第41話 別に飛び降りようとはしてない、運動不足でふらついた貧弱だよ
三日月の微かな月明かりの下、バルコニーの手すりに身体を預けて、アディは息をついた。全身が重くて仕方がない。
――ちょっと、動くだけでこれだよ。もう、ニートじゃん。
部屋にはちょうど、交代の時間で誰もいない。ずっと大人しくしていたから、監視の目も最初ほど厳重ではなくなっていた。
夜風に当たろうと、アディはこっそり身体強化を使い、そっとベッドから抜け出したのだった。これくらいならバレないはず、と。
「俺は……」
――"私"は、どうしたいのだろう。
見上げた夜空は、前世と変わらない。それなのに、アディを取り巻く環境は、その全てが違う。
入学当初はモブだと思ってた。攻略キャラ達に目をかけられるつもりも、アディにはなかった。
真っ黒に広がる目の前の外の世界。アディウートルの枠から外れて、異国で自由に暮らすことも、きっと出来る。
今でも身体強化を使えば、アディにはとても簡単なことだった。
それでも、アディは夜空を見上げるだけだった。
「――アディ!」
ぼんやりと遠くを眺めていたアディの耳に、会いたくない声が届いた。
フィデスがこちらを見て、表情から色をなくしている。
アディはとっさに、部屋へ戻ろうとしてふらついた。バランスを崩して、手すりの外へとそのまま大きく身体が傾いた。ここは最上階の四階。
――あ、落ちる。
落下の衝撃を覚悟して、アディは目をぎゅっと閉じた。
その身体をフィデスの力強い手が乱暴に掴み、そのままバルコニーへと引き戻した。二人、床に座り込んでいる。
「――っか! 大人しく寝てろよ! それとも……俺が、俺がそんなに嫌なのかっ」
「……フィデス、様」
アディの服を掴んだフィデスの手は小刻みに震え、顔を俯かせたフィデスは絞り出すように言葉を紡いでいた。
「……出て、いこうとするなよ。
俺が悪かったから! 俺が嫌いならそう言ってくれ。
俺は、俺たちと一線を引く、お前の態度が気に食わなかった。
けど、けど。俺たちの前から……お前に、いなくなって、欲しくなかった。ただ、それだけだったんだよ……」
パタパタと、床に雫が落ちて床にまだら模様が描かれた。
アディの目の前で、嗚咽混じりにフィデスが俯いたまま、その思いを吐露していた。
「……」
「だからごめん、アディ。泣かせて、傷つけて、本当に、ごめん!」
フィデスの白くなった手、震える肩。そこにあるのは、ただ必死な少年だった。
けれど、アディの身体は強ばったまま、動くことが出来なかった。
わずかな光が照らす夜のバルコニーで、フィデスのすすり泣く音だけが静かに響く。
――なんで。
「――のですか」
「え?」
やがて、カラカラに乾いたアディの喉から、小さな音が漏れた。
フィデスが、それを拾って顔を上げる。
その泣き腫らした少年には、アディを拒絶する素振りは一切なかった。
「私が、怖くないのですか……?」
「っ!」
目を見張ったままフィデスを見て固まるアディに、フィデスはさらに顔を歪めて、いつものように抱きついた。
勢い余って、そのままバルコニーの床に二人して倒れる。
けれど、アディは痛みを感じなかった。フィデスが自分を下敷きにするように、体勢を変えたからだ。
「バカッ! 怖いわけあるか! いや、そりゃ……ちょっと背筋が寒かったけど。でも、それは俺がアディを怒らせたからだろ!」
素直に吐露して、それでいて慌てて訂正するフィデスに、嘘は感じられない。
「怒らせ、て……?」
「怒っただろ。嫌なことされたら、怒って当然なんだ。……ごめん、アディ」
アディにぎゅっと力強く抱きついて、フィデスはなお、謝罪を重ねた。それはとても優しい響きで。
「謝るのが、遅くなってごめん」
「……俺、フィデス様に」
「うん」
アディの目からも、ポタリと雫が落ちた。
フィデスが、鼻をすすって優しく相づちをうった。
「フィデス様に、謝らなきゃって」
「違う。俺が悪かったんだ」
「……フィデス様を、傷つけたんです」
くしゃりと顔を歪ませて、アディは泣いた。
「どこも怪我してない。本気のアディが強かっただけだ。アディは約束を、守ってくれただけだ」
「俺は、フィデス様を……」
――怖かった。
本当に、ただ怖かった。カリスが止めなければどうなっていたかを考えて、アディは日毎に怖さが増していくばかりだった。
アディの震える声に、フィデスは目を閉じて背に回した腕に力を込めた。
「アディ。悪かった。俺は無事だった。頑丈なのが取り柄だからな。
もっと早く、アディに謝りに行かなきゃ、いけなかったんだ」
泣きじゃくるアディに、フィデスはハンカチを取り出してそっと拭く。その手に、フィデスの涙が落ちた。
「……ごめんなさい。フィデス、様」
「俺もごめん。アディ」
月夜の下、緑の風が二人の火照った身体を撫でていく。二人の目は真っ赤だった。
「……なぁ、アディ。もし、許してくれるなら、敬語も敬称も辞めて、俺にもまっすぐに、接してくれない?」
泣きながら微笑むフィデスに、アディも泣きながら静かに頷いた。
そのまましばらく、二人は寝転がって夜空を眺めていた。
見上げた星空は、とても綺麗だった。
「アディくーん?」
「あー! フィデスー!?」
ルナとマーレがやって来て、二人揃って怒られるまで――。




