ロートレックの祈り
【掌編小説】 <ロートレックの祈り> 北川 圭
「もう、若くないから」
明日美はそう言って、視線を壁のロートレックに彷徨わせた。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック…伯爵家に生まれながらも場末の酒場を愛し、美しい夜の女たちを描き続けた「グラン・タルティスト(偉大なる芸術家)」
脚を高く上げ、自信ありげに妖艶なまなざしを見る者へと向ける女性たちに、明日美は何を思うのだろうか。
「だから、何もかもあきらめるって?歳を理由に?」
僕の声はとがっていたのかも知れない。自分では気づかぬうちに。
僕らの目の前には気取った名前の、ただのカフェオレが置かれている。わずかずつその温もりを失いながら。
「あたしの実家には両親だけが住んでいるし、帰ってあげなくちゃ…ね」
夢よりも現実を選ぶの。声にならない声は、僕にはこう聞こえてしまう。
…目の前のあなたよりも親を選ぶの…と。
「この歳で芽の出ないピアニストなんて、需要がないことくらいわかるでしょう?」
乾ききった不自然な微笑み。それでも君は音に向き合うことを止めず、大学で同じ教授についたはずの僕は、毎日脚を棒のようにして得意先を回る仕事をし続けている。
「帰って、どうするのさ」
帰るなよ、の一言が言えない。僕が支えると言い切れないから。ここに残って隣に居続けて欲しいと引き留められない。自分自身の先さえ見えないほどなのに。
勝手に夢を押しつけて理想化しているのは、彼女に自己投影しているのは…自分か。
何をどうするか決めるのは明日美自身、それは誰よりもわかっているつもりだった。けれど、僕ができずにいた夢を叶えてくれるのは、一番夢に近いのは君だと信じていたんだ。
自己中にもほどがあるね。今度はこっちが苦く笑う。
明日美の視線の先を追う。茶けたポスターの中の美女は、人々を誘い、見下す。あたかも神のように。
「この絵が、好きなの?」
彼女が実家へと帰るというのなら帰るんだろう。結論が出てからしか君は何も言わないから。だったらせめて、レプリカのポストカードでも額に入れてあげようと思ったんだ。
この街で過ごした十数年あまりの日々を閉じこめるかのように。
「三十七年の短い生涯の中で、ロートレックは多くの美しい作品を生み出し続けた。こんな偉人と自分とを比べるほど傲慢ではないのよ。それでもね、あたしの指は何も伝えられない。音を出すのと音を鳴らすのは違う。ましてや豊かに響かせることは全く違う。お遊びに時間を費やせるほど若くはないと、もっと早く気づけばよかった」
掠れた声が…あきらめきれない…と悲鳴を上げているよ。君はステージの上で光を浴び、僕は客席の暗がりでそれを眺める。年に一度あるかないかの輝ける時間の為に、君はこの街にとどまり続けたんだろう?
「…僕のために」
続きの言葉が出てこない。明日美が不思議そうに僕を見つめ返したから。僕のためにピアノを弾いてくれだなんて、歯の浮いたセリフは似合わない。この日常の場所では。
「ピアノを教える仕事ならどこにでもあるなんて、楽観的すぎるかしら」
言葉と視線が食い違う。君の目は宙をたゆたう。心をロートレックに残しながら。
ケガが元で成長を止めてしまった脚を抱えたまま、踊り子の脚線美を描き続けた画家の想いはどんなものだったんだろうか。
憧れ…そんな簡単な言葉で済ませていいのか。目を背けたくはなかったのか。自分にないものへの嫉妬と焦燥は、どこにもなかったのか。
ただただ画家は、美しいものを美しいと感ずる心だけを持ち得ていたんだろうか。
それは一瞬の出来事だった。
目の前がぐらりと揺れたと思った瞬間、窓際に置かれたガラス瓶が倒れかかってきた。
とっさに自分の指を握りしめて隠したのは明日美、差し出した素手でもろに受け止めてしまったのは、僕。
砕け散った瓶の欠片は、日を浴びて朱にきらめく。なぜ赤いのだろう。透明なはずなのに。
鈍感な僕は自分の手に傷ができていたことにすら気づかなかった。粉々に散ったガラスが僕の血を撒きとばしたのか。
「慎司!!」
明日美が声を上げる。それよりも、再び立っていられないほどの揺れが僕らを襲う。
彼女をかばうように抱え込み、床に伏せる。手が、と泣き出しそうな彼女の言葉をふさぐようにもっときつく抱きかかえる。
何が起こったというのだろう。周りの客も同じように姿勢を低めている。
静まりかえった店内で、誰かが携帯を手に呟く。…地震だってさ…
従業員がタオルを持って僕のところへと飛んでくる。何度も謝罪の言葉を口にする彼に、大丈夫ですと応える。実際、手の甲を薄く裂いただけの傷は、痛みすら感じなかった。
もう一人のスタッフは、ここでは滅多につけないテレビのスイッチを入れる。アールヌーボーを気取りたい店は、臨時ニュースの慌ただしいアナウンスに包み込まれてしまった。
「……地方で震度……」
明日美の顔色が変わる。それは確かに聞き覚えのある場所だから。両親だけが住む彼女の実家があるはずの。
次々と伝えられるあり得ないほどの数値に、僕の方が逆に取り残された。何を言っているんだろう、この無表情なアナウンサーは。
「…電話、電話しなきゃ…」
震える手で携帯を握る彼女は、どこにもつながらないと不安そうに僕を見上げる。画面をのぞき、僕の方も同じ番号に掛けてみる。何カ所も、何度も。
携帯がダメなら固定電話を。立ち上がり、カウンターに勝手に入り込んで受話器を持ち上げる。ったく、発信音すら聞こえない。
「すぐに帰る!!離して!!」
もがく明日美に「落ち着けよ!」と怒鳴る。落ち着いてないのはどっちだ?多分に僕の方なのに。
まずは情報を集めなきゃ。何が起きたのか、どうなっているのか。いいや僕にとってはそんなことより。
「僕も一緒に行くから!」
きっぱりと言い切った僕に、明日美は目を見開く。首を横に振り、信じられないという顔で。
彼女が次の言葉を口にする前に。早く早く、彼女自身が気づいてない想いを早く!
「ガラス瓶が落ちた。君は指をかばった。ピアノを捨てられるはずがない!」
「そうよ!!自分勝手なのよ、あたしは!!親を捨てて自分だけ好きなことを続けて!ピアノならどこで弾いたって同じよ!!」
「どこででもじゃない!!君は…」
テレビのニュースはけたたましく続報を伝える。交通機関が次々と遮断されていっていると。電車も道路も空港さえも。
それでも行く、と言い張る明日美に僕は言い続ける。僕も一緒に行く。そして…。
「この街に帰ってこよう。ステージに戻って来い。どんなに時間が掛かってもいいから」
地下鉄も止まっているらしい。地上の入り口で誰かがわめき、そのうちに駅員らしき姿も見えてきた。
手っ取り早くタクシーを拾う。行けるところまで行ってくれと頼み込む。
それどころじゃない…ステージなんてもう無理よと呟く明日美に、大丈夫と僕は言い張る。
「何が起きてるかもわからないのに!?何でそんなに無神経なことが言えるの!?」
叫ぶ彼女に、僕はただ大丈夫だからとだけを繰り返す。
心配なら僕がついているから。ずっと守るから。君の指を守ったように、君の音を見守ってきたように。そう口にする代わりに、また血のにじみ始めた自分の手で彼女の細く綺麗な指をもう一度握る。
ロートレックが描き続けた踊り子らが立つ場所は、夜だけきらめく闇を抱えた舞台だったのだろう。
それでも、名もなき彼女らの姿は今も色褪せることなく、多くの人々の心を捉え続けている。
踊ることのできない彼がポスターの中で踊り子を輝かせたように、今は運指さえおぼつかない僕は君を見守ろう。守り続けよう。
明日美は僕の手を繋いだまま、固く目をつぶり祈り続ける。何もできないけれど、僕はそばに居続けよう。
君の震えが感じられるほど近くで。不安も怯えも共振できるほど近く…で。
大丈夫。僕がいるから。
カーラジオの音も運転手の声も遠のき、僕らは静かに祈り続ける。
何度も聴いた彼女のピアノの音色がゆっくりと満たされてゆく静寂の中で。
<了>
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