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9:絶望、そして

 アリーと結婚してから四十三年が経ち、さすがにもう追手を気にする必要もないだろうと、数年前からアリーも時折、家族と町歩きに出かけるようになった。

 子どもや孫たちは皆大きく育って、今では店もほとんど任せている。長女だけは結婚生活がうまくいかず出戻ってきたが、その分仕事に生きると決めたようで、アリーがやっていた会計業務を精力的にこなしてくれている。


 だからそろそろ完全に引退して、二人きりでのんびり旅行にでも行こうかと話していた。馬車の旅なら、アリーの足でも楽しめる。以前、海の絵を見て興味深げにしていたから、海辺の町に行ってもいいと思っていた。

 それなのに旅行の準備を始めた矢先、アリーは突然倒れた。


「アリー、アリー。頼む、逝かないでくれ」


 家族みんなが集まった部屋の中。ベッドに横たわるアリーは、ヒュー、ヒューと浅い息を吐いている。意識はまだあるようだけれどもう動く力もないのか、最愛の妻はただぼんやりとマイルズを見るだけだ。


 元から食の細いアリーだったけれど、倒れてからさらに食べる量が減り、やがて何を口にしても吐くようになってしまった。医者の話によれば、胃に瘤が出来る病で治療法はないという。

 それでも諦めきれず、四方八方手を尽くした。けれどどうにもならず、アリーの命は消えかかっていた。


(なぜ、アリーがこんな目に)


 初めて会った時から、アリーは充分過ぎるほどに苦しんできた。理不尽な暴力に遭い、声を奪われ怪我を負って。痛みの残る足では不自由な事もたくさんあったはずだ。

 それでも常に明るくいてくれたアリーにこんな仕打ちをするなんて、神は何の恨みがあるのだろう。一体アリーが何をしたというのか。

 アリーが苦しむ姿など見たくない。アリーには、ただ笑ってて欲しかった。本当なら今頃は、旅先でアリーと笑い合っているはずだったのに。


 どこにもぶつけようのない怒りと悲しみと、愛する人を永遠に失う恐怖がマイルズの心を覆い尽くす。

 骨と皮だけのように細くなってしまったアリーの手を握り、マイルズは生きてくれと縋った。


「アリー、愛してる。僕のアリー」


 アリーの瞳がゆっくり閉じて、ほろりと涙がこぼれ落ちる。それきり呼吸の音も止まってしまった姿を見て、マイルズは慟哭した。


「アリー……!」


 アリーを幸せにすると誓ったのに、こんな形で死なせてしまった。少しでも苦しみを和らげるように手を尽くしたけれど、もっと出来ることがあったのではないだろか。なぜ彼女の死顔は、これほどまでに悲しげなのだろう。


「アリー、戻ってきてくれ。まだ僕は、君を幸せにしていない。約束を守らせて。こんな終わりなんて嫌だ!」

「父さん。母さんの手を離してあげて」

「嫌だ、離せ! アリー、頼むから目を開けて。もう一度、やり直させてくれ……!」


 息子から声をかけられても、マイルズは泣き続けるばかりで手を離そうとしなかった。それきり、マイルズには記憶がない。

 きっと気を失うようにして眠った後、アリーの遺体と引き離されて、葬儀が行われたはずだ。けれど、その葬儀も覚えていない。もしかすると、悲しみのあまり気が狂ってしまったのかもしれない。


 だが、マイルズの人生はこれで終わりではなかった。次にマイルズが意識を取り戻した時、マイルズは妙に懐かしさを感じる部屋のベッドで横になっていた。


「ここは……」


 アリーと長年過ごした家ではないのに、どこか見覚えのあるような部屋。一体ここはどこなのかと不思議に思いつつ起き上がり、ハッとして涙が溢れた。


「アリー……!」


 喪失の悲しみは未だ続いている。両手で顔を覆い、その手の感触にまた違和感を覚えた。


「マイルズ、起きているの?」


 そこへ不意に扉が開かれた。入ってきた人物を見て、マイルズは唖然とした。


「母さん……?」


 ずっと昔に亡くなった母が、目の前にいる。これは夢なのか。それともここは死後の国で、自分も死んでしまったのか。

 混乱していると、母親は心配そうにマイルズの顔を覗き込んだ。


「あら、泣いてたのね。怖い夢でも見たの?」


 抱き寄せられた温もりは、紛れもなく母のものだ。けれどどうにも違和感が拭えない。母が亡くなった時、十五歳だったマイルズの方が背は大きかったはずだ。こんなにすっぽりと包まれるなんて、これではまるで自分の背が縮んだようだ。

 すると固まるマイルズに、母親は優しい笑みを浮かべた。


「珍しいわね。最近は抱きしめようとすると嫌がっていたのに」

「最近?」

「そうよ。思春期だから仕方ないと思ってたけれど、十三歳でもう終わったのかしら」

「十三?」


 マイルズは慌てて立ち上がり、鏡の前に立った。目の前にいるのは、アリーを看取った六十三歳の自分ではなく、母を亡くした時の十五歳の自分でもない。

 髪は染められておらず綺麗な銀髪のままで。声変わりは終わったもののまだ少し背の低い自分の姿だった。


「寝ぼけてただけだったのかしら? もう少し抱きしめておけば良かったわ。着替えたら降りてらっしゃいね。朝ごはん、出来てるわよ」


 呆然と鏡を見つめるマイルズの背に、母親はクスクスと笑って部屋を出て行った。

 改めて部屋を見回せば、そこはマイルズが十四歳になるまで暮らした港町の家だった。


「まさか……過去に戻ったのか?」


 一体なぜ、こんな事になったのか全く意味が分からない。けれど、もしここが本当に過去ならば。


(今度はアリーを……いや、父さんや母さんだって守れるかもしれない)


 夢や幻かもしれないが、だとしてもあんな苦しみや後悔は二度と味わいたくない。不思議な出来事について考えるのは後回しにして、まずは現状を確かめた方がいいだろう。

 鏡に映るまだ幼さの残る顔に頷くと、マイルズは着替え始めた。

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