第34話 得たいの知れないものを見る目って、怖いよな
「アディ、気晴らしに、考査三日目の見学でも行くか?」
寮の部屋の外から、いつもと同じ大人の余裕のある、セレーヌスの落ち着いた声がする。
けれど、アディは返事を返さなかった。
真っ暗な部屋の中でベッドにうずくまり、ただぼんやりとしていた。
カーテンの隙間から、光が僅かに射し込んでいる。
――ああ、もう朝になったのか。
「……」
部屋から遠ざかる足音に、アディはそっと肩の力を抜き、息を吐き出した。
――ごめん。お兄ちゃん。
昔から兄は絶対に、部屋に無理矢理入ってこない人だった。
『噛みすぎなんですよ。出血多量で死ぬとこでしたよ!? 加減って知ってますか、アディ君!
こんなの……治癒魔法使い冥利に尽きるとでも、思いますか!?
そんなこと、あるわけないでしょーっ!』
アディの治療は、すっかり学園に馴染んだマーレが担当していた。
目覚めてすぐのお説教は耳に痛いし、頭にも痛かった。
『……フィデスは?』
アディが気になって問えば、セレーヌスが大丈夫だと答えた。
『アディ、まだ痛い?』
『いや、大丈夫だよ』
闘技場併設の救護室。夜も遅いというのに、アディの周りに皆が居た。そのベッド横には、当然のようにルナが居た。
『……アディ泣かせた。フィデスぶっ飛ばして来ようか?』
『……なんで、そうなるんだよ』
冗談には聞こえない、地を這うような声のルナの本気具合に、アディは力なく笑って返した。
ぽんぽんと、その頭をアディが撫でる。ルナはそれだけで毒気が抜けたように、ふにゃっと笑った。
――可愛いな、こら。
ルナが睡魔と戦ってうつらうつらしだしたところで、送るついでにと、邸ではなく寮の部屋へとアディとセレーヌスも帰ることになったのだった。
『夜中でも具合が悪くなったら、呼ぶんですよ!』
マーレは実技考査中、職員用の仮眠室を借りて臨時の治癒魔法使いとしてバイトをすることになったそうで、そちらへと向かった。アディに体調のことを、念押しして――。
そして今、アディは引きこもり中だった。
「……はぁ」
胸の奥が重たくて、息をするのがしんどい。
アディの怪我は全部、マーレが治してくれた。今はもう、どこにも傷はない。
失った血の怠さと疲労、魔法の過剰使用の無茶の負荷で、アディは支えがないと、歩くのが覚束ない状態なだけだ。
けれど、息苦しい理由はそれとは別だった。
寮の部屋へと向かう最中、すれ違った寮生たちの、アディを見る目が頭から離れない。
――今世は皆、優しかった。だからこれは。
アディを苛んでいるのは、おぼろ気な前世の記憶。
虐めや嫌がらせ、さまざまなハラスメント……。詳細は覚えてないはずなのに。
嫌な気持ちというのは、気持ち悪く残るものなんだなと、アディは自嘲した。
「貴族社会と前世の現代社会、どっちがストレス、マシなんだろ……」
たぶん、どっちもどっちだ。比べても仕方ないし、それぞれの苦労がある。
それに今、アディが布団にくるまっているのは、そこだけじゃない。
――いい歳して、キレて。なにやってるんだろう。俺。
「……フィデス」
抱え込んだ腕を、アディはすがるように握りしめる。ガリっと立てた爪が、肌に食い込んでシャツを赤く染めた。
きっと傷つけた。あんなものを、アディは向けるつもりはなかった。
『アディ……?』
そして、おそらくフィデスも。戸惑った彼の声が、耳にこびりついている。
――大人の俺が、譲歩するところなのに。
濃霧を解除した時の、フィデスのあの目は、他の寮生と同じもので。その姿はボロボロで、俺が全部そうさせた。
――理性が飛ぶと、加減が出来ないのか、俺は。
フィデスの持っていた剣は、公平性を保つための考査試験用の実剣。耐久性に秀でていた剣だったはずで。
なのに、アディの目で見える範囲で、その剣は見当たらなかった。
アディの放った《サイクロン》が、剣を粉砕したのだろう。
あれは、学生のうちに習うことのない上級魔法の一つ。
アディが使えるのは、乙女ゲームの知識所以だった。
フィデスは魔法が苦手で、根っからの剣士気質だと知っていたアディが、彼に向けて放つのはあまりにも……。
それでは、ただの――。
「ははっ」
アディの乾いた笑いは、ただ虚しく部屋に響くだけだった。
布団にくるまって、身体は暖かいはずなのに、手足がひどく冷えて、寒い。
白紙の答案も、フィデスの問いも。自分の答えも、全てがただ虚しい。
「……なんで、リセットボタンが無いんだよっ」
それは幾度となく、アディが幼い頃に口にした言葉。
皆が前世を持って、そう過ごしてると思ってるうちは良かった。
けれど、自分と他人の違いに気づいてから、それは少しずつ大きくなった。この世界で自分だけが、異物なのだ。
乙女ゲームだと気づいてから、口癖のように口にした単語を、アディは呟いた。
「……帰りたい」




