ハードケースの恋人
【掌編】 「ハードケースの恋人」
寝返りを打ったら何かにこつんと当たった。
それがハードケース入りのクラリネットであることに気づくまで、寝ぼけていた僕には少々時間が掛かった。
本革製のケースには、クランポンという会社のクラリネットがしまわれている。
パリの音楽院の近くに楽器屋があってね。嬉しそうに話す君を、かなり呆れて笑って見てたのは確かに僕。
初めての海外旅行の土産が、正真正銘の管楽器とはね。おかげでディナーは毎晩ファスト・フード。君らしいと言えばそうだけど。
「誰にあげるの?」
かなり意地悪く訊いたら「これは私へのプレゼントなの!」と逆ギレされた。
それは本当にいい音色で、音楽を知らない僕でさえも聴き惚れるほどの美しさだった。
君の腕がいいのだと認めるには、かなり癪だったからね。
海外転勤が決まった僕に、彼女はそのハードケースを押しつけた。
「どういうこと?」
「これを、私だと思って一緒に眠ってよね!」
だったら、こうもっと柔らかい抱き枕かなんかの方が。僕はその言葉でさらに逆上され、ケースの角で殴られた。
…しばらく帰れない…
無言で頷く彼女。行き先はパリなんかじゃない。昨今、仕事で行くといえば女性を簡単には連れてはいけないような治安の場所ばかり。
…待っててなんて、言えない…
ケースをさらに僕へと押しやる。受け取れないよ、大事なものだろ?僕の言葉に首を振る。
本当は僕の方がイヤだったんだ。形見分けじゃないんだから、二度と逢えない訳じゃないんだから。
それでも彼女は、僕の手にクラリネットのハードケースを残したまま、足早に去っていった。
空港には行かないから。あとで送られてきた素っ気ないメール。成田の国際線ターミナルみたいな華やかな場所でもないしね。
「ピンポーン」
僕が彼女の意図にようやく気づいたのは、税関を通るそのときだった。
どこへ行っても足止めされる。何度も何度も止められる。英語すら上手く通じない国で、僕はこのケースの中身が武器ではないことをどう説明したらいいのか、途方に暮れた。
乗り継ぎの便で、かの国の国内線で、酷い時は職務質問だ。
…それは銃だろう。組み立てて撃つものだ…
違う、これは楽器だといくら言っても聞いてはくれない。では演奏してみろと迫られたところで、僕に素養は全くない。
ケースに書かれた連絡先に電話して、でもそれはフランス語で、さらに自体はややこしくなって……。
何とか探し出した音楽に明るい通りすがりの係員が、笑いながら同僚に説明してくれるまで、僕はいつでも待たされた。
引き留められた。
もう何度目かの深いため息をつきながら、僕はやっと気づいたんだ。鈍感にも程がある。
……引き留めたかったのは、君の想い 行かないでと言えずにいた君の気持ち……
うんざりするほど手間を掛けて入国するまで、僕は彼女に「行くな」と腕を掴まれていたんだ。
やっと思い出した、彼女との会話。
「楽器を買ったのはいいんだけど、どこへ行っても止められて。どこかの空港では仕方ないから吹いたわよ」
そう言って笑いこけていたっけ。見知らぬ異国のロビーに流れる、君が奏でる音色。
どれほどの人が、心をいっとき癒されたことだろう。
忙しさにかまけてメールすら打ってなかった。
僕は急いで携帯を取り出すと、電波の届く場所まで走り出した。真夜中の街を。君に文字ではなく…声を届けたくて。
~ fin ~
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved