第9話
人はここまで怒れるのかと、思った。
虹音が自分を呼ぶ声が聞こえる。助けてと叫んでいる。
その声は嗚咽を含み、あまりにも哀れだ。必死だ。
大事な人を、唯一の人を危険にさらしてしまった自分にも腹が立つ。
忠告まで受けたのに、これでは霊獣国の王など名乗れない。
朝、慌てていたので挨拶も二の次で部屋を出てしまったことが悔やまれる。
これで最後にするつもりなどないのに!
怒りが頂点に達すると、すべての霊力制御装置が破壊された。
破壊衝動が体中を駆け巡る。この世界などどうなってもいい。滅びてしまえ。それだけの力が私にはあるのだから。
なんという快楽だろう。これを制御するなどあり得ない。全てが氷漬けとなる世界は美しいだろう。
そこに立つのはひとりでいい。私だけでいい。
本当に?
頭の奥の奥底から声が聞こえた。
ひとりで良いの?
誰かに気を遣う意味が分からない。
誰もいない世界が本当にあなたの望み?
それ以外になにがあるのか。
あなたの愛おしい人がそこにいるのに?
愛おしい人はいない。もうきっと――――。
(――――――殺してしまった!!)
「伽羅ちゃん!」
氷漬けの世界に声が響いた。
それはまるで暗闇の世界を切り開くような、清涼とした声。
「伽羅ちゃん!寒い!僕、凍っちゃう!」
こんな状態で、なんと呑気なのだろう。恐ろしくはないのだろうか。私の霊力が世界を覆っているのに。
「伽羅ちゃん、お尻が冷たいよ!びちゃびちゃになっちゃう!いやだ!おもらししたみたいになるの、やだ!」
ああ、本当に――なんとかわいらしいことか――。
空を見上げ、思いっきり息を吐く。
伽羅を中心にぶわっと風が舞い上がり、厚い雲は姿を消す。凍り付いた城は元に戻り、積もった雪はたちまち消える。
「………………あ」
霧雨は目を覚ます。呼応するように夏樹も目が覚めた。城の者たちもあちらこちらで起き上がっていく。
そして彼らはその奇跡の姿を目の当たりにした。
伽羅が虹音を抱き寄せ、額に口づけを落とすさまを。
◇◇
「私がいない間に、そのようなことが――」
面白い物を見損なったと舌打ちする日向だが、こんな軽口が叩けるのも何事もなく終わったからだと、自覚している。
「で?あなたは何をしているのですか?執務室にもいかず、寝室で布団にくるまるなど、およそ霊獣国王の姿とは思えませんが?」
「う――――うるさい!私は今、そう、び――病気なんだ!」
伽羅の声が布団の中から響く。病気にしては元気そうな声に、日向はククっと笑みを漏らす。
「虹音様が、あなたの番様が心配しておられましたよ?あからさまに仮病なのに、あそこまで心配して頂けるとは、ありがたく思った方がよろしいかと?」
「………………」
「しかし、虹音様が未成年だったとは驚きです。どうせ死ぬのだからいいだろうと思っていたとは、しかもそれが自暴自棄から出た言葉ではなく、前向きだったとは。部族の違いは怖いですね。霊獣族ではあり得ない思考です」
「……そうだな」
「ですが、今は死ぬなど考えていないそうですよ。あなたとずっと生きていたい。あなたの横に死ぬまでいたいと仰っています。あなたに会いたいと毎日泣いていますよ?なのに肝心の相手が仮病で寝室に籠城するなんて、そんな意気地なしに育てた覚えはありませんよ?」
「お前から育てられた覚えはないぞ!」
ガバッとベッドから飛び起きた伽羅に、日向は満足そうに笑顔を浮かべる。
「いったい何を考えて籠城しているのですか?念願の番ですよ?たまりにたまった欲求不満を解消するチャンスです。そもそもお相手は成人したと言っても14年しか生きていないのです。比べてあなたは何歳ですか?170歳ですよね?無駄に長い時間を生きているのです。手管のひとつや、ふたつや、みっつ、知っているでしょう?さぁ、めくりめく官能の世界に、虹音様を誘ってさしあげましょう」
「は――恥ずかしいことを言うな!これだから妻帯者は質が悪い!」
「自信がないのなら、教えて差し上げましょうか?」
「真顔で言うな!そ――そのくらい知っている」
かぁっと赤くなる伽羅は実にかわいらしい。こんな一面もあったのかと日向は感心する。
「その――お前も知っての通り、私は発情期で――霊力制御装置も壊してしまったから――――抑えが効かなそうで――」
「つまり、虹音様をめちゃくちゃにしそうで怖いと?」
「め――!!くっ、そうだ。虹音は成人したてだ。あの時期はまだ不安定で、発熱を繰り返すことも多い」
「そうですね。伽羅様の体力で責めてしまったら、虹音様は壊れてしまうかもしれませんね」
「――――くっ。確かに、そうなりそうで――怖いし――それに」
「それに?」
「………………」
「なんですか?」
「は――――初めては……やはり新婚初夜で………………」
もう熟れたリンゴのようになった伽羅は、恥ずかしさで目が潤んでいる。
しかしそれを意に介さず日向は更に暴言を続ける。
「意外に乙女だったのですね。野獣ではなかったのは、虹音様にとって幸いです」
「う゛う゛ぅ、お前は――どうして!そんなに私を敬わないんだ!!」
「必死に絞り出した言葉がそれとは――まぁ、良いでしょう。私も伽羅様の泣き顔はともかく、虹音様の泣き顔を見るのは辛い。霊力制御装置はすぐに作れませんが、丸薬なら用意できました」
日向は伽羅にひと口大の青黒い薬を差し出した。
「こ――これは――」
「発情期を抑える薬です。ご存じでしょう?」
「だが、これは――」
「ええ、世に比類なき不味さに、その気が無くなるといういわくつきの薬です。効果は絶大。味は地獄。後口の悪さに三日間は悶えると言います。ですが飲めますよね?」
愛しい虹音様の為に……と続けられたら伽羅も後には引けない。
眉根を寄せながら、丸薬を一気にほおばった。
◇◇
「伽羅ちゃんのお熱はまだ下がらないの?」
虹音にきゅるりんとした視線を向けられ、霧雨はクラりとしそうになる自分を制御する。
成人した虹音は匂い立つような可愛らしさで、見るもの全てを魅了する。
虹音の母もそうであると教えてくれたのは、夏樹。なんと虹音の母は夏樹の父の後妻だと言う。つまりふたりは異父兄弟になる。
虹音の母、白雪は齧歯族でも屈指の美貌で、全てのものを魅了していた。虹音の父は必死に懇願し結婚したが、それは一時の契約。子供ができたら旅に出ることを条件に結ばれた間柄だ。
故に虹音がある程度成長した時点で、白雪は旅に出た。その先で夏樹の父と恋に落ちたのだ。
『白雪母上の魅了の力は凄まじく、見るもの全てを虜にした。だが父と結ばれてからは落ち着いた。愛する人と結ばれることでおさまるようだ』と夏樹が教えてくれなければ、その力にやられるところだったと、霧雨は自制心を更に強固にする。
どうやらこの力は齧歯族の中でも特別で、虹音と白雪にしか発生しないようだ。
弱い齧歯族の進化の発露では?と学者たちは興味津々だ。
だがそんなことは霧雨にとってはどうでもいい。一度は自身の失策で大事な王の番を失うところだった。にも拘らず再びこの大役を任せて頂いた恩に報いるためにも、この魅了の力にあらがわねばと、爪を手の甲に当て、歯を食いしばる。
「伽羅ちゃんに会いたいなぁ、またおでこにチューして欲しい」
成人したのに、どうしてそんなに純真なのか!?と叫びだしたくなる気持ちを我慢していると、扉をノックする音が聞こえた。