恩返し?試練?
4投目
憂鬱な気持ちで目が覚めた。
心のどこかでそんなはずはないと否定していた可能性が、決定的になってしまった瞬間から俺の気持ちは沈んだまま浮いてこない。
しかし、気持ちに陰りはあるが、荒れるほどの物でもなかった。
感情の揺れ動きが比較的乏しい人間であるのもそうだが、それ以上にやはり、そうかもしれないと頭の隅にあったのが大きい。
目を逸らし続けてきた事が目の前で確定した瞬間、心の底で何かが落ち着いた感覚があった。
慌てても何も変化はない。
この森を調べて、できるだけ美味しい獲物を探して、この訳の分からない新しい世界の中で生きなければならない。
一つ残念な事があれば、捜索の手が伸びる見込みが皆無になったところだろうか。
それもあまり当てにしていなかったため、そう気落ちすることもなかった。
俺はゴブリンがまだ食べられるかを確認して火を起こして串に刺したゴブリンの肉を遠火に当てる。
陽は昇ったばかりだが、脱出の手がかりのための散策の時間が取れるか不安だった。
なぜならゴブリンの肉が傷み始めているのが臭いから分かったからだ。
過ごしやすい気温ではあるが、いくら川の水につけて冷やしていたとしてもそう長く保存は効かない。
このままでは腐った肉を食べて本格的に寝込みことになりかねない。
そのために今日は獲物を見つけて確保をすることが先決事項であり、そのための行動を優先するしかないのだ。
捕獲が上手く行っても散策の時間まで取れるかどうかは不明だ。
食事を終えた俺は溜息を一つ零して立ち上がり、行動に移ることにした。
◆
深い森の中を進む。
地面に何か手掛かりがないかを隈なく探しながらの散策は集中力を消費する。
足跡があればそれを追って何か動物を探すことができるかもしれない。
人間のような小さな足跡があれば注意をしなければならない。
それはあのゴブリンの足跡である可能性が高いからだ。
また襲われれば今度は勝てるかわからない。
それに人の姿に近い生物の殺害は俺の培った倫理観を強く刺激する。
できる事なら出会いたくない相手だった。
「木の実か」
枝に手が届く程度の低い樹に、茶色い木の実が成っている。
俺はそれを一つ手に取って硬い殻をナイフで叩いて中身を嗅いだ。
臭いはそれほど悪くない。
少しフルーティーな香りがする。
食べられそうだと思い、舌先に汁を一滴落とした。
「甘い」
甘さ以外に少し渋みがあるが、危険を知らせるようなピリッとした感覚はなかった。
食用可能だと判断した俺はそれを集め、脱いだシャツに包んで持ち運ぶことにした。
何か袋の代わりになるものがないと不便だと感じる。
俺は大きな葉と紐代わりになるような蔦がないか辺りを探し回った。
中々見つけられず、諦めようかと考えていた時草むらからごそごそと何かの気配が感じられた。
俺は注意をそこへと向けてナイフを構える。
草むらからそいつが顔を現わせた。
ぴょこりと。
「ウサギか……ウサギ!?」
最後辺りの印象が強かった俺は初め拍子抜けして構えを解いたが、そのウサギが最初、命を狙ってきた危険生物であることを思い出して慌ててナイフを構えようとする。
「っ……!!?」
しかし時既に遅く、瞬発力でゴブリンをすら上回るウサギを相手に一瞬の油断が命取りとなった。
もう避けることの敵わない距離にまで鋭い角が迫っている。
どうにか腕を交差させて身を守ろうと動かすが、間に合いそうにない。
角が目前に迫る。
一直線に進み、そして直前で角が減速しウサギの体の後ろに流れていく。
入れ替わるように可愛い小さな足が前に出るとそのまま俺の頬に突き立った。
「ゲフゥッ───!!」
ウサギによるドロップキックだった。
あまりの衝撃に俺は目の前をチカチカとさせながら頭の中は疑問符だらけだった。
そのまま後ろの茂みへと吹っ飛ばされる。
草木が潰れて小さな枝が肌へと刺さる。
ウサギが腰に手を当てて仁王立ちしていた。
どや顔で。
「いったぁ!お前!昨日の奴だろ!命を助けて貰っといてなんて仕打ちだ!!」
頭にきた俺は生意気なウサギに怒鳴るがそいつの不遜な態度は変わらなかった。
「くっそ……今日の晩飯にしてやるっ」
恨み言を言いながら立ち上がる。
すると近くに何かが目に入った。
あっ、と声に出そうになったそれは子供が傘にできそうなほどの葉と丈夫そうな蔦の両方を持った植物だった。
ウサギはフンッと顔を逸らすと満足したのかそのままどこかにいってしまった。
「もしかしてこれを教えてくれたのか?」
いや、ウサギが?
それでは俺の一人零した言葉を理解して、気を遣ってくれたみたいじゃないか。
あり得るのか?
俺はもしかしたらそうなのかも知れないと頭に浮かぶが、一緒に浮かんできた鋭いドロップキックの威力と自分のキックが上手く行った喜びと仕返しができたことによるウサギの凶悪な笑顔を思い出して首を横に振った。
「そんな事があるか。次見つけたらリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルにしてやる」
俺は葉と蔦を集めて踵を返した。
◆
拠点にしている川辺へと無事に戻ることが出来た。
俺は早速川で木の実の汚れを落とし、その場で殻を割って少量を口にする。
久しぶりに感じる甘味に沈んだ気持ちが少し元気になった。
体調に変化が無いことを確認して少しづつ食べる量を増やす。
殻を割り、丸ごと頬張りまた殻を剥く。
するといつの間にかなりの量を食べていたことに気付く。
「食後のデザートに残しておかないと」
食事の最後を不味いもので終えるか、美味しいもので終えるかによって食事そのものに満足度がかなり違ってくる。
この二日間の食事に辟易している俺は楽しみを残しておくために今は我慢をすることにした。
「ん?泡?」
足元を見ると割った木の実の殻が川の水に触れ、少し泡立っている事に気付いた。
「もしかしてこれ海面活性剤か?」
もしこの木の実の殻に海面活性剤の成分が含まれているとしたらこれは洗剤代わりになるかも知れないと思った俺は殻を集め、石で囲った水たまりにそれを入れてかき混ぜる。
すると忽ち泡が立ち囲いを満たす。
汗や皮脂、土や返り血といった汚れに悩んでいた俺は試しに臭いがきつくなり始めたカッターシャツを入れて揉みこんでいく。
揉む動きに合わせてカッターシャツから濁った汚れが滲み出て水を汚していく。
しばらく洗ったあと引き上げ絞り、手に広げてみるとそこには白さを取り戻したカッターシャツの姿があった。
「おお」
軽い感動が胸に広がった。
こちらに来た当初ほどの純白さを取り戻したわけではない。
まだ染みや落ちない汚れが全体に残っているがそれでもかなり薄くなっている。
浸け置きすればまだよくなるかもしれない。
なにより、顔を顰めたくなるようなきつい臭いがだいぶ緩和している事が俺にとっては重要だった。
臭いだって完全に解決できたわけではないが、残った臭いですら木の実のフルーティーな香りが誤魔化してくれている。
俺は思ってもいなかった発見に少し楽しくなった。
柄にもないが、人間ここまで追い詰められれば些細な事でも喜べるものだ。
俺は水を入れ替え手早く木の実をかき混ぜ新しく泡を作っていく。
俺はズボンを脱いで同じように洗い、広げて乾かし、最後にパンツを同じ行程に突っ込んだ。
全裸になった俺は泡を手に取り腕につけ広げていく。
少し水っぽい泡ではあるが現代のきめ細かい泡をただの木の実に求める方が酷だ。
腕全体に広げた後、軽く手で擦り、垢を落としていく。
水に流してやるを心なしか腕が綺麗になったような気がした。
臭いはフルーティーな良い香りになっているためそれだけで満足だ。
俺はその調子で全身を洗っていった。
◆
全身を洗い終えた俺はほくほくとした表情で焚火の前に座って暖を取っていた。
体が綺麗になったのは良いが調子に乗って長いこと裸で水に体をさらしたことによって少々体を冷やしてしまったようだった。
風邪をひいては敵わないと思った俺は慌てて自己最速で火を起こすことに成功した。
木の棒に刺して広げた服を焚火の前で乾かすことしばらく。
日光の助けもあって思ったよりも早く乾いた服を着る。
体を洗って臭いを消した後だからか、僅かだと思っていた服の臭いが洗った当初よりも強く感じられた。
臭いに慣れてしまっていたのだろう。
俺はこれ以上に臭いのを着ていたのかと少し憂鬱になった。
服を着て飯にしようと考え始めたその時、二度目の来訪者が俺の前に現れた。
水を飲みに来たのだろう。
悠然とした足取りで対岸にいるそいつはこちらに一瞥もくれることもなく川に口をつける。
「鹿……?」
それは立派な体躯と角を持った鹿だった。
こちらに向けられた角は広げた両腕ほどの長さを持ち、枝分かれした角の一本一本が太く先端の鋭利な立派なものだった。
しかも信じられないことに、その角は薄暗くなり始めたこの日暮れ中にあって淡い光を放っている。
玉虫色をしたその角は周囲に蛍が飛んでいるかのように、玉のような光が揺れ動き、異彩を放っている。
そして卑屈さなど全くない、何者も意に介さないその瞳は草食動物らしからぬ王者の風格を有していた。
一目で分かる。
こいつは今の俺が手を出していい相手じゃない。
鹿肉なんて今の俺からしたらかなりの贅沢で喉から手が出るほどに欲しいものだが、そんな甘い考えを実行に移したら命がいくつあっても足りないだろう。
俺はそいつが気まぐれでこちらに害意を向けてこないように息を殺して気配を潜める。
しかし俺でもこいつがやばいということは分かるというのに、世の中どこにでもバカはいるようで、鹿の後ろから数匹の気配が現れ鹿へと迫る。
そいつらは最初に俺を襲って今の俺の不本意な主食になっているゴブリン達だった。
背後に危険が迫っているというのに、鹿はそれすら意に介さず喉を潤し続けている。
凶器を振りかぶったゴブリンがもう背後のすぐそこまで迫っている。
鹿はこちらに一瞥を寄越すとまるで見ていろとでも言うように角を振り上げた。
不思議な色で光るその角は一層強く光り、それに呼応するかのように周囲の光の玉が踊り始め、背後のゴブリンへと近づいた。
たったそれだけ。
たったそれだけでゴブリン達は全身を焼かれ、切り裂かれ、氷に砕かれ、大地に呑まれた。
振り返ることもなくたった一瞬で、数匹いた近くのゴブリンを葬ってしまったのだ。
それに驚愕していたのは俺だけではない。
先駆けに任せて攻撃をしなかった残った二匹のゴブリンがようやく彼我の力量差を理解したのか、固まって動けずにいた。
十分に渇きを潤して満足したのか、その鹿はもう一瞥をこちらにくれると、戦意のないゴブリン達には目もくれずそのまま横を通り過ぎ、去っていった。
「なんだったんだよ、あれ」
規格外だった。
動物特有の身体能力がとかの次元の話ではない。
炎に裂傷に氷、果てには地面が大きくその口を開いてゴブリンを飲み込みそのまま潰すように口を塞いでしまった。
「魔法……?」
馬鹿らしい。
あれを見るまではいくらここが地球じゃないからってそんな空想の産物が存在するなんてありえない。
そう思っていた。
自分が突然ここに連れて来られた時の足元の光を放つ幾何学模様。
そして明らかに身体能力のおかしい生物。
なにより地球でないことが魔法の存在を考えるきっかけになったが、そんなもの、空想の中でしかあり得ないと、俺はそう断じていた。
妙にリアリストなのだろう。
異世界にいるというのに、だからと言ってすぐに魔法だなんて超常の存在に結び付けるなど安直だと思ったのだ。
しかしこれは流石に信じざるを得ない。
あの神々しい光。
意志があるように動く光の玉。
そして無礼者を葬り去った数々の超常現象。
この世界には間違いなく、魔法があった。
「あんなのに間違って手を出したら瞬殺されるだろうな」
俺は戦ったウサギを思い出した。
あのウサギもわかりやすい魔法は使ってこなかったが、ゴブリン以上の瞬発力、強さを考えると多分何かしらの魔法を、または魔法のようなものを使っていたのかもしれない。
あのウサギはあの鹿のような理不尽な魔法は使ってなかったが、もしあんな魔法を持っていたらと思うとぞっとしない。
「これからはほんと気を付けないと」
俺は緊張した体の力を抜いて、体内の溜まったストレスを吐き出すように深いため息を吐いた。
「ん?……なにか忘れてるような」
頭の端に残る惨事の映像。
それを振り返っているとパシャパシャという水音が聞こえた。
「あ」
そこには川を渡り終えた生き残りのゴブリンがこちらを睨んでいた。
「なんでそうなるの!」




