7:顔合わせの席で
「王太子殿下はまもなく参りますので、どうぞお座りになってお待ちください」
アルテナは招かれた時間通りに客間へ入ったが、そこに招待主の姿はなかった。
だがこれも予想通りだ。一度目の人生でもゲルハルトは遅れて来た。恐らく今回も前と同じく、もう少しすると慌てた様子で駆け込んでくるだろう。
そう思ってアルテナは澄まして待っていたのだが。どれだけ待ってもゲルハルトは現れなかった。
(遅すぎるわ。殿下は何をなさっているのかしら)
何の説明もないままかなりの時間待たされており、アルテナもさすがに苛立ち始めた。
公爵家は複数ある貴族位の中で最高位に位置しており、いくら王家でも蔑ろにしていい相手ではない。きっとゲルハルトは深く考えずに遅刻しているのだろうが、公爵家の体面にも関わるし、このまま黙って待ち続けるわけにもいかない。
家から連れてきた侍女の様子を見てみれば、彼女も不愉快に思っているのだろう。微かに眉根を寄せている。
そんな侍女はアルテナの視線に気付くと、心得たとばかりに頷き、扉付近に控えている騎士を見据えた。
「王太子殿下とお会いするのは、この部屋で間違いないのですよね?」
「はい。その通りです」
「では私たちが、時間を間違えたのでしょうか」
「……いえ、そんなはずは。殿下もそろそろいらっしゃるかと」
「そうですか。王太子殿下はずいぶんとお忙しいようですね」
「そうですね……」
どうやら侍女は、アルテナ以上に腹に据えかねていたようだ。いつもアルテナの我儘を快く聞いている侍女だから、アルテナに肩入れしている部分もあるのだろう。嫌味たっぷりに問いかけており、騎士は居心地悪そうに答えている。
婚約の顔合わせに呼ばれたのに理由なく待たせているのだから、その怒りも当然だ。
とはいえこの騎士に責任はないし、彼とてある意味被害者なのだから、あまり責めては可哀想だ。
助けの手を差し伸べようと、アルテナは腰を上げた。
「まだ時間がかかるようだし、お化粧を直しに行くわ。殿下にはゆっくり来て頂けるよう、伝言をお願い出来るかしら」
「は。かしこまりました」
アルテナを通すため騎士が扉を開ける。するとその瞬間、廊下の奥から怒鳴り声が響いてきた。
「嫌だ! 僕は行かない!」
「殿下、そう我儘を仰らずに」
部屋からは見えない曲がり角の先で言い争っているらしい声に、騎士が慌てて扉を閉めようとする。だがそれをアルテナは、視線だけで押し留めた。
「お前だって見ただろう! 絵姿と全然違ったんだぞ!」
「それはそうですが」
「あんな娘を妃になんてしたくない! 違う娘を連れて来い!」
聞き覚えのある怒鳴り声は、王太子ゲルハルトのものだ。
どうやらゲルハルトは登城したアルテナをどこかからこっそり覗き見ていたものの、自分の好みと違うからと顔合わせを拒否しているらしい。嫌がるゲルハルトを臣下が無理やり連れて来たが、ゲルハルトは頑なに抵抗しているようだった。
(なるほど、そういうことなのね。前回、慌てて駆け込んできたのは、わたくしが好みのドレスを着ていたからなのだわ)
あえてゲルハルトの好みと真逆の装いにしたとはいえ、まさかこんな事になるとは思いもしなかった。
扉を中途半端に開けている騎士も、廊下側に控えている騎士や城の侍女たちも、皆が顔を青ざめてアルテナと曲がり角の向こう側とを交互に見つめている。
公爵家の侍女が頬を引きつらせる中、いつまでも終わらない押し問答に、アルテナの心は芯まで冷えていった。
「お気持ちは分かりますが、断るにしても一度はお会いになりませんと」
「何で僕がそんな事をしなくてはならない! お前が行って断ればいいだろう!」
「ですがこれは王命ですので……っ! 殿下、おやめください!」
「うるさい! 僕は王太子だぞ! 口答えするな!」
驚いた事に、ゲルハルトは暴力を振るってまで逃げようとしているらしい。見えずとも音だけで手に取るように分かるその様子に、アルテナは心底嫌気がさした。
(これでは国も傾くのも納得だわ。この頃からこんな風だったら、ああなるのは必然ね)
脳裏に浮かんだのは、一度目の人生でアルテナがマイルズと結婚した後に知った話だ。
アルテナとの婚約を破棄した後、ゲルハルトは惚れ込んでいた男爵令嬢を妃として迎えた。王太子の妃として家格が釣り合わないが、二人は「真実の愛」を理由に結婚を押し通したのだ。
しかしそれからしばらくして国王が亡くなりゲルハルトが即位すると、グラナダ王国は急激に衰退していった。無能なゲルハルトは王妃と共に享楽に耽り、王妃の実家である男爵家が幅を利かせ始めた。それを諌める臣下もいたがゲルハルトが退けたため、国の中枢にまともな者は残らなかった。
あのままであれば、遠からずグラナダ王国はその歴史を終えていただろう。だが、ゲルハルトに追い出された忠臣たちが国の行末を憂い、ゲルハルトの弟である第二王子に接触。愚かな兄を反面教師として育った弟王子は常識的な人物だったため、旗頭となる事を了承し、忠臣たちを率いて決起した。
愚王の元に残っていた臣下は大した事がなかったため、国の簒奪は短期間で終わったとアルテナは聞いている。そうして新たな国王となった第二王子の手で、ゲルハルトと王妃は処刑されていた。
隣国でその顛末を知った時、アルテナは妃にならなくて良かったと心の底からホッとしたものだった。
(今はまだ、ああなる前の子どもと思っていたけれど、本質は何も変わらないんだわ。殿下は元からこうだったのだから)
アルテナは心のどこかで、自分が婚約者だったうちにゲルハルトを正せていたら違う未来もあったのではと思っていた。だがそれは全くの見当違いだったのだろう。現時点で、未来の愚王の片鱗が見えている。
それに気が付くと同時に、アルテナの中で何かが切れた。大人気ないから自重しようなどと、そんな生温い事をしても自分が損をするだけだ。
酷薄めいた笑みを薄らと浮かべて、アルテナは室内へ戻る。城の侍女たちが小さく身を震わせ、騎士たちが唾を飲み込んだ。
そこへ、ようやく気持ちを落ち着けたらしいゲルハルトが、渋々といった態度を隠しもせずにやって来た。
「お前がサーエスト公爵令嬢か。待たせたな」
「あら、どちら様?」
ふんぞり返って言ったゲルハルトを、アルテナは不敬を承知で座ったまま迎えた。するとゲルハルトは露骨に顔を顰め、アルテナを睨みつけた。
「僕は王太子だ! お前はそんなことも分からないのか!」
「まあ、あなたが王太子ですの? ずいぶん冴えない顔をした方ね。頭も悪そうだから、分かりませんでしたわ」
「何だと! 無礼者めが! さっさと跪いて恭順を示せ!」
「お断りしますわ」
「なっ……!」
アルテナが嘲るように鼻で笑うと、ゲルハルトは激昂した。顔つきに幼さは残るものの、真っ赤になったその顔は散々アルテナを虐げた大人のゲルハルトそのものだ。
アルテナは万感の思いを込めて、深くため息を漏らした。
「全く嫌になるわね。もっと素敵な王子様が相手だと思っていたのに、こんな人と婚約しなければならないなんて。一体どんな罰だというのかしら」
「この……! 貴様のような女はこちらから願い下げだ! さっさと出て行け!」
アルテナは殴られるのも覚悟で、一度目の人生からずっと秘めていた本心を口にした。こんな男の妃になど、頼まれてもなりたくなかった。
ゲルハルトはアルテナの目論見通り手を上げたが、それが振り下ろされる前に騎士が間に入る。騎士がゲルハルトを止めてくれている間に、アルテナは礼もせず、侍女と共にさっさと部屋を出た。
「お嬢様、お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫よ。ごめんねさいね、心配かけて」
「とんでもございません。今日のことは私からもきっちり旦那様に報告させて頂きます」
「ありがとう。でも騎士からも報告があるでしょうから、嘘は言わないで。あなたが見聞きした全てをありのまま伝えてね」
「はい、お任せください。一言一句もらさずにお伝えしますので」
決意を込めて言う侍女に、アルテナは微笑みを返す。好き放題に振舞ったからか、その心中は思っていた以上にすっきりとしていた。