2-5 偽りの国へ
白い国 2-5 偽りの国へ
「どうかな?話は纏まったかな?」
ドルフ教授はデスクにあった新聞を読み、片手にはカップを持ってはチラとこちらを伺う。
「いやぁ。先程は大変見苦しいところをお見せしまして、誠に申し訳ございませんでした。今回の教授会のご判断を尊重致したいと思います。大変申し訳ございませんでした。」
深々と頭を下げたローレンスは顔を上げると、まだ何やら言いたげだ。
この男は「ただでは起きない」のが、モットーであり無論この謝罪は単に助手の諫言を受けて改心したからでは毛頭ないのだ。
その雰囲気を察したドルフ教授は不承不承ながらも、ローレンスに発言の機会を与える。
「そうかい。それで、その言葉と引き換えに何が欲しいんだね?」
思惑通りの言葉を引き出したローレンスは心の中でほくそ笑み、その外面では人がおよそ顔の表情筋を用いて表現できる限界で、満面の笑みという表情を作り出していた。
「ドルフ教授、よくお聞きになってくれた。私が先程も述べましたように。私にはお国の勤めによって国外も含めて出張が多くありました、しかし、まだその出張手当を頂いていないのです。お国の方の財政は先の戦争でズタボロ、火の車。パンを一斤買うには札束の山状態です。
そこで提案なのですが、どうか大学の交際費から私めの出張手当を頂けるとありがたいことこの上ないのですが、いかがでしょうか?」
この要求がおよそ想像出来ないほど恩知らずな要求であることはこの場で理解していなかったのはこの発言者だけだ。
国の仕事でその報酬が支払われていないのは国の責任であり、大学には責任など無いのだ。
むしろその仕事のせいでまともな講義も行われていない、かえってその損害を請求したい程なのだ。にも関わらず、その尻拭いを大学がせよ。と言うのである。しかもあろうことか、大学に一切貢献しないこの高慢な男の要求であるなら尚更だ。
しかし彼はあえて理解しない節がある。なぜなら、発言の責任を負うのは自分ではなく、目の前にいる老人であり、自らは逃げ切れる隠し通路を持って挑んでいるのだ。
その隠し通路から至れる安全圏を確保した状態なら、大学やこの学会の巨頭であろうと彼にとって取るに足らない存在なのである。
それを知らない助手のテレスは栃麺棒を食うように発言を取消し、修正し、加筆する作業を行うよう耳元で囁く。
「先生。流石に分を弁えては?いくらドルフ教授が懇意にしてる恩師といえども怒りますよ。大学の交際費って裏帳簿のことですよね。その裏金の話はタブーだって聞いてませんか?ここは、大人しく冗談だったことにして誤魔化しましょう。ね?いいですか?冷静にお願いします。」
ローレンスはその進言を片手で軽くあしらうと、続けて言う。
「ドルフ教授。私は今の待遇ならば他の大学、他の機関へ移ることも検討せざるを得ない状況下であることを是非!考慮に入れて、検討を頂きたい!」
自信の塊となれるには無論、安全圏の存在だが、そもそもこの男はギリギリの駆け引きを愉しむきらいがあるのだ。
その相手との折衝の中で己の価値を確かめ、限界まで引き上げる。そうして勝者となると、途端にその戦意を無くす。
ようはそう言った駆け引きを純粋に愉しむ、普通の人間なら相手にするのが面倒な部類と思っていいだろう。
ドルフ教授が新聞をデスクの引き出しに仕舞い込んでは、またカップに手をつける。
そうして目を閉じて一考を重ねているうちに、研究室に電報持った職員がやってくる。
「すいません!レンブランド王国、国王陛下からの電報です!ご確認を!」
慌てた職員の顔ぶりから、その出来事がただならぬ出来事である事は容易に想像出来る。何しろ国王陛下直々に電報を送ることなど、異例中の異例なのだ。
「内容を確認しよう。見せてくれたまえ。」
ドルフ教授はその重たい腹を持ち上げると、職員から手渡された用紙には「ソクジカイトウノゾム。」とある。
「どうゆうことです?また開戦の詔でも出す気ですか?今度はどこと戦うんです?まさか今度は国民とだなんて言い出しませんよね?国王は?」
冗談混じりにローレンスはその電報を横から見て言うのに対してドルフ教授はより一層深刻な顔をしている。
「本当に困ったお方だ。ローレンス君。もはや時間がない。国王はこちらの回答などほとんど聞いてはくれないだろう。詳しい話は馬車の中で話す、今はとりあえず宮殿に向かうとするとしよう。馬車は?」
職員に話しかけてながらモーニングコートを羽織り、トップハットを被る。
「構内正面にあります!そのまま出れるように待機してあります!」
「そうかい、助かるよ。こんな急場で即した礼装も出来ないが、致し方あるまい。さっ、その格好で構わない。馬車まで行こう。」
残した紅茶を全て口に運ぶと、ドルフ教授は足早に研究室を後にする。急に言われた二人は心の準備はおろか何一つ準備が出来ていない。テレスに関して言えば、ジャケットも無ければ、ネクタイもないのだ。グレーのウエストコート姿のテレスは流石に気が引ける。
「先生。どうやら私はこの格好ですし、不作法極まりないので、今回は遠慮しておきます。」
こっそりと構内正面とは反対方向に向かおうとするテレスをローレンスは見逃さない。テレスの襟を持って逃亡を阻止すると、素早く腕を掴み、身動きを支配する。
「そうはいかないよ。私だって正装とは程遠い格好だ。ドルフ教授と私だけでは私の不作法が目立つ。しかし君がいればどうだね?有り余る不作法を行う若人を前に、私のほんの少しの格好の違いくらいは目が霞むかのようだ。それにそれほど急報を受けて参上したと知れば、国王陛下もお喜びになるだろう。いいね?決して私の格好が目立たぬように振る舞いたまえ。」
捲し立てるように、言葉に似合わない笑顔を添えたローレンスは、
そのままテレスをしっかりと拘束したまま、半ば引きずりながら馬車へと向かう。
周囲の晒し者を見るかの様な視線を意に介することもなく、むしろ視線を向ける学生には手を振り平生の出来事かのようにして馬車へと乗り込む。