6:王太子との苦い思い出
グラナダ王都の周りは、四つの公爵領に囲まれている。そのうち、北の公爵領がアルテナの父サーエスト公爵の所領だ。
長い歴史の中で度々王家と血を交わしている四つの公爵家は、建国当初から国と王家を守護している。他国から侵攻を受けた際は王都を守る最後の砦となるし、王都で内乱が起きた際にはいち早く介入する剣にもなる。
そのため領都は王都近くに位置しており、アルテナが暮らす公爵家の屋敷もその領都にあった。
王太子ゲルハルトとの茶会は当然ながら王城で行われる。屋敷から城までは日帰りで行ける程度の距離だが、ドレスを着付けるには時間が掛かるし、あまりに長い時間を馬車に揺られては皺になる。
余裕を持って茶会に行けるよう、アルテナは前日から王都にある公爵邸へ父親と共に入り、いよいよ茶会当日を迎えた。
父親は茶会には同席しないものの、城までは同行する。アルテナの装いは事前に準備していた通りの大人びたものだ。これまでの可愛らしいドレス姿とは正反対なため、アルテナの変貌ぶりに公爵邸の者たちも驚きを隠せていない。
父親から何と言われるか、アルテナは緊張していたものの、馬車に同乗した父は意外にも満足そうに頷いた。
「報告は受けていたが、お前の好みが変わったというのは本当だったようだな」
「わたくしには似合いませんか?」
「いや。お前は母親に似ているから、悪くない。きっと殿下もお喜びになるだろう」
両親は政略結婚だったが、二人の仲は良好だった。どこか懐かしそうに目を細めた父親に、アルテナはホッと胸を撫で下ろす。
どうやら父親は、アルテナが今日のために気合を入れて準備したと受け取ってくれたようだ。ある意味では間違いないので、黙って淑女の微笑みを返しておく。
そうして城へ着くと、領地に関する報告を上げるという父親と別れ、アルテナは侍女を伴って茶会のために用意された客間へ向かった。
一度目の人生では、王太子妃教育を受けるために何度となく訪れた城だ。しかし城での記憶はお世辞にも楽しかったとはいえない。見覚えのある景色に、自然と嫌な思い出が蘇ってきた。
妃教育の後には、ゲルハルトと仲を深めるべく必ずお茶の時間が設けられたが、その席でアルテナは何度となく不平不満の捌け口とされ、暴言をぶつけられた。
婚約当初こそ、ゲルハルトは可愛らしいアルテナを気に入り目尻を下げていたが、妃教育が進むにつれて真面目に取り組むアルテナを変にライバル視するようになっていったからだ。
ゲルハルトは自尊心が高く、顔は良いが頭は弱い男だった。
たとえ優秀なアルテナに悔しさを感じたとしても、それを糧にして努力を重ねるべきだろう。それでも勝てないのなら、次代の王としてうまくアルテナを使えば良かっただけだ。だがゲルハルトはそうしようとはせず、劣等感を払拭するためだけにアルテナをひたすら貶めようとした。
アルテナは精一杯ゲルハルトを立てようとしたが、それすらもゲルハルトはよく思わなかった事を思い出す。他者の目のある城の廊下で大声で怒鳴りつけられた事も思い出してしまい、アルテナは額に青筋が立ちそうになるのを堪えた。
(今日会うのは、あの頃の殿下ではないわ。相手は子ども。まだ十一歳の子どもよ)
父親への怒りは薄まっていたものの、どうやらゲルハルトへの怒りはまだ残っていたらしい。
だがそれも仕方ない事だろう。ゲルハルトから受けた仕打ちは、何も城での事だけではない。むしろ貴族学校に入学してからの方がずっと酷い目に遭わせられたのだ。
グラナダ王都には貴族学校があり、王族も含めて貴族の子息令嬢なら誰でも十五歳から入学出来る。入学は義務付けられているわけではないし学費もそれなりに高くつくが、学業のためだけでなく人脈を作るためにも通う者は多かった。
そのためアルテナとゲルハルトも学校へ通ったのだが、そこでゲルハルトは擦り寄ってきた男爵令嬢に現を抜かすようになった。二人はこれ見よがしに堂々と逢引きを繰り返していたため、婚約者のアルテナの立つ瀬はなくなってしまった。
それだけでも辛かったのに、大人たちからはゲルハルトの心を繋ぎ止められないアルテナが悪いと詰られたり、しっかりしろと注意されたりと理不尽な目にもたくさん遭った。
その上卒業パーティーの席では、男爵令嬢を虐げたなどと身に覚えのない事を突然言われたのだ。それが冤罪だと見抜けず、その場で婚約破棄を宣言して止めを刺したのがゲルハルトだった。
七年間の婚約期間で受けた仕打ちは、どれも忘れたくても忘れられない出来事ばかりだ。それでもその頃、穏やかで従順な淑女の鑑とまで言われていたアルテナは、怒りや悲しみを全て心の内に飲み込んでしまった。
結果的にマイルズと出会って愛される喜びを知れたから良かったものの、男性不信に陥ってもおかしくないほど、大層傷付いたのだ。
けれど、今のアルテナはあの時とは違う。平民に落ちた事で図太くなったし、マイルズに愛されたおかげで嫌な事は嫌と拒んでいいと学んだ。
そんなアルテナだから、元凶と相対するにあたって封じ込めていた不快な感情が顔を出しても仕方ない事だろう。
とはいえ今から会うゲルハルトは、まだそうなる前の人物だ。婚約話をなかった事にするために、元からゲルハルトを挑発するつもりではあるが、そこに私怨を挟みたくはない。
体は十歳だが、アルテナの精神は六十歳まで生きた女性なのだから、感情的に怒るのはあまりに大人げないだろう。マイルズに会うために必要だから、アルテナはゲルハルトを怒らせるだけだ。
それだけは間違えないようにしようと自分に言い聞かせ、アルテナは用意された部屋へ足を踏み入れた。