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三十一

三十一


「またこの橿(かしわ)(ばら)というんですか、この土地は山の(すそ)が勢いよく突き出して、土地神の大きな怪物(ばけもの)が海の方へ向って、天から地まで開いた口の奥歯で、(なわ)(しろ)や麦畠などをくわえこんだように見えます。()()の方は、一見したところなんの影もなく、春の日が(くま)なく差して、ちょっとした曇りがあると思うとそれは(かすみ)だったという、のどかな景色でいながら、なんだかいやな気持ちがする場所ですね」

 美女は身を震わせて、なぜか嬉しそうに、

「ああ、あなたも『いやな気持ち』だとおっしゃいましたよ。じゃあ、もう私も、そのお話をしましても差し支えありませんのね」

「よろしゅうございます。ははははは」

 それを聞いた美女は、ちょっと居住まいを正し、背後からの視線を気にするようなそぶりを見せたのだが――彼女が暮らす二階建ての家の前からは曲がった路が延びて、葉の間にも、そしてちっぽけな(わら)()の屋根にまでも、紅い椿(つばき)の花がいちめんに咲いているなかに隠れて、菜の花畑のあたりでわずかに現れ、(なわ)(しろ)のあたりでまた見えなくなり、遠く(やま)(すそ)の緑に()って、濁った灰汁(あく)のような色を見せながら、ゆったりと彼方(かなた)まで続き、左右から突き出た山の前で止まっている。橿(かしわ)(ばら)の奥深く、蒸し上がるように低く(かすみ)が立つあたりの、山の裏側は停車場(ステーション)で、その山腹には異様に響く笛太鼓の()が籠もっている――そのあたりにまで、(はるか)かに視線を通わせながら、しばらくは(ぼう)(ぜん)とした様子だった。

「そうですねえ、はじめは、まあ、だいたいあの辺からだろうと思うんですわ、声が聞えて来ましたのは」

「なんの声です?」

「はあ、私が寝込んでしまって、枕に髪をこすりつけて、(もだ)えて、あせって、()れて、なんとも口惜(くや)しくって、情なくって、身がしびれるような、骨が溶けるような、そんな気持ちでいたときでした。先刻(さっき)の、あの雨の音――さあっと(のき)に降りかかってあっけなく通り過ぎたあのにわか雨が、ちょうどあそこのあたりから降り出して来たように、寝ていて思われたのでございます。

 あの停車場(ステーション)(はや)()の音に、いつの間にか気を取られていて、それだからでしょう。今でも停車場(ステーション)の人ごみの上にだけは、細かい雨が降り続いているように思われますもの。まだどこにか(あま)()が残っておりますなら、向うにかかった(かすみ)のなかでしょうと思いますよ。

 すると、その細い、かすかな、空を渡っていくかのような雨音のなかに、図太い、底力のある、そして、さびの入った塩辛声を、腹の底から押し出しながら、

『ええ、ええ、ええ、うかがいます。お話はおなじみの東京()(わたり)(ぐさ)(あきん)()仮声(こわいろ)ものまね。まず神田あたりのことでござりまして、ええ、(たい)()の店先にござります。()のしらしら明けに、小僧さんが(かど)(ぐち)()いておりますると、納豆、納豆――』

 と、そこまで言うと、情けない調子になって、

『ええ、お()()を頂きまして声が続きません、助けてやっておくんなさい』

 といやな声が、流れ星が尾を引くように、()(いん)を残して響くんですの。

 私はなんだかぞっとして、寝床で足を縮めました。しばらくして、またその『ええ、ええ』という変な声が聞えるんです。今度はちょっと近くなって。

 それからだんだんと、あちらの橿(かしわ)(ばら)にある家の、向いから向かいに、飛び飛びに、千鳥足で歩くみたいに一軒一軒、どこでも同じことを同じところまで言って、お金をねだっているんですけどね、暖かい、ねばついたような雨も、その(かど)(づけ)の歩みといっしょに、向うへ寄ったり、こっちへ寄ったりしながら、ゆるゆる歩いて来るようです。

 その納豆納豆――と言うところだとか、それも東京のことだという、店先だの、小僧が門口を掃いているところだのと申しますのが、なんだか懐かしい、両親のことや、生れました場所のことなど、昔が思い出されまして、身体を煮られるような気持ちになって、我慢ができなくなって、掻巻(ふとん)(えり)に喰いついて、しっかり胸に抱きしめて、そしてぼうっとしておりますと、やがて、ちょっと(あま)(あし)が強くなったころになって、うちの(かど)まで来たのでございます。

『ええ、ええ、ええ』

 と言い出すじゃございませんか。

『お話はおなじみの東京()(わたり)(ぐさ)(あきん)()仮声(こわいろ)ものまね。まず神田あたりのことでござりまして、ええ、(たい)()の店先にござります。()のしらしら明けに、小僧さんが(かど)(ぐち)()いておりますると、納豆、納豆――』

 とだけ申して、

『ええ、お()()を頂きまして声が続きません、助けてやっておくんなさい』

 と寸分違わず同じことを、同じ調子で言うんですもの。遠くからうちの(かど)まで来るまでに、ちょうど十三回も聞いたのでございます」


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