二十九
二十九
「恋しい、逢いたいという方がいて、それでもどうしても逢えないで、夜も眠れないほどに思い詰めて、心は乱れて気も狂いそうになっているところに、せめて似たお方にでもと思うものの、近ごろ、この辺りには、その思い人と同じように東京からおいでになったような方も見えませんところへ、何年ぶりか、何ヶ月が過ぎたのか、ふとそれらしき、よく似た姿をお見かけいたしましたのが、あなた」
と、伸びすぎて黒ずんだ土筆の根を、気まぐれに手先で摘んでみながら、
「そのときは……、そう、なんて言いますか、切なくってたまらずに、それから寝込んでしまったと申したんですが、そんなときの気分を、どう言えばいいのでございましょうね。
やっぱり、あの、いやな気分になって、というほかはないではありませんか。それを申したんでございますよ」
何も言い返せずにいた散歩者は……しばらくして、
「それじゃあ、あなたには逢いたい方がいらっしゃるんですね」
と、わずかな逃げ道に話を向けようとした。
「知ってらっしゃるくせに」
と美女は、思いがけない伏兵のようなことを言う。
「ええっ」
「知ってらっしゃるくせに」
「今、初めてお目にかかったところで、お名前も何も存じませんのに、どうしてそんなことがわかると言うんですか」
うたた寝に恋しき人を見てしより、という歌が書かれた、御堂の柱にあった懐紙を見て、みを、という名を知ってはいたけれども、そのときに見た夢の話を彼女の口から聞きたくて、散歩者はしらばっくれた。
「でもあなたは、私が気病みをしておりますことをご存じのようでしたわ。先刻のお話からして」
「それは、なに、あそこで畑を耕していた爺さんが、蛇をつかまえに行ったときに、貴女はお二階に、と言って、そのご様子をちょっと漏らしたからという、それだけです。それもただ、ご気分が悪いとだけ。
私の姿を見て、ご気分が悪くなったなんてことなど、ちっとも話してはいませんでしたから、知っているわけがないのです。ただ礼をおっしゃるかもしれないというから、そいつは困ったと思いましたけれども、ここを通らなければ帰られないもんですから。こんなことになるとわかっていたら、穴にでも入っているほうがよかった。
お目にかからないほうがよかったんです。しかし、私がそう意識していないうちに二階からご覧なさって寝込んだのでしたら、そればかりは仕方がない」
「まだ、そんな事をおっしゃるんですか。気分が悪くなった理由を、そこまでわかっていただけないなら、もっと申しましょう。
あなた、まあ、このうららかな、樹も、草も、血があれば湧くという陽気でしょう。赤い色をした日の光にほかほかと、土も人の膚のように暖まっております。竹藪も暗がりを感じさせず、花も陰を見せません。燃えるようにちらちらと咲いて、水へ散っても朱塗りの杯のようにゆるゆる流れていくでしょう。海も真っ蒼な酒のようで、空は……」
と膝に置いた白い手のひらを上向きにして、空を仰ぎ見ると、
「緑の油のよう。とろとろと、雲一つないのに淀んでいて、夢を見ないかと誘っているようですわ。山の形も柔かなビロードの、ふっくらとした枕に似ています。あちらこちらに陽炎や糸遊が、香を濃く焚きしめたようになびいているでしょう。今にも雲雀が鳴きそうでしょう。鶯が、遠くのほうで、空の低いところで、こちらにも里がある、楽しいよ、と鳴いています。何一つ不足のない、申しぶんのない、目をつぶればすぐにうとうとと夢を見てしまいそうな、この春の日中なんですけど、あなた、これをどうお考えなさいますか」
「どうと言っても」
と、ことばにつられて眺めていた春の日中の景色から、視線を美女の姿に返した。
「あなたは、どんなご気分になられますか?」
「…………」
「お楽しいですか?」
「はあ」
「お嬉しゅうございますか?」
「はあ」
「心がうきうきとなさいますか?」
「貴女は?」
「私は気分が悪いんでございます、ちょうどあなたのお姿を拝みましたときのように」
と言いかけて、ほっと小さな吐息をはいて、人質になったあのステッキを傾けて、膝のあたりで両手に握った。その姿は、感傷の海へと漕ぎ進むかのよう。思わず腕組をした散歩者は、じっと彼女を見つめている。