三十四
三十四
「おほほほ、ずいぶん頑張ってるわねえ、まあ、お待ちなさい。そうよ、そんなに苦しい思いをして引っくり返らなくってもいいんだよ、いんだよ」
と押しとどめるように言うと、小獅子はぴょいと身体を起こし、頭の前にもっこりと大きく突き出した紅の飾り花の廂の下で、くるっとした目を見開いて立った。
ブルブルッと、余韻を残して太鼓が止む。
美女は膝をずらしながら、帯に手をかけて揺すり上げたが、
「お待ちよ、いまご祝儀をあげるからね」
ノートの紙に走り書きをして、そのページを上から下に引き破ると、そのまま獅子を手招いて、
「おいでおいで、ああ、お前ね、これを持って、その角の二階建ての家へ行って取っておいで」
留守番の女中に宛てた為替なのだろう。
おくればせながら散歩者は袂に手を突っ込んで、
「細かいのならありますよ」
「いいえ、いいんですよ、さあ、兄さんや、行ってきな」
二本の撥を片手に取りまとめ、差し出したもう一方の手でおそるおそる受け取ると、すばやく引っ込めて、頭の飾りをはらりと振りながら、言われた家に向かう。
「さあお前、こっちへおいで」
小さなほうを膝もとに呼んだ。
きょとんとして、ものも言わず、あっけにとられた人形のような顔を、じっと見て、
「いくつなの」
「八歳でごぜえス」
「おっ母さんはないの」
「角兵衛に、そんなものがあるもんか」
「お前は知らないでもね、おっ母さんのほうは知ってるかもしれないよ」
と言うと、ふと白い手を、その子の袴のあたりにかけて、ぐいっと引き寄せて横抱きに抱くと、仰向けになった獅子頭がぱくっと口を開けて、地面を離れた草鞋が高く反り返った。ふわりとゆらぐ鶏の羽飾りは、風に吹かれた椰子の葉のよう。
「あなた」
と、散歩者のほうに安らいだ顔を向けて、
「私の子かもしれないんですよ」
そのとたん、子獅子はつるりと腕を滑り抜け、背面にとんぼ返りをして身体を起こすと、ぶるぶると身震いをしたが、けろりとして突っ立った。
「えへへへへへ」
そこへ勢いよく兄獅子が引き返してきて、
「頂いた、頂いた」
二回ほど頭を振ると、小さいほうの背中を突いて、ふたたびテンと太鼓を叩きはじめる。
「いいのよ、そんなことをしなくっても」
と、前裾がずり落ちるのも構わず、不意に立ち上がって止めた美女の顔と、まだつかんだままの大きな銀貨とを互いに見較べながら、二人の子獅子はぽかんとしている。しかも、当の子供らがそんなふうであっても、頭の獅子はあいかわらず朱盆のような口を開いたまま、眼を輝かせているのである。
「そのかわり、ことづけたいものがあるんだよ、待っておくれ」
と、○□△を落書きしたページの余白に、すぐさま鉛筆を手にしてすらすらと、春の水がゆらめくように走り書きされた仮名は、遮られることなく、散歩者にも読み取ることができた。
君とまたみるめおひせば四方の海の
水の底をもかつき見てまし
――あなたと再会できるなら、海の底まで潜ってみせる、という歌である。
それを読んだ散歩者は、思わず海のほうにキッと目を向ける。波は穏やかである。青麦とつながる紺青の水平線上には、雪を冠した山が一つ。
波に浮かんだ富士山の影が渚に打ちつけると、ひたひたと薄く被さり続け、藍色の西洋館は棟をそびえさせ、羽を広げて飛ぶ二、三羽の鳩の姿は、ゆったりとハンカチを振り動かすかのようだ。
小さく畳んで、幼いほうの手にその『ことづけ』を渡すと、ふっくらとした顎を、うん、うんとうなずかせるようにしたのだが、いきなり二階建ての家の方へ行こうとした。
使いを頼まれたと思ったらしい。
「おい、そっちへ行くんじゃない」
と、余計なことかと思いながらも散歩者が声をかける。
美女はにっこりとして、
「ただ持っていてくれればいいの、誰に渡すってあてはないの。落したらそれでよし、失くしたらそれっきりでいいんだから……ただ気持ちだけなんだから……」
「じゃあ、ただ持って行きゃいいのかね、奥さん」
と年長らしく聞き返し、相手がうなずくのを見て、すぐに意を解したことに得意顔の兄獅子は、被りものが落っこちそうに仰向いてびっくりした様子の幼いほうの、獅子頭を背後に引っぱると、
「こんなかへ入れとくだア、お前、大事にして持っとけよ」
獅子たちは並んでお辞儀をすると、すたすたと駈け出した。白い波を背景に海のほうへと、紅の母衣を翻して、青麦畑の坂の下へと姿を霞ませていく。