第三章 わたしの歩き方
朝、鏡の前に立つ。
ぼんやりとした顔。どこかで見たようで、どこかまだ慣れない顔。
「これが、今のわたしなんだ」
声に出してみた。
それは、思っていたよりも落ち着いていて、思っていたよりも穏やかだった。
あの声たちは、もう聞こえない。
でも、聞こえないからといって、いなかったことにはならない。
むしろ、あのとき聞こえたからこそ、今のわたしがここに立っている。
わたしは、変わったのだろうか。
それとも、ようやく「戻ってきた」のだろうか。
どちらでもいい。
ただひとつだけ、確かに言えるのは、
あの罪の意識に、わたしが形を与えていたということ。
だから、もう一度だけ、自分に問いかける。
「それでも、生きていっていいですか?」
風が、カーテンを揺らす。
返事のようだった。
職場までの道を、今日は少し遠回りした。
途中にある公園のベンチ。誰かが描いたミャクミャクの落書きが、木の陰にまだ残っていた。
前なら、見過ごしていたかもしれない。
でも今日は、足を止めて、ちょっとだけ笑ってみる。
「芸術だよね」
そう呟いたとき、誰の声にも重ならなかったけど、
それでもどこかで、誰かが頷いてくれた気がした。
⸻
これから先も、きっと迷うことはある。
また過去の自分を責める日もあるかもしれない。
でもそのたびに、あの声たちを思い出すだろう。
あれは救いだった。けれど、それだけじゃない。
“わたしが、わたしの声に耳を傾けた”証でもあった。
これから生きていくわたしは、誰かの言葉を待つだけじゃない。
自分で、赦しを選ぶ。
自分で、自分を愛する。
それは、ゆっくりでもいい。
風のように、かたちがなくてもいい。
でも、ちゃんと、前に進んでいける。
⸻
帰り道、雲のすきまから一瞬だけ陽が差した。
その光に包まれながら、わたしは小さく、でもはっきりと、心の中で言った。
「ありがとう。もう、大丈夫」
わたしの声が、わたしを抱きしめた。
未来は、まだ白紙。でも、そこに足跡を刻むのは――わたしだ。