第8話
呟くような声が聞こえた。
「………………伽羅ちゃん、ここにきて」
その言葉に頭に血が上った。
あの孤高の王を呼びつける卑しい鼠。
最下層の齧歯族が伽羅王を呼んでいる。
しかも敬称をつけずに!
一気に扉を開け、部屋へと歩を進める。声のする方に視線を移すと………………。
「…………は?」
ふわふわとした白い髪、潤んだ赤い瞳は柘榴の様だ。リンゴの様な頬に、サクランボの様な唇。
思わずごくりと息を呑む。これほど可愛らしい生き物がこの世にいるのかと!
(いや、考え直せ!これは敵だ!)
ふと湧いた邪な考えを、首を振ることで、なくそうとしていると、朝の目覚めを告げる小鳥の様なかわいい声が聞こえた。
「だあれ?」
ずわっと体中の血がたぎった。
これは獲物。極上の獲物。自分のものに、一刻も早くしなければ!
原初の声が聞こえる。それは獣の本能だ。
ずかずかと近づき、乱暴に手を取ると、痛みに耐えかね、かわいい声が漏れた。
舌なめずりをする神羅の頭の中には、ありとあらゆる乱暴な行為が浮かぶ。
そのまま抱き上げ、駆け足で塔の下へと進む。
(誰にも渡さない)その感情は極上のワインの様だ。飲んでも呑んでも酔うことを知らない。
そのまま塔を抜け、東の建物へと走り去った。
◇◇
「虹音はどこだ!?」
「申し訳ございません!」
霧雨は伽羅に向かって土下座をする。
霧雨が医師を連れて戻ってきたときには、兵士が寝ていた。慌てて塔へと上がったが、そこに虹音の姿はなかった。
事情を知るであろう兵士を回復させるため、医師に任せたところで、伽羅がやって来た。
「謝罪は後だ!まずは虹音を探せ!」
「…………霊長族の王子が…………」
兵士がなんとか意識を取り戻し、必死に声を上げる。それを聞いた伽羅を連れて来た兵士が、北の建物へと向かう。
「あのクソ野郎め!」伽羅も北に向かおうとするが、その足を霧雨が止めた。
「伽羅様、霊長族はずるがしこい部族です。果たして自室に戻る愚行を犯すでしょうか」
「愚行?今の行いこそが愚行だろう!?」
「そうですが…………」
これ以上、霧雨は言葉が出ない。
時は一刻を迫っている。
西の塔には虹音を守るための防護陣が引かれている。これは西の塔以外にはないものだ。
虹音は守りの指輪を全ての指に付けているが、霊獣族の霊力に当てられたが最後、儚くなく消え去るだろう。
「今の私の霊力は限りなく0に近い。私が助け出さずに誰が助けると言うのだ?」
「日向様は?」
「先ほど下界へと下った。迎えを送ったが、空を駆ける日向は早いから、追いつく可能性は薄いだろう」
日向なら虹音を守る結界を張れる。だが今はいない。その絶望がふたりの胸に押し寄せる。
「虹音を死なせない。一刻も早く!」
伽羅の焦る気持ちが霊力の高ぶりを生む。これでは自分が虹音を殺してしまうと気づいた伽羅は、深く深呼吸をする。
「虹音の気配を――――くっ、霊力封じていたせいで分からない」
「虹音様の霊力は弱く、我らでは感じることができません」
霧雨の言葉を苦々しく感じていると、北の建物からすさまじい勢いで誰かが走ってくるのが見えた。偶蹄国王子夏樹だ。
「私の兄弟が攫われたと聞き、参上しました」
「―――兄弟!?」
「そのことはあとで。私が虹音の匂いをたどります。虹音の匂いがするものを!」
「偶蹄族――彼らの祖先、猪は嗅覚が優れています!犬族より!」
はっと気が付いた霧雨は、塔に昇り、虹音の寝ていたシーツを夏樹に渡す。
「ムム、これは、そうか、虹音殿は今日が誕生日だったな」
「――――!」
聞き捨てならない台詞に伽羅が目を見開くと、夏樹は猪突猛進とばかりに走りだす。
「ま――待て!」
走り出した二人を霧雨は追いかける。
◇◇
東の建物の一室に忍び込むと、そこは兵士が使う寄宿部屋だった。
兵士が使用するベッドは霊獣族から見ると粗末だが、霊長族から見ると豪華なものだった。
「兵士ですら、これとは!」
やはり霊獣族は全てが違う、歯噛みしながらも、虹音をベッドへと横たわらせる。
「さっきより落ち着いたのか?」
全体的に青白かった顔に赤みが戻ってきている。逆に異常なほど赤かった頬は、ピンク色に変わっている。
額の汗で髪は濡れているが、呼吸は落ち着いてきた。
「この症状……どこかで…………」
昔の記憶をたどる。確かに自分にも同じ症状があった。
「あ――――!」
成長期に起こる変化だと気が付いて声をあげる。
「そんな馬鹿な。成人男性が見合いの必須項目だ」とは言えど、この症状は他には考えられない。
「いや、そんなことを言っている場合じゃない」
もう後戻りできない。いっそ殺すしかない。少しでも早く。
短慮な自分の行動を責めないように思考に蓋をし、殺すことだけ考える。
この後の起こりうる出来事を考えられる能力があれば、こんな穴だらけな計画など立てない。
「早く……どうやって」
そして軽挙であるが故に、人を殺す勇気もない。
大きすぎる野望と、野心。更に自己評価が高すぎるがゆえに、愚かだ。
感情で動くなと、自身の父に何度もたしなめられたことを、今、思い出すところも、救いがたい。
「剣を…………、確かナイフが」
胸元にある守り刀を思い出した。何かあった時の為に、母から用意されたもの。
鞘から抜くと、鈍い銀色の刃に、情けない顔をした自分が映った。
(違う!私は選ばれた部族だ!)
腕を大きく掲げ、一気に刺そうとしたとき、虹音の目が開く。
「きゃ――――!伽羅ちゃん、助けて!」
叫んだと同時に、ベッドから転がり落ちるように逃げた。
尻から落ちたせいで、痛い。腰が抜けたようだ。身体の自由が利かない。でも殺されないように、必死に距離を取る。
いつでも死んでも良いと思っていたのに、やはり今はそう思えない。
大きな声で伽羅を呼ぶ。きっと助けてくれる!それだけを信じて。
「うるさい!死ね!!!」
神羅がナイフを振りかぶった時、爆音と共に壁に穴が開いた。光の先に、青色の髪が見える。
「伽羅ちゃん!」
虹音が声を限りに叫ぶと、それに応えるように青い霊力が迸る。
「いけません!伽羅様!」
霧雨が静止の声を発するが、怒れる伽羅には聞こえない。
伽羅の強い霊力が、身に着けた霊力制御装置を破壊する。装置なしの霊力は膨大だ。その力は同族すらひるませる。
霊長族では太刀打ちできない。
「ひっ、ひぃぃぃ~」情けない声を出し、神羅はその場にしゃがみ込む。
手に持った刀は恐怖のあまり床に落とした。もう虹音を殺す意思はない。なのに身体がパキパキと凍り付く。
身体だけではない、床が、建物全体が凍り付いていく。
「伽羅様!!」霧雨は、なけなしの力を振り絞って叫ぶ。
伽羅の霊力に霊獣国が翻弄される。青い空が一転、黒く厚い雪雲に覆われる。更に雪の結晶が舞い落ちる。城が、都市がピシピシと凍り付いていく。
「伽羅様!このままでは、虹音様が!」霧雨は必死に声を上げる。身体は半分凍り付いた。
夏樹はとっくに倒れている。偶蹄族でも太刀打ちできない霊力だ。これでは虹音が死んでしまう。
助けに来たはずの伽羅が、虹音を殺してしまうなんて!
霧雨の意識が遠くなっていく。もう前が見えない。このまま、終わってしまうのだろうか……。
弱い存在を助けられないまま。
自分の使命をまっとうできないまま。
重い瞼にあらがうのを諦めた時、幻覚を見た。
世界が破壊される瞬間に立ち会う恐怖を和らげるために見られると言う、心休まる風景。
あり得ない光景。
それはきっと自分の願望。