8:父の心
城へ来る時は父親も一緒だったが、仕事がいつ終わるか分からないため、帰りは別々にすると事前に決めていた。
顔合わせを終えたアルテナは、侍女を連れて一足先に王都内の公爵邸へ戻る。湯浴みをして化粧も落とし家用のゆったりしたドレスに着替えると、ようやく少し肩の力が抜けた。
しかし、まだ気を抜くわけにはいかない。婚約の顔合わせは、あくまでも下準備に過ぎない。アルテナの目的は、公爵家から追い出される事なのだ。隣国へ行かなければマイルズに会う事は叶わない。
侍女はゲルハルトがいかに酷い男だったかを父親に話すつもりのようだが、恐らく父親はすでに城で今日の出来事を聞いているだろう。
それは考えるまでもなくゲルハルト側の話であるはずで、アルテナの非だけが伝わっているはずだ。きっと父親は、怒り心頭で帰ってくる。
その父親の怒りを上手く転がして、アルテナは何としても隣国へ放逐されなければならない。ここからが正念場だと、アルテナは気合を入れ直した。
「アルテナ! アルテナ、いるか!」
空が夕焼け色に染まる頃。公爵邸へ戻った父親は案の定、顔を真っ赤にして怒っていた。よほど急いで帰ってきたのだろう、先触れもなく到着した馬車から降りてすぐ、憤怒の形相で歩き出し、アルテナの部屋へ直行する。
怒気を上げる声は大きく館中に響き渡り、その威圧感は物凄いものだ。それはアルテナのためにとあれほど意気込んでいた侍女ですら身動きが取れなくなるほどで、荒ぶる主人を使用人たちは誰も止められない。
だがこれを予期していたアルテナは、いよいよ来たかと思うだけだ。アルテナはゆったりと腰を上げると、乱暴に扉を開けた父親を出迎えた。
「お父様、おかえりなさいませ」
「お前という奴は……何を呑気な!」
「まあ、ごめんなさいませ。お出迎えもせずに」
ただでさえ怒っている父親にあえて静かに淑女の礼を取る事で、アルテナはさらに煽った。すると父親は拳を震わせ、烈火の如く怒り狂った。
「出迎えなどどうでもいい! 分かっているのだろう!」
「もしかして今日の茶会のことでしょうか?」
「当たり前だ! 殿下を侮辱するなど、何ということをしたのだ! 城で騒ぎになっているのだぞ! お前は我が家に泥を塗る気か!」
「申し訳ございません。ですがわたくし、本当に嫌でしたの。お許しになれないなら、どうぞわたくしを追放して下さいまし」
一度目の人生でアルテナは父親に追放されたが、それはあくまで十七歳だったからだ。今のアルテナは十歳なため、子どもであることを理由に屋敷や領地に閉じ込められては困ってしまう。
そう思って父親の怒りをわざと買い、追放するよう申し出た。理性を失った状態なら、簡単に叶うと思ったのだ。
しかし意外にも、公爵は頷かなかった。
「追放などと馬鹿なことを! 婚約出来なかったぐらいで、するわけがないだろう!」
「まあ。ですが、お父様に恥をかかせるほどの騒ぎになったのでしょう?」
「ああ、そうだとも。だが所詮は子どものしたことだし、きっかけは殿下のお言葉だったことも伝わっている。陛下も、今回に限り不問に付して下さるそうだ」
どうやらゲルハルトの行いも、あの場にいた騎士や城の侍女たち、ゲルハルトを無理やり連れてきた臣下などから報告されていたようだ。廊下であれだけ騒いでいたのだから、伝わっても仕方ないかとアルテナは思う。
その上、国王直々に不問に付すと言われてしまったらしい。国王が許した事を理由にして、追放など出来るわけがない。目論見が外れた事に、アルテナは思わず肩を落としてしまう。
だがそれなら、なぜこれほど父親は怒っているのだろうか。怪訝な表情で見上げると、父親は呆れたようにため息を漏らした。
「お前は賢いと思っていたが、やはりまだ子どもか。私が怒っているのは、お前があえて事を荒立てたからだ。お前なら、もっと穏便に断れたはずだろう。違うか?」
まさか父からそんな言葉が出るとは思わず、アルテナは驚いた。そんな信頼を寄せてくれるという事は、父親はアルテナの頑張りを見ていたという事だろう。アルテナに興味などないと思っていたのに、違ったのだろうか。