3:共に生きるために
その日からアリーは、水すら口にしなかったのが嘘のように自分で食事をするようになった。
けれどそれは、マイルズが食事を運んだ時だけだ。それから何日も過ぎても、アリーはマイルズ以外には気を許さない。それが嬉しくて堪らなくて、マイルズはより一層アリーの世話に励んだ。
「アリー、ルジェの実だよ。食べる?」
アリーの小さな部屋の中。食事を終えたのを見計らい艶やかな赤い果実を見せると、アリーは微笑んで頷いた。
普段、娼婦に出されたりしないそれは、市場へ買い出しに行った際に気の良い店主がオマケで一つだけくれた物だ。いつもなら弟妹のために持ち帰ってしまうそれを、マイルズはアリーに食べさせたいと思いこっそり持ってきたのだ。
こうして自分だけに向けられる嬉しそうなアリーの笑みは、マイルズの心を浮き立たせた。
「アリー、美味しい? そう、良かった」
皮を剥いて一口大に切り分けてやると、アリーは小さく口を開けて黄金色の果実を美味しそうに食べた。声は出せなくても、問いかければ身振り手振りで答えてくれるし、空色の瞳が喜んでいる事を充分に伝えてくれる。
自分の命をすり減らし、どうにか弟妹だけはいつか自由にしてやろうと、それだけを考えて生きていたマイルズにとって、その時間は何ものにも代え難いものだった。
そうしてアリーと関わるうちにマイルズの心は少しずつ変化していったのだが。それがどんな感情なのかは、娼館主からアリーの今後について話を聞くまで気付かなかった。
「マイルズ。新人の様子はどうだ?」
「アリーですか? 足の骨はもう少しかかりそうですが、他の怪我はだいぶ治ってきましたよ」
「そうか。なら、そろそろ客を取る日を決めるか」
ここは娼館で、アリーは娼婦にするために連れて来られたのだ。傷が治ればどうなるかなど分かっていたはずなのに、淡々と告げられた言葉にマイルズの血の気が引いた。アリーに自分以外の誰かが触れると想像しただけで、胸が焼き付くように痛む。
(まさか、僕はアリーを……)
アリーの笑顔も眼差しも自分だけに向けてほしいし、可愛らしい唇や華奢な体が他の男に奪われるなんて許せない。それは紛れもない嫉妬や怒りで、マイルズはアリーが好きなのだと思い知った。
気持ちを自覚してしまえば、放っておく事など出来ない。マイルズは一日でも遅らせたい一心で、声を挟んだ。
「あの、オーナー。アリーはもう少し様子を見た方が」
「あ? 理由は?」
「ようやく食べるようになったばかりで、まだまだ細いんです。あれだと、乱暴な客に当たったら一度で壊れます」
「そうか。なら、もう少し待つか。今年は建国祭もあるしな。祭りのオークションに出して値を吊り上げてもいい。二ヶ月もあれば充分だろ? それまでに整えておけよ」
「……はい」
どうにか平静を装い部屋を出ると、マイルズはふらつきそうになる頭を押さえた。
(あと二ヶ月か。時間はないけれど、やるしかない)
アリーを救うためには、この娼館から逃がすしかない。残り僅かな猶予で実行するために、マイルズは考えを巡らせる。
元々マイルズは、ある程度金を貯めたら弟妹を遠方へ逃すつもりでいた。というのも、弟妹はマイルズと共に使用人の宿舎である娼館の離れで暮らしているのだが、妹が成長すれば無理矢理娼婦にさせられる可能性があったからだ。
現在妹は十一歳で、弟は十五歳だ。娼館主からは弟にもそろそろ下男の仕事をさせないかと言われ始めているし、予定していたより少し早いが決行してもいい頃合いだろう。
叔父に裏切られたマイルズたち兄弟には身寄りがないが、移民だった父が懇意にしていた昔馴染みの仲間が辺境の町に暮らしていると聞いた事がある。
今もその町にいるかは分からないが、その友人は叔父とは仲が悪いと聞いていたから、もし会う事が出来れば手を貸してもらえるだろう。いなかったとしても、十五歳になった弟なら仕事を見つけられるし妹一人ぐらいは養えるはずだ。
その辺境の町へ弟妹を先に逃がしてしまえば、マイルズはアリーを連れて追いかける事も出来るし、アリーが行きたい場所があればそこへ連れていってもいい。
足の悪いアリーを連れて逃げ切れるかは分からないが、見捨てるよりずっといいと思えた。
決意を固めると、マイルズは弟妹と暮らす部屋へ帰り、二人に相談する。話を聞いた二人は、快く頷いてくれた。
「分かったよ、兄ちゃん。俺に任せて、こっちは心配しないで」
「お兄ちゃんもその女の人と後から来るのよね? 絶対よね?」
「ああ、行くよ。だから旅の準備は僕たちの分も頼めるかい? 見つからないようにしなくてはならないから、難しいと思うけれど」
「うん、やるわ!」
「二ヶ月もあるなら平気だって。兄ちゃんは彼女の所についててやりなよ。その人が元気にならないと逃げられないんだからさ」
「ありがとう。頼りにしてるよ」
あまり早くに二人を逃せば計画に気付かれてしまう。弟妹を逃がすのは建国祭の三日前とし、マイルズはアリーを建国祭当日に人混みに紛れて連れ出す事に決めた。
先の見えない毎日に、不安を滲ませていた弟妹の瞳に力強い光が灯る。成長した二人の姿に、マイルズは五年の苦労も無駄ではなかったと感じるのだった。