表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/13

三十

三十


「春の日の()(なか)(いだ)く、この気持ちがどんなものかを申しますのは、見た夢のことをお話しするようで、どうもことばにはしにくいものですの。どうでしょう、このしんとして寂しい様子は。ちょうど、夢のなかでにぎやかな場所にいるようではないでしょうか。二歳(ふたつ)三歳(みっつ)ぐらいのときに、乳母の背中に負われて見ました、お祭りの町のようにも思われます。

 なぜか、秋の暮れよりこの、春の季節のほうが心細いんですもの。それでいて汗が出ます、汗じゃなくってこう、あの、暖かさで、心を絞り出されるような感じですわ。苦しくもなく、切なくもなく、血を絞られるようですわ。柔らかな木の葉の先端(さき)で、骨を抜かれるようではございませんか。こんなときには、肌がとろけるのだって言いますが、私はなんだか、水になって、溶けながら消えていきそうで涙が出ます、涙だって、悲しいんじゃありません、そうかといって嬉しいわけでもありません。

 あの、あなた、叱られて出る涙と慰められて出る涙とがありますよね。こんな春の日に出ますのは、慰められて泣くほうなんです。やっぱり悲しいんでしょうかねえ。同じ寂しさでも、秋の暮が寂しいのは自然が寂しいからで、春の日が寂しいのは、人が寂しいからではないでしょうか。

 ああやって、(たん)()にちらほら見えます人も、秋だったら、しっかりとして、それぞれが景色の寂しさに負けないように、気を張っているんでしょう。しょんぼりとした脚にも、見たところ気合いが込められているようですけれど、今の季節だと、すっかり魂を抜き取られて、ふわふわ浮き上って、そのまま鳥か蝶々にでもなりそうですね。心細いようですね。

 暖い、優しい、柔かな、すなおな風にさそわれて、魂が――たんぽぽの花が、ふっと、綿(わた)になって消えるようになりそうなんですもの。天国というものがしっかりと目に見えて、そのまま死んで行くのは、ちょうどそんな気持ちなんでしょう。

 楽しいことだと知っていはいても、みじめで、不安で、心もとないと感じるのなら、それは悲しいことなんじゃありませんか。

 そんなことで涙が出ますのは、悲しくって泣くんでしょうか、それとも甘えて泣くんでしょうかねえ。

 私は身も心もずたずたにされるようで、胸をかきむしられるようで、そしてそれが痛くも(かゆ)くもなく、()(なた)に桃の花が、はらはらとこぼれるようで、のどかで、うららかで、美しくって、それでいて寂しくって、雲のない空が心もとないようで、緑の野が砂原のようで、前生のことのようで、目の前のことのようで、心の内が言いたくって、言えなくって、じれったくって、口惜(くや)しくって、いらいらして、じりじりして、それなのにぼうっとして、放心して地の底へ引き込まれるといいますより、空へ抱き上げられるといったふうで、なんとも言えない気持ちがして、そんなだから寝込んでしまったんですよ、あなた」

 まるで小雨がやんで日が照りはじめたように、美女はたちまちうららかな顔つきになって、

「こう申してもやっぱりお気に(さわ)りますか。あなたのお姿を見て、気持ちが悪くなったと言いましたのを、まだ許しちゃ下さいませんか、おや、あなたどうなさいましたの」

 ()(じろ)ぎもせずに耳を澄まして聞いていた散歩者の、ぼんやりとした目の前では、(べに)白粉(おしろい)の激しい流れがまばゆい日の光で渦まいて、くるくると廻っていた。

「なんだか、私までおかしな気持ちになってきました、ああ」

 と言いながら、手のひらで目の前を払った散歩者は、続けて美女に、

「では、そのとき二階でお休みになったときに……」

「はあ」

「夢でもご覧になりましたか?」

 と、思わず口へ出したものの、あまりにも唐突な問いだったと気づくと、ことばを換えて、

「そういうお気持ちでうたた寝でもしましたら、どんな夢を見るんでしょうね」

「やっぱり、あなたのお姿を見ますわ」

「ええっ」

「ここでこうやって拝見しておりますような。ほほほほ」

 と、なんとも言えない(なま)めかしさで笑う。

「いや、冗談はよして、貴女(あなた)は、その恋しい、逢いたい、けれどもどうしても、もう逢えない、とおっしゃった、その方の夢をご覧なさるのでしょうね」

「その、あなたに似た」

「いえいえ」

 ここで顔を見合わせて、二人ともむしっていた草を同時に棄てた。

「ほんとうに。しんとしていますね、どうでしょう、この静かさは……」

 山の(いただき)の松のなかで、しきりに()(じろ)(さえず)っている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ