森の中から始まる異世界生活
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会社からの帰り道。
連日の残業による体の疲れはピークに達しており、早く家の敷居を跨ぎたい気持ちとは裏腹にその足取りは重い。
俺は生まれてこの方やる気というものが存在しない人間だった。
何か特別にやりたいことがあるわけでもなく、何かが得意だから何となくそれを続けるという事もない。
何かを始めることもなく、何かをやり遂げたこともない薄っぺらい人間。
それが俺、水戸川 奏気という人間だった。
それのせいか、特筆すべき学生生活を送ってこなかった武器の無い俺はいくつも面接を受けていくつも落ちた。
ようやく就職に漕ぎつけた会社は表向きだけホワイトアピールのブラック企業だった。
そんな会社に勤めてようやく三年。
やる気も体力もない俺は平均的な仕事を熟すことで精いっぱい。
それもこれだけ体力と気力を削ってだ。
同期の何人かは有り余る体力とやる気で出世コースの道を進んでいる。
羨ましいばかりだ。
仕事を楽しいと思えて。
体力とやる気に満ち溢れていて。
自分にはそれが無い。
あるのは漠然とした失望感と居心地の悪さ。
別に今の仕事が嫌いというわけではないのだ。
同僚や上司が嫌いなわけでもない。
仕事を平均的に熟していれば嫌味を言われるわけでもないし、長時間の残業だって家でやることのない俺からしたら特段苦痛というわけでもない。
ただ、幼い頃から薄っすらと心にこびり付いている退屈感が俺の人生を狂わせ続けているのだ。
◆
ようやくたどり着いたアパートのドアを開け、重たい足で玄関を跨ぐ。
コンビニで買ったお弁当を電子レンジで温めるためタイマーを設定してスタートを押す。
適当に一分に設定してその短い間でスーツを脱いでネクタイを緩めた。
後二十秒もせずに暖めが終わる。
脱いだスーツを適当にソファに放り投げて電子レンジへと戻る。
やけに長く感じるデジタル表記のカウントにぼーっと視線を置いて待つ。
すると下から何かが視界に広がった。
「ん?なんだ?」
妙に温かい足元の光に目を落とすとそこには幾何学模様のサークルが俺を包み込むようにして淡い光を放っていた。
その光は次第に強さが増していき、目を焼くような強い光へと変わる。
「は!?、ちょっこれなんだよいきなり……!?」
電子レンジの仕事が終わる直前、俺はこの趣味の悪い発行体から逃げようと体をひねるも時既に遅く、目に痛い七色の光に潰されて身動きもできないまま光の本流に呑まれてしまった。
───チンッ
少し間抜けなその音を最後に俺の意識はそこで途絶えた。
◆
「うぅん……」
いつの間に気を失っていたのか、俺は顔を覆っていた腕を退けて目を覚ました。
最初に感じたのは都会では嗅ぎなれない筈の自然の香り。
樹々の青臭い匂いと、土の匂い。
次第に明瞭になっていく視界の色は緑と青と時々白。
「もう朝?」
寝起きで巡りの悪い頭は単純な答えしか導き出せずにいた。
体を起こす際に地面を握った。
手には草混じりの土が握られた。
「土……?」
周りを見渡して、ようやく異変に気付く。
「空、樹……森?」
いつの間に外で寝ていたのか。
お酒なんてここ最近全く飲んでいないし、昨夜だって当然飲んでいない。
なのに置かれた状況はへべれけで酔いつぶれた酔っ払いのそれだった。
「あさ……いや、昨日はちゃんと家に帰った筈」
疲れ切った重い足で玄関を潜った記憶が蘇る。
「それでスーツ脱いでネクタイ緩めて……?」
あぁ、スーツをキチンとハンガーにかけないと皺に……なんてそんなどうでもいいことが頭に過る。
「それで弁当を暖めて、もうすぐって時に……」
最後に思い出した記憶。
しっかりと明瞭に思い出したにも関わらず、俺はその記憶が疑わしく、変な夢を見たのではないかと考えてしまう。
「いや、それなら今の現状も夢の中だろ」
自分の住んでいた近くにこんな森は存在しなかったはずだ。
そもそも見た感じここは山でなく平野の森だ。
そんな森が一体日本に何か所あるというのだろうか。
少なくとも俺の住んでいた地域にはそんな所は存在しないはずだった。
本格的に夢なのではと思って、明晰夢特有の神様的なことをしようと試みてみるが、そんな都合のいいことは起きなかった。
試しに頬を抓って見るがしっかりと痛い。
夢の中では痛いと思い込んでいるだけでいざ目覚めてみれば痛くなかったと思い返すパターンだろうか。
結局は今が夢の中か現実かなんてのは俺にはわからないが、何となく現実のように思える。
とても質が悪い事この上ないが。
辺りを見渡すとかなり深い森のようだ。
ここがどこかは分からないがとりあえずこの森を進んでみるしかなさそうだ。
「救助の見込みとかないしな」
冷静に言葉を零してみるも、内心の焦りは大きい。
空気を吸って、辺りを見渡していくうちにこれが現実だと頭が受け入れ始めたからだ。
寝起きの頭の重さが抜けていくと入れ替わるように焦りと困惑が頭の中を支配していく。
心拍数は上り、自然と呼吸が荒くなる。
焦りと困惑の隙間から次第に恐怖が覗き始め、それに合わせて足取り早くなっていく。
早くこんな訳の分からない森から抜け出して家に帰りたい。
自分の住んでいた地域かもわからない現実を頭の隅に追いやって、アウトドアに向かない足を必死に動かし続ける。
太い幹を持つ樹々の間を潜り抜けて、背の高い草を掻き分けて、躓きそうな石を踏み越えて森の中を進む。
かなり歩いたと思う。
慣れない森を歩いたせいで呼吸以上に足の疲労がきつかった。
まだかまだかと森を彷徨いたどり着いた。
「あ……っ」
森を抜けたのではない。
川を見つけたわけでもない。
今までと同じ変化のない森の中。
しかし一点だけ他と違うのが見て取れてしまった。
「マジかよ……」
それは絶望に近い声色。
受け入れられない現実にようやく絞り出すことのできた平凡な言葉。
俺が視線を落としたその地面には握られて抉られた、雑草が根っこ事無くなった小さな穴が存在した。
俺が目を覚ました場所だった。
「振り出しかよ」
森の中は真っすぐ進んでいるつもりでも、樹を避けたりしながら進むうちに方向が徐々にずれ込んで道がそれてしまうとは聞いたことがあった。
知っていたが、これは堪える。
太陽の位置を見ながら進むべきだったか。
平静を欠いていた俺は、森の中を歩くことの難しさを過小評価して気持ちに突き動かせれるがままに歩いていたようだ。
状況が悪化してようやく今の精神状態に危機感を覚えた俺は、深呼吸を繰り返して自身を落ち着かせる。
俺は棒の様になった足に鞭を打って再び歩き出した。
◆
もう何時間歩き続けたか。
太陽の位置を確認しながら歩き続けたがそれでもこの生い茂る緑に終わりが訪れることはなく、明るい水色だった空も次第に鈍い色へと変わっていき、今では太陽が傾き、すっかり夕方の時刻となっていた。
角度を失った太陽の光はこの深い森の中には満足に差しまず、空模様以上に暗くなっていた。
既に焦りも困惑も鳴りを潜め、諦観へと変わり、そして恐怖が大きく顔を出していた。
現代日本人にこんな森の中での生活など不可能だ。
ここがどこかもわからない森の中、たった一人で明りの無い暗闇を過ごす。
俺の中に浮かんだ最悪の想像は既に確定事項となり、夜に備えて動くことを訴えている。
「どうすりゃいいかな」
僅かに震える声。
不安を誤魔化すために吐いた独り言は、必死に隠そうとしたそれを自覚させるだけとなった。
「くそっ」
森の中でのサバイバルなど当然経験があるわけでもなく、動画で適当に見ただけの知識と方法を正しく実行するだけの自信など今の俺には存在しなかった。
俺は大きな木の幹に疲れ切った体を預けて座り込んだ。
「腹、へったな」
当然、こんな森の中にコンビニやスーパーなどはあるわけもなく、ケツポッケに入った財布など無用の長物と化していた。
素人がそこらに生えているキノコなど食べれるわけにもいかないし、都合よく獣が出たとしても狩りのスキルも道具も俺は持ち合わせてなどいなかった。
「あ、」
ふと頭に昨日のお昼休憩が思いだされた。
そう言えばとズボンのポケットに手を入れるとそこにはカロリーバーの内袋が一つ入っていた。
昨日の午後、昼食後に一袋開けて食べ、もう一つ開けようとしたところで上司から声がかかって仕事に戻ったのだ。
その時の残りをポケットに入れっぱなしにしていたことを思い出した。
「これ一つは流石に足りないけどしょうがないよな」
不幸中の幸いだと思うことにしよう。
俺はその袋を開けて時間を掛けて食べ終えた。
口の中のパサつきに水分が欲しくなるがそう都合よく飲み物を持ち合わせてなどいない。
当然森の中で水分を確保するのは難しいし、下手のことは出来ない。
水に当たれば摂取した以上の水分がケツから出ていくことになる。
絵面的には間抜けなものだが、そうなっては命に関わってくるし笑えるものではない。
もう陽も落ちかかって辺りはうす暗い。
俺はスマホを開いて時間を確認する。
「やっぱりおかしいよな」
移動中何度も確認した。
電波が入れば助けも呼べるがやはり樹海然り、深い森の中というのは電波の侵入を拒むのだろう。
俺の持つスマホは時計と明り代わりにしかなりそうになかった。
充電できないから明りに使うにはもったいない。
だからこうして時々時間の確認にだけ画面を灯すのだが
「どう考えても出勤時刻の時間じゃないだろ」
スマホの画面が大きく映す時間は7;00丁度。
表記を24時間に設定しているため夜中の7時という事ではない。
スマホが指している時間はきっちり朝の7時だった。
これが夜中を指したものならそう不思議ではないのだが。
「故障……だったら嬉しいんだが」
正直修理や買い替えで余計な出費をしたくないから本音を言えばありがたくないのだが、時間のズレが指す可能性を考えれば、スマホが壊れてくれていた方がずっとありがたい。
「日本じゃない可能性が出てくるわけか……」
突拍子もない想像。
普通、自分が目覚めた場所がさっきまでいた自分の国ではないなどと考えるのはあまりに現実味がない。
人に話せば冗談を言う人間だとは思わなかったとびっくりされるだろう。
そうでなければ頭のおかしい人扱いだ。
ぐちゃぐちゃになった感情と、考えすぎによる頭の疲労を労おうと少しだけ目を閉じる。
小さく息を吐くと、訪れたのは静寂。
体の力を抜いたからか、次第に静寂の中から自然の営みが聞こえ始める。
風に靡く葉擦れの音。
小さな虫の澄んだ輪唱。
頭の中はこれからどうなるのかと未だに不安で一杯だ。
しかし疲れ切った体でこれ以上なにかしようとは思えないし、考えもうまく纏まらない。
諦観に似た疲労が上手く心を落ち着かせ始めている。
そうなれば今まで怖かったこの森自体も俺に自然の音を届けて落ち着かせてくれていると思えるようになってきた。
時に水が流れるような音は人を本能的に落ち着かせるだけのものがある。
「ん?水の音?……まさか!」
活気を取り戻した俺は勢いよく顔を上げて音のする方へと急いで走る。
足元も暗く地面は歩きなれたアスファルトよりもでこぼことしていてこけそうになるが今はそんなことどうでもいい。
脚の重さすら忘れて俺は必死に走った。
「おぉ、川だ……!」
息を切らして辿りついた場所には小さな川が流れていた。
ごくりと喉を鳴らす。
思い返せばここに来てから何も飲んでいない。
唇を触れば乾ききっていてかさついている。
水分不足の表れだ。
しかし辺りはかなり暗くなっており、スマホで照らしても水の透明度もいまいちわからない。
このまま勢いに任せて飲んでしまえば腹を下す未来が目に見える。
「はぁ」
俺は深いため息を吐いて近くの樹に座り込んだ。
暗くなる前に発見できていれば飲めていたかもしれないのに。
それでも危険なことに変わりはないが、今の俺は目の前でお預けを食らっている状態だ、綺麗だとわかれば危険だとわかっていても飛びついたかもしれない。
がっかりした気持ちとこれで良かったのかもしれないという気持ちが湧く。
今日はこの川の傍で過ごすことにしよう。
俺は樹に背中を預けてただ時間が過ぎるのを待つことにした。
どうしてこうなったのか、ここはどこなのか、どうして時間がズレているのか、同じ疑問が何度も頭の中で巡るが、答えなど出るはずもなかった。
考えても仕方ないことを放棄してただぼーっと眠くなるのをじっと待つ。
無限にも感じる時間の中、俺は空を見上げ続ける。
環境音と星模様。
ただただ退屈だった俺の人生の中で、不思議とこの空間には少し心を動かされていた。
自分がこんなことで感動するロマンチストだなんて思ってもいなかった。
帰ったら天体観測やプラネタリウムに行く趣味を初めて見てもいいかもしれない。
ソロキャンプなんてのもやってみる価値があるかもしれない。
少しだけ湧いた楽しさと興味に今まで感じていた森への恐怖などいつの間にか吹き飛んでいた。
「明るくなったら水にチャレンジだな」
流れが速かったり、落ちてくる水は安全だと聞いたことがあるがそれらを試してみよう。
非日常を受け入れて、心に余裕のできた俺は陽が上がった後の事、無事に帰った後の事を前向きに考えるようになっていた。
今まで感じたことのない充足感に、自分でも場違いだろうとツッコミを入れたくなるが、湧いてくる感情なんだからしょうがない。
そんな風に場違いながらも、久しぶりの笑顔を浮かべていると、茂みの向こうから掻き分けて進んでくる何かの音が聞こえてきた。
獣か?と少し警戒するが、もしかしたら人間かもしれないと考えが浮かぶと、安心感が生まれて俺はつい言葉を投げかけてしまった。
「あ……?」
返事は返ってこなかった。
それだけで人間だという可能性は著しく下がったことを自覚した。
熊だったらどうしよう。
最近なにかと話題に上がる危険な猛獣だったら俺に助かる見込みはそうない。
前向きになって警戒心を疎かにした自分に激しい後悔が襲う。
息を飲んで草むらを凝視する。
草々の隙間から赤い灯りが二つ覗いた。
「鹿か……?」
以前車のヘッドライトに照らされた鹿の目が赤く見えた事を思い出した俺はそれが鹿であるかもしれないと安心感の材料にしようと考えていた。
しかし、その二つの灯りは鹿のものとは妙に違うような気がする。
俺は安易に自分を落ち着かせようとしたその可能性を本能で否定して、警戒心を再び引き上げて立ち上がる。
───キキッ
金切り音のように異様な高い声。
明らかに草食動物のものではないと分かる。
しかし肉食動物の猛獣のようなものとも明らかに違う。
聞いたことのないどこか人間に近いようなその声に、全身に冷たいものが走る。
それは暗闇から姿を現した。
星明りが僅かに照らし出したその姿は異形。
苔のような肌に子供のような矮躯。
全身には大小さまざまな吹き出物があちこちにでこぼこと存在している。
異様なほどに長い鷲鼻ととがった耳。
落ち窪んだ大きな目は強欲に下卑た瞳をしていた。
俺はそれの名を知っている。
あまりに有名であまりに醜い架空の存在。
俺でも知っているそれの名は───
「────ゴブ、リン……!?」