1:たった一つの心残り
二ヶ月前に日間総合ランキング1位となった短編の連載版です。
大筋は短編と変わりませんが、エピソードを大幅に追加していきたいと思います。
甘々目指して書いていきますので、よろしくお願いします!
「アリー、アリー。頼む、逝かないでくれ」
ヒュー、ヒューと浅い息を吐くアルテナの耳に、愛しい夫マイルズの懇願が響く。
年老いても出会った時と変わらない声に返事をしたかったが、もはや指一本動かせないほどアルテナの命は消えかけていた。
(マイルズ……わたくしが死んでも子どもたちがいるわ。だから、あなたを置いて逝くわたくしを許して)
涙を湛えたマイルズを霞む視界で見つめながら、アルテナは心の中で語りかける。
痛みを和らげる甘い香りと、独特な薬品の匂いが入り混じる部屋には、アルテナが横たわる寝台を囲むように子どもや孫たちも揃っていた。
アルテナは、まさか自分の死に際がこれほど穏やかなものになるとは思っていなかった。
今から四十三年前、十七歳だった頃に、アルテナは過去と共に名前を捨てざるを得なくなり、アリーと呼ばれるようになった。その頃のアルテナは、絶望に打ちひしがれて生きる気力すらなかったのだ。
そんなどん底まで落ちたアルテナを救い出したのがマイルズであり、家族の温もりを与えてくれたのもマイルズだった。アルテナはマイルズがいたからこそ、六十歳を迎えるまで生きる事が出来ていた。
マイルズには感謝してもしきれない。波瀾万丈な人生ではあったけれど、最終的に幸せだったと思えるのはマイルズがいたからだ。
だからこそ、愛する夫を残して逝くのが辛くて堪らない。けれどそれ以上に、アルテナの胸を大きな後悔が占めていた。
(出来ることならこの人に「好き」と言いたかった)
態度ではもちろん示していた。マイルズからは毎日のように「好きだ」「君を愛してる」と気持ちを伝えられたから、その度に喜びを持ってそれを受け入れてきたのだ。
けれどアルテナは、自分から積極的に動く事はなかった。それはかつて公爵令嬢として生きていた頃に教え込まれた、「女性から気持ちを伝えるのは、はしたない事だ」という価値観を捨てきれなかったからだった。アルテナは常に受け身で、言葉だけでなく手を繋ぐ事すら自分からした事がなかった。
「アリー、愛してる。僕のアリー」
骨と皮だけになったような痩せ細ったアルテナの手を、マイルズは縋り付くように握っている。
逝くなと全力で訴えてくる夫に、アルテナは何一つ反応を返せない事が歯痒くて堪らなかった。
(マイルズ……。きちんと気持ちを伝えてあげられなくて、ごめんなさい)
力を失くした瞳が閉じて、ほろりと一筋、涙が溢れ落ちる。愛する夫と家族に見守られる中、アルテナはたった一つの後悔を残して、六十年に渡る生涯を終えた。
――はずだった。
「これは……どういうことですの?」
永遠の眠りについたはずのアルテナは、なぜか目を覚ましていた。そこは、かつてアルテナが暮らした公爵家の自室だった。
*今後の投稿スケジュール*
今日はこの後、もう一話投稿します。
明日は、朝と夜の二回更新。
以降は、一日一回の毎日更新をしていく予定です。
よろしくお願いします。