兎とお月見
3投目
暖かい日差しに瞼を照らされて、俺を眠りから覚めた。
(夢じゃ、ないか)
目覚めた時、自分の部屋のベッドの上ならどれだけ良かっただろうか。
俺は疲れの抜けきらない重たい体をなんとか持ち上げて、眼前の川を視界に収める。
「ぉぉ、き……いだ」
太陽光をきらきらと跳ね返すこの小川は乾いた俺の心を癒してくれるには十分だった。
寝起きかつ、カラカラに乾いた喉で満足に喋れない俺はすぐに飲めそうなところを探し始める。
どっかの動画主が落ちてくる水なら安全性が高いと言っていたのを思い出して段差になっているところ、流れの速い水流に注目する。
見た目は澄んでいてとてもきれいだ。
必ずしも安全だとは言えない事は俺でもわかっている。
しかし、既に限界に達している俺の喉はそんなことを悠長に議論している暇などなく、すぐさま口を近づけてごくごくと勢いよく飲み始めた。
めちゃくちゃうまい。
体が欲して止まないからか、それとも単純にこの川の水質が優れているのか。
一瞬そんなことが頭に浮かぶが、すぐに忘れて夢中になって喉を潤わせていった。
飲みにくいため飲んだ量に対して時間はかかったが、十分なほど飲んだ俺は、ぷはぁっと息を吐いて顔を上げた。
そして喉を満たして冷静になった俺は、当たったらどうしようかと少し不安になった。
まぁ、このまま飲まずとも死んでしまうのだからどっちにしろ飲まない手はない。
余裕の生まれた俺はある場所に視線を移した。
そこには昨日から変わらず奴の死体が転がっていた。
俺が殺した生物。
多分、ゴブリンとか呼ばれる日本でも有名な架空の生物。
ごうしてこんなものが現れて、突然俺の命を狙ったのかはわからない。
野生動物だとしたら、捕食目的ではあると思うのだが、奴の目はそれ以外の愉悦が感じられた。
食物連鎖の上位というのはそんなものかもしれないが、そうだとしても俺はそんな生物の心の内など理解できるはずもなかった。
いや、理解したくないというべきか。
そんなことを考えていると突然腹の虫が鳴った。
殺生によるセンチメンタルでも俺の胃は知ったこっちゃないようだった。
辺りを見渡すが、食べれそうなものなんて見つかるわけもない。
キノコなんて探してもおいそれと食べれるわけもない。
火を通せば大体のものは食べられるなんてのは大抵のキノコには当てはまらない。
それが言えるのは大体が動物性のものだろう。
しかし、都合よく野生動物を見つけて捕獲するなんて……
俺は無意識に視線を奴に戻していた。
「いやいやいや、人型は流石に……」
シルエットだけなら人間の子供ともとれるそれを食べるなんて普通の人間なら抵抗感が凄まじいはずだ。
俺も例に漏れることは無い。
しかし、自分の意志とは裏腹に口の中に唾液が滲み始め、腹の虫が追加で駄々をこね始める。
「焼けば、食えるよな……」
緊急事態だから。
俺は自分にそう言い聞かせて覚悟を決めた。
◆
結局、腹が満たされるまで食べた。
量で言えば片腕一本分。
腹がかなり減っていたのもあるが自分でもびっくりするほどの食い気だった。
雑だったにも関わらず、腕の解体には随分を手こずった。
初めての火おこしは乾いた木材を探すのも時間が掛かったし、そこから実際に火をおこすのも大変だった。
火の付きやすい木くず等を探したり作ったりする時間が惜しかったため、靴下の表面をナイフで削りとってそれを着火剤代わりにした。
物が準備できても火おこし本番の錐揉みはもっと大変だった。
コツを掴むのに20分くらいかかったような気すらする。
そして自分が殺した奴の肉は───まずかった。
雑食生物なのだろうか、肉の臭みが強いし味も悪い。
倫理感が揺れ動く中でのこの味覚への追い打ちは普通に吐きそうになった。
しかし、そんなことやっていいことではないことくらい俺が受けてきた日本での情操教育で知っている。
どうにか吐き気を堪えて食べる事が出来た。
こんな状態でも腹いっぱい食べられたことには本当に驚いている。
人間というのは案外生きるということに対してがめついのかもしれない。
俺だけではないと今はそう思いたい。
◆
腹が満たされ、その後は奴の肉が腐らないように流れの速い川の浅瀬部分に付けておいた。
こうすれば明日くらいまでなら食べられそうだ。
実際のところは分からないが。
腹が満たされると人は幾分余裕が現れるらしく、やや食べ過ぎた腹が落ち着くまで俺は木陰に入って休憩に入ることにした。
森の中で食事を調達、調理をするというのは非常に大変であることを今日は実感した。
久しぶりにゆっくりと考えを巡らせていたその時、腹の調子が悪い事に気付く。
(食べ過ぎってわけじゃないよな?まさか毒があったのか?)
だんだんと気分が悪くなってくる。
座っているのもきつくなり横になる。
寝そべってしばらく、ようやく落ち着いてきて安堵した。
「やっぱり食べるべきじゃなかったか?」
スマホで時間を確認すると、おそらく1時間ほどダウンしていた計算になる。
「まぁ本当に悪い食べ物ならこんなに早く回復しないわな」
このくらいで済むなら危険なキノコ類を食べるよりかはマシだろう。
しかし安全な食べ物を探すのが優先なのは当然ではあるが。
全身に掻いた嫌な汗を流したくなった俺はカッターシャツとズボン、さらにパンツまで脱いで川の水で身を清める事にした。
汗を流し終えた後、再び服を着てこのあたりの散策をすることに決める。
しばらくこの川を拠点に食料探しや動物探し、この森を出るための手がかりを探すことにしたのだ。
俺は奴から手に入れたナイフを片手に川から離れた。
◆
全容の全く分からないこの森を周りに注意しながら進んでいく。
視界の中の情報を見落とさないように目に集中する。
いつもより集中できているおかげか、地面に足跡のようなものを見つける事ができた。
それは小さく、小動物のものであるのは分かる。
気になった俺はそれを追いかける。
しばらく歩いたところでそれを見つけた。
「ウサギ?」
お尻を向けて雑草を食べている動物がいる。
耳の感じからして多分ウサギ。
ぷりぷりのお尻がかわいらしい。
捕まえて食料にしようか少し悩む。
あのゴブリンが残っているから無理に捕まる必要もない。
しかしこのウサギの肉が体調不良を起こさないかもしれないなら捕まえて食べてみる必要がある。
しかし、生き物を殺すのは依然として抵抗がある。
昨日は襲われたから殺したと言い訳が経つが、今回の場合はそれは通用しない。
俺がそんな物騒な事を考えていたからか、不穏を感じ取ったウサギがこちらに気付いて振り向いた。
その姿は俺が知っているかわいらしいウサギとは気色が違った。
「なにその角」
つぶらな瞳の間の少し上。
小さな額に俺の持つナイフくらいの長さの立派な角が付いていた。
俺の存在を認めた角付きのウサギはそのつぶらな瞳を尖らせて獰猛に変容させた。
「……マジ?」
それがどういう意味なのか、さすがの俺でも気づいた。
咄嗟にナイフを構えたその瞬間、既に目の前に白いもふもふと青い角が迫ってきていた。
「ちょっ───!?」
咄嗟に構えていたナイフを眼前に振りあげる。
硬質な音が耳に響く。
俺のナイフによって、突撃を逸らされたウサギは獰猛な表情を崩すことなく地面に着地すると、再び身を低くして力をためる。
「好戦的すぎるだろ!?」
俺は急いでその場から離れる。
さっきまで俺がいた場所にウサギが角を突き出して通り過ぎていく。
「あっぶな……!」
猪突猛進を繰り返すウサギに補足されないようにジグザグに走って逃げる俺。
大の大人が草食の小動物から必死に逃げているのだから笑えない。
それほどまでにこのウサギの突進は早い。
目の前で動かれて何とか反応できる程度なのだからそのおかしな速度が理解できるだろうか?
俺は自分のケツにあの立派なものが突き立てられないように必死に木々を潜り抜けていく。
「いだぁ!」
ケツにぶっすりと───というわけではなく、切り返すのが僅かに遅れてウサギの角が霞めてしまったのだ。
背中に熱いものと空気を直に感じて大事な一張羅が切り裂かれたのだと察した。
ウサギの気配がスレスレにまで近寄ってきている。
もう俺の動きに慣れ始めているのかもしれない。
遂に俺の動きに合わせたウサギがタイミングを完璧に捉え、角を突き付ける。
「や、っば───!?」
俺はこけるようにして樹の裏へと滑り込む。
トスンっと少し気の抜けた音が聞こえ、樹を覗き込むとそこには樹に角を深くまで突き立てて抜けなくなった間抜けなウサギの姿があった。
「ピィィィィッ!!」
自分の置かれた状況を正しく理解していないのか、じたばたと暴れながらもその目はまだ捕食者のつもりでいるようだ。
「ふぅ、焦った」
俺は助かったことによる安堵と立場逆転によるちょっとした復讐心に顔を歪める。
「ピッ───!?」
ようやく自分の立場が被捕食者側へと回ったことを理解したウサギはこの状況をどうにか覆そうとより一層体を強く暴れさせた。
しかし、うんともすんともしない自分の角に遂に諦めたのか、だらんと体の力を抜いたウサギは作戦を変更。
「ぴぅぅーーーー」
つぶらな瞳に涙を蓄えて泣き落としを敢行。
俺はその姿にときめき心を痛め───
「───とでも言うと思ったか?」
可愛らしい表情にこちらも爽やかな笑顔を浮かべナイフを振りあげる。
「ぴゃぁぁぁぁぁぁあああああ!!」
ゴブリンから奪ったナイフならばこんな小動物を殺すのは容易い。
ある程度の切れ味は保証できるし、なにより大ぶりであるためそれだけで凶器としては十分だ。
俺はその凶器をウサギの首元へと振り下ろし───
「───はぁぁ。お前別に肉食動物って訳じゃないだろ?さっきも草食べてたし」
「ぴ……?」
強く瞼を閉ざして震えていたウサギが俺の言葉を聞いてか恐る恐るこちらを見た。
俺は間抜けな姿のウサギを体を掴んで樹から引っ張りぬいてやった。
掴んだ際にまた暴れたが抜き終わると不思議そうな顔をしてこてんと首を傾げていた。
「ほらっもう俺を襲ったりするんじゃないぞ。その時は樹にぶら下がったままのお前を放置してやるからな」
こちらに危害を与える意志が無いことを理解したのかウサギは足元でこちらを一瞥して前を向いて走り出す。
「あたっ!」
走り去る際に俺の脚を足蹴にしやがった。
俺は小動物からの足蹴とは思えないその強力な後ろ蹴りに悶えていると、ウサギはこちらをちらりと見て、ひとつ鳴いてみせて木々の中へと消えていった。
───ピィィウ♪
森の中から聞こえたあいつの鳴き声は可愛らしかったがどこかこちらを小馬鹿にしているように聞こえた。
◆
俺は仮の拠点としている川へと戻って来ていた。
散策の最中、ウサギが食べていたものが気になり調べてみるとそれは臭み消しに丁度いい匂いの香草のようなものだった。
あのウサギも食べていたのだから多分大丈夫だろうと思い、俺はそれを一握り程度採取していた。
探し集めた枯れ木を一か所に集め、火おこしの準備を始める。
土台となる木材に枯れ葉を砕いたものとナイフで削った靴下の綿を置いて錐揉みを始める。
「おっ」
今回は初めから上手く行き火種が出来た。
それを枯れ木の下の枯れ葉の山の下に入れて手で包むようにして息を静かに吹き込んでいく。
指から洩れる火の明りが強くなっていくほどに息の量を多くして火の勢いを促す。
そうして十分な程に勢いを増した火に小さな枯れ木を継ぎ足していくと簡単には消えない火が出来上がり、それが枯れ木の山へと移ってようやく焚火が完成した。
上手く行ったがやはり想像以上に繊細な作業にかなりの集中力を必要とした。
「森を抜けるまでこれが続くのか……」
これからの文明の利器のない生活を想像して重たい気持ちになった。
現代日本がどれだけ恵まれていたか、痛く痛感した。
「会社……どうなってんだろ」
今日はまだ平日、当然出勤日だ。
優秀とは言えなかったが、真面目に働いてきたつもりだ。
そこは上司も評価してくれていたし、目立った失敗もしないから周りの態度や扱いは悪くなかった。
それがいきなり無断欠勤となればどうなるだろうか。
心配してくれるだろうか。
そうしてくれたら嬉しい。
そしてついでに捜索願も出してくれたら休日返上で働いて見せよう。
……もしかしたら意味の無い事かも知れないが。
俺は川で保存してあるゴブリンの状態を確かめた。
やはり臭いが、それは食べた時のものと変わらない。
腐ったような臭いは感じられない。
「多分、いける……」
いけないと困る。
俺は今回は腹の部分を食べようと腹を裂いた。
「くっっさ!!」
腹を裂いた際に内臓のどこかを破ってしまったらしい。
「あぁそうだ、先に内臓の処理をしないといけないんだった」
動物を狩ったなら真っ先にしないといけないことを忘れていた。
俺は適当に内臓を取り出して土の上に捨てる。
「あれは流石に食べられない」
時間が経った内臓なんでのは不味いし危険の塊だ。
これからは先に出しておかなければ。
そしてできる事なら次は殺したあとすぐに血抜きを行いたい。
このゴブリンは殺してから時間がたってしまっていたから血が固まって出し切ることが出来ていない。
味と臭いはそのせいかもしれない。
切り分けた肉を焼いてから食べ、その味に辟易とする。
不味いが食べられるのはこいつだけだ。
感謝しなければならない。
俺は逃がしたあのウサギは美味いんだろうかと、捕まえなかったことを少し後悔しながらゴブリン肉を食べ終える。
腹は満たされたがその味のせいで心までは満足に足らなかった。
甘い判断なのは理解している。
最初は食べるために殺意を向けたのに、あの間抜けな姿に毒気を抜かれて逃がしてしまった。
ウサギに俺を殺すだけの力があったにも関わらずだ。
見た目が可愛かったからつい、なんて事はない……事もないが、それ以上に俺の中の何かが一歩踏みとどまるように言ったのだ。
倫理観だろうか?
日本人としての価値観だろうか?
そうであるような気がしてそれともまた違ったような気がした。
俺は今日も心を落ち着かせるようにすっかり暗くなった夜空を見上げた。
今日は昨日に比べて見える星の数が少ない。
「まぁ、そうだよな。そんな気はしてた。流石の俺でも気づくよ」
星が少ない理由。
それは他の強い明りが原因だ。
それは日本───地球でも同じ。
しかし、それの見た目は地球のそれとは少し、いや大きく違った。
見上げる夜空に浮かぶ月。
姿を覗かせ始めた恥ずかしがりやなその姿は自分が知っている姿よりも一回りも二回りも大きく光量も多い。
だが決定的な違いに俺の顔が歪む。
うすうすとここがどういうところなのかを察しながらも否定し続けた俺は、無常にも叩きつけられた決定的な証拠のそれを恨みがましく睨みつけた。
俺が睨みつける先のその三日月は翠玉のように美しい輝きを放っていた。




