30:「好き」
「……お嬢さん?」
表通りの街灯に火が灯る頃、裏口からマイルズが出てきた。薄暗い裏路地にまさか人がいるとは思わなかったのか、マイルズは驚いた様子でアルテナを見つめた。
(あっ……。もしかしてわたくし、怪しまれてる?)
目を見開き固まったマイルズを見て、今さらながら待ち伏せする女など気持ち悪いと思われたらどうしようと、アルテナは焦る。
手紙を握りしめたまま視線を彷徨わせたアルテナに、マイルズは少し怒ったように歩み寄った。
「こんな時間にこんな場所で何をしてるんですか。危ないでしょう。護衛の方は?」
マイルズは自分の外套をアルテナに羽織らせると周囲を見回した。
(もしかして心配してくれてるの? ああ、でも失敗したわ。恥ずかしくても連れてくるべきだった。淑女らしくないと呆れられたかもしれないわ)
普段は穏やかなマイルズの声が、いつもより低く緊張して聞こえる。アルテナは怒らせてしまったと肩を落としつつ、質問に答えるべく緩く頭を振った。
「護衛も付けていないんですか? どうしてこんな……それは?」
マイルズはアルテナが握っていた手紙に目を落とした。アルテナはハッとして俯き、胸に手紙を抱き込んだ。
(どうしよう。こんな状態で渡して嫌われたら……)
渡すために用意してきたというのに、不安でアルテナの手は動かない。
するとマイルズは困ったように小さくため息を漏らし、軽く屈んでアルテナの顔を覗き込んだ。
「僕に何か仰りたい事があったのでは? それとも、その手紙はうちの父にですか?」
(違うわ! これはあなたに、あなたにだけ……!)
アルテナは声を出せないまま、ブンブンと頭を振った。何か言わなくてはと思うほど呼吸が浅くなり、目に涙が滲んでくる。
するとマイルズは何かを堪えるように口を引き結び、ガシガシと頭をかいた。
「このままじゃ、門限も過ぎるでしょう。寄宿舎まで送りますよ」
先ほどまでと違い、マイルズは穏やかな声音で告げると、そっと背中を押してきた。羽織らされた外套から、前の人生でもマイルズが好んでいた香水の優しい香りが漂う。
懐かしさとマイルズの温もりを感じて、震えていたアルテナの心に小さな火が灯った。
(ここまで来て、このまま帰るの? これを逃したら、もう二度と言えないかもしれないのよ。本当にそれでいいの? しっかりするのよ、アルテナ!)
このままではいけないと、アルテナはありったけの勇気を振り絞る。そうしてシワシワになってしまった手紙を、マイルズに押し付けた。
「僕が読んでいいんですか?」
驚きつつも受け取ってくれたマイルズに、アルテナは顔を真っ赤にしながら何度も頷いた。
(そうよ! あなたに読んでほしいの!)
さすがに目の前で、手紙の反応を見る勇気はない。心の中で叫びながら背を向けて、アルテナは寄宿舎へと駆け出そうとする。
しかしその瞬間、マイルズが後ろからアルテナを抱きしめた。
「中身、読まなくても分かりますよ。でも僕は平民です」
耳元で囁かれた声に、アルテナの鼓動が跳ねる。涙目でそっとマイルズを見上げると、マイルズは苦笑を浮かべていた。
「お嬢さんは分かりやすいですから。僕がどれだけ我慢してたか、知らないでしょう?」
それではまるで、マイルズも好きだと言ってるようなものではないか。優しく落とされた言葉が、アルテナの胸にじわじわと染み込んでいく。
(期待してもいいの? 本当に?)
アルテナが呆然としていると、マイルズは前の人生の時と同じかそれ以上に熱の籠った眼差しでアルテナの前に跪いた。
「お嬢さん、僕はあなたの名前も知らない。でもあなたが貴族のご令嬢なのは分かります。僕ではあなたの隣に立てない。それでも僕を求めて下さるんですか」
告げられた真摯な言葉に、なんて事だろうとアルテナは思った。マイルズはアルテナに惹かれなかったわけではなく、身分差に苦しんでいたのだ。
(そうだったのね。今のあなたは、わたくしの気持ちを聞かなければ動きたくとも動けなかったんだわ。本当にあなたは、またわたくしを……)
アルテナを見つめるマイルズは、かつてアルテナを愛した時と同じ顔をしている。だからアルテナは勇気を出して、震えながらも口を開いた。
「わたくしはアルテナといいます。あなたが好きです、マイルズ様」
人生二つ分の想いを込めてようやく告げた言葉は、とてもか細い声だったけれど、マイルズはきちんと聞き届けてくれた。
「アルテナ……やっぱり可愛らしい声だった。あなたに会った時から、ちゃんとあなたの声を聞きたいと思っていました」
「ちゃんと……?」
「あの時はたった一言、はい、としか聞けませんでしたから」
二年前、マイルズに初めて会った時、アルテナは涙混じりにほんの小さな「はい」という一言を漏らしていた。どうやらそれを、マイルズは聞き逃さずにいたらしい。
「あれを覚えていてくださったのですか」
「もちろんです。僕はそれぐらい、あなたに夢中だったんですよ。僕もあなたが好きです、アルテナ」
「マイルズ様……」
アルテナの瞳から喜びの涙が溢れ出す。マイルズはアルテナの涙を指先で拭い、嬉しそうに笑って唇を重ねた。
時を越えて再び感じられた愛しい温もりに、アルテナは歓喜で満たされていった。




