるんだよ。にわか作りの特進クラスで、誰も引き受けない損な実行委員ですら断れない気の弱い優等生の二人が、僕らの為に特別に作られた教室で隠れてセックスする。
すぐ横の教室にも廊下にも、笑顔のはじける普通のクラスの女の子たちとけっこう乗り気の男たち。当たり前の日常と壁一枚隔てた空間で、誰にも気づかれないように二匹の深海魚は睦み合う。魚は本来、淡泊なのにね。
キスをした。
耳の後ろにも。跡がつくほど強く。
今どき珍しいセーラーカラーの制服のボタン一つ外すことなく、裾から手を滑り込ませた。
ちょっとだけ汗ばんだ肌が、少しずつ熱を帯びてくる。下着をよけるみたいに差し込んだ僕の長い指。桜が上げかけた声を、唇でふさぐ。
身体から力の抜ける彼女を、そっと抱きかかえる。すごく近くで話し込んでるみたいに。机と机の間で、制服で、明日用に飾ってある衣装で、申し訳程度に飾ってある看板の陰で…すべてのものに守られながら、学ランの上着一つ脱ぐことなく僕は桜の中に入ってく。
高まるにつれて激しくなる動きだけは止められない。耐えきれず本当に小さな叫びを上げたのは彼女の方が先。そのまま僕にしがみつく。身体ががくがくと揺れる。
荒くなる息を必死にこらえて、僕はかなり乱暴に身を引きはがした。近くのスポーツタオルで押さえて果てる。避妊にもならない。そんなこと知ってるさ。気休めでもいい。僕は彼女の…ただの共犯に過ぎないんだから。
「演技…じゃな…くて……イったの…初めてかも」
もう何も言わなくていいよ。
「これが…あたしの受け取ったメリット?」
だからもう黙って!
僕は怒鳴る代わりに、そっと呟く。
「もう、共犯でもないや。りっぱな共同正犯だね」
僕の言葉に、歪められた瞳を下に向けていた桜がちょっとだけこちらを見た。驚いたように。
「明日から、今から、何もなかったみたいに暮らせたら…おれらの勝ちだ」
そう、何も変わらない。たった一度の行為で世界が変わってしまうほど、この世の中は甘くない。
僕にはリスカも家庭内のもめ事も万引きも、援助交際をも止める力なんか当然ない。
ただ僕は…桜に教わった。自分は他人を救えない無力な存在であることだけは。はっきりと。
証拠を残すヘマはしない。すべてを自分のカバンに押し込んで、服を整えて、僕は立ち上がった。
「セリフ、覚えてくるよ。一夜漬けには自信あるんだ」
まだ立つことも無理な様子で、うつろいだ視線が僕をとらえる。桜の唇がほんの少し開いている。
彼女が現世に戻ってくる前に、僕はここを離れよう。
非情にもそう考えてドアに行きかけた僕は、もう一度桜を振り返って見た。そのままの姿で動かない彼女。
行為は身体を傷つける。言葉は…心を抉る。
僕はそっと息を吐き出すと、ドアに一番近い机に腰を下ろして数学の参考書を開いた。
時が過ぎて陽が落ちて、すべてが闇に包まれるまで。無防備な彼女が、あの勝ち気さを取り戻すまで。
黙ってここにいるのも悪くはないね。それは好きとか恋とか、ましてや愛なんて安っぽい言葉じゃないことだけは確かだけど。
同情であるはずもない。僕らは今、同じ場所に不安定に立っていることには変わりないのだから。
明日は文化祭。
観客さえいない、一日限りのカルナバル。
<了>
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved