3:マイルズとの思い出
異国に連れ去られ娼館に売られる中で、アルテナは過去と名前を奪われ「アリー」と名を変えさせられた。商品価値があるからと純潔にこそ手を出されなかったものの、逃げ出そうとすれば殴られるし、助けを求める相手もいない。父親も追放した娘が消えたからと、わざわざ探しはしないだろう。
絶望したアルテナは人間不信に陥り、食事を摂る事さえ拒否していたが、そこへ甲斐甲斐しく世話してくれたのがマイルズだった。マイルズは娼館の下男として働いていたのだ。
アルテナより三歳年上で当時二十歳だったマイルズは、若い盛りの男性にしては痩せ細っており、苦労が滲み出たような姿をしていた。亡くなった両親の代わりに弟妹を養っていたため、貧しい暮らしをしていたからだった。
そんなマイルズは、アルテナにどれだけ拒絶されても諦めずに何度も優しく語りかけ、辛くとも生きていくよう根気強くアルテナを諭した。
その献身的な関わりは冷たく凍り付いていたアルテナの心を溶かしていき、衰弱して死にかけていたアルテナは少しずつ動けるようになっていった。
そうしてだいぶ回復すると、ついにアルテナの処女を売るという話が出てきた。この頃には、アルテナも生きるためには仕方ないと諦めつつあったが、そこからまたマイルズが助け出した。マイルズは弟妹を先に地方へ逃すと、誰に買われるのかと不安になり泣いていたアルテナを連れて逃げたのだ。
だが娼館を離れ自由の身になっても、アルテナはもはや過去をないものとしていたから、グラナダ王国に帰る気は起きなかった。
するとマイルズは、アルテナの過去も本名も気にする事なくアルテナの前に跪き、新しい未来を二人で作っていかないかと愛を告白してきた。
まだ恋を自覚したわけではなかったが、アルテナもマイルズを憎からず思っていたため、差し出されたその手を躊躇なく掴み、オルレア王国の端にある田舎町まで落ち延びた。
マイルズの弟妹以外、二人を知る者が誰もいない田舎町で、アルテナとマイルズは結婚した。そしてマイルズは僅かばかりの蓄えを元手に商人となり、アルテナの支えと大きく育った弟妹の助けも借りて少しずつ成功していった。
二人で手を取り合い作り上げた結婚生活は、これまでのアルテナの人生と違い、温かく穏やかなものとなった。救われたアルテナがマイルズに深い愛情を抱くまで、そう時間はかからなかった。
多くの子や孫に恵まれ、小さな幸せに溢れた日々は、今もハッキリと思い出せる。
愛する家族に看取られて死を迎えた瞬間もありありと脳裏に浮かび、残してきてしまったマイルズの悲しみを思うと胸が張り裂けそうだ。
そんな、夢にしては妙に生々しくあまりに長い記憶を思い返し、アルテナは自分が間違いなくあの人生を過ごして死んだのだと確信していた。
「なぜこんな、時が戻るなど……。いえ、待って。もしかしてこれは、神様がわたくしの願いを聞き届けて下さったとか?」
色々あったが、マイルズと出会ってからは幸せな人生を送れたと思う。だがアルテナには一つだけ心残りがあった。何もかもを失った自分を心から愛してくれたマイルズに、一度も「好き」と言えなかったのだ。
死の間際にアルテナは、『出来ることならこの人に好きと言いたかった』と思いながら息を引き取っていた。それを思えば、過去へ戻るなど到底信じられないし不可解な出来事ではあるが、好都合だとも思えた。
「理由なんて分からないけれど、どうでもいいわ。わたくしがやりたいことは一つだもの」
なぜこうなったかなど、いつまでも考えていても意味がない。それよりせっかく過去へ戻ったのだから、これを活かさない手はないだろう。
アルテナは、最後の望みをぜひとも叶えたいと思った。