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(あとがきにかえて ~狂気のコントロール)


『春昼』と『春昼後刻』執筆の端緒となったのは、鏡花がふと思いついた、玉脇みをと角兵衛獅子の少年のエピソードだった――という記述をどこかで読んだのだが、探してみても見つけきれない。見つけられれば修正するとして――それは小説の造りからして、充分にありえる話だ。

 そうだとすればこの連作は、『春昼後刻』が本筋で、『春昼』はその前日譚というかたちで構想されたわけで、これは『女仙前記』と『きぬぎぬ川(原稿題:女仙後記)』との関係に似ている。

 似ているのはうわべだけではなくて、前篇と後篇を比べると、ストーリー的にはたしかに後篇に中心があるのに、前篇のほうが独立した短編としての純度が高い。静的な前篇に対して、後篇は動的ではあるものの、どこか性急で、前篇の言わずもがなの種明かしになっている印象を免れ得ない。――そんなところが共通している。

 なんとなく読めば、前篇には意味を汲み取りにくい箇所も多いから、比較的読みやすく、ストーリーに起伏のある『後刻』のほうが面白い気がするのだが、前半の『春昼』を読み込んでみると、せっかくの暗示に富んだ『春昼』の幽玄な世界を、説明的な『後刻』が台無しにしている気がしてくる。それまでは神秘のヴェールに包まれていた玉脇みを自身があっけなく生身の姿を見せるのもどうかと思うが、とりわけ三十五章で、


 ▶深く考うるまでもなく、(いおり)の客と玉脇の妻との間には、不可思議の感応で、夢の(ちぎり)があったらしい。◀


 ▶また一面から見れば、(かど)(づけ)談話(はなし)……(中略)……は、その人が生涯の東雲(しののめ)頃であったかも知れぬ。◀


 ▶玉脇の妻は、(もっ)て未来の有無を(うらな)おうとしたらしかった◀


 などと、読み手の想像に委ねられるべきところをわざわざ自己解釈してみせるに至っては、自作の価値を自ら(おとし)めているような気さえしてしまう。

 篇中の散策士の内面思考をたどる、鏡花には珍しい――漱石の影響を受けたであろうことが頷かれる――ロジカルぶった書き方が、修辞によって作られる鏡花的な世界に逆襲をしかけて、その論理虚弱な弱点を暴いているかのようで、なんだか痛々しくさえ思えてしまうのだ。

 加えて、終盤で特に顕著になる、玉脇みをに対する散策士の接し方にしても(たとえ相手が狂女だとしても)奇妙なよそよそしさを感じさせないだろうか。

 とはいえ、結果的に書かれてしまった『後刻』には、それはそれで別の読みどころがあって、けっして凡作だなどと言うつもりはない。私小説というものにはまったく無縁だった鏡花の、内面的な、いや深層心理的な私小説といった趣をもつ、希有な作品だと思う。


『パトグラフィ双書 5 泉鏡花 芸術と病理』(吉村博任著、金剛出版、昭和四十五年刊)という書物があって、これは精神科医がテキストに残された鏡花の病理的な傾向を十年間かけて診断した、ちょっとした奇書というべきものなのだが、精神病的な症例に関してはぜひ取り上げるべき『神鑿』に触れていなかったり、伝説的に伝えられていた鏡花の奇癖について鵜呑みにしすぎる部分があったり、作品の解釈自体にミスがあったりと、参考書籍が整理された現在の目からすると、若干の勇み足を感じさせもする。

 そのなかで病理的な研究の恰好の素材として俎上にあげられるのが、『春昼後刻』である。

 三十章で玉脇みをが語る心境の告白には、外界の疎隔感、身体感情喪失感、体感異常という身体意識面の障害、喜怒哀楽がピンとこない自己疎隔感、感情疎隔感、体感異常や身体感情の喪失、時間体験の障害、空間体験異常といったものがはっきりと示されて、これらは離人症の患者が決まって訴える症状とまさしく同じである――と、『後刻』にみられる離人症的な記述と『春昼』で描かれたドッペルゲンガーの描写を関連づけて、さらにそれらは鏡花自身が実際に体験したことではないかという仮説を証拠づけていく。

 ……上掲書に書かれた『春昼』連作に関わる部分の内容は、おおよそそんなものなのだが、離人症状が鏡花自身のものであったという仮説を受け入れたならば、『後刻』にみられる過剰な自己解釈や、玉脇みをに対する不自然なよそよそしさも納得できる。鏡花は、自らのなかに見つけた狂気の萌芽を客観視して、作中人物のものとしていったん隔離した上で、自分の狂気そのものも含めてコントロールしようと試みているわけである。


ここで上げている日記にだったか、鏡花と似た資質の作家としてネルヴァルの名前を挙げたことがあった。

 鏡花とネルヴァルについては、地霊崇拝と狂気の制御を作品化したことが二者の共通点だと思っているのだけれど、地霊崇拝にかんしてはネルヴァルが優勢を示すのに対して、狂気の制御については鏡花は生涯を通じてなんとか成功を収め、ネルヴァルは失敗の末に自ら命を断った。

 そう考えれば鏡花の場合、初期の『鐘声夜半録』以来、御しきれないでいた狂気を初めて完全に制御し得た作品が『春昼』連作であって、それは以後の創作における範例にもなった、といえそうだ。

『春昼』連作に対して感じる、代表作だともいえそうだが、どこか異色作だともいいたくなる不思議な感触は、この小説が持つ、鏡花らしからぬ内面的な、深層心理的な私小説といった希有な一面がもたらすものではないか――そんなふうに思えてならない。


(了)


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