スライムとシュン3
「試合できる?」とキリエが聞く。
シュンが、「おー…」と気怠げな返事を返す。
これが最近のルーティンだ。
初めこそ試合というより死合の様相で、見ている側はハラハラさせられたが、互角に渡り合える人間と出会ったことが彼の何かを変えたのか、キリエの《死合》は《試合》に変わっていった。今は当初のような殺気は無い。ほとんど。
彼は毎日シュンに試合を申し込む。シュンはちょっと面倒くさそうにしながらも、そこそこの頻度で付き合う。傍目に見れば二人の関係は良好なようだった。
その日もいつもの手合わせが終わり、シュンが「みず……」と言い残して這い蹲った。
勝率は四六でキリエが勝ち越している。あのキリエに四割の確率で勝てるだけ健闘していると思うが、フィジカルはどうしてもキリエが勝るので、手合わせが終わるたびシュンは毎度這々の体になっている。
「随分懐かれたね」
水を手にDが言う。シュンは首を傾げた。
「懐かれてるのか? これ」
確かに気づくと後ろをうろうろしていることが増えたが。
シュンは水を受け取って飲み干した。
「それもあるけど。よく話してるじゃん?」
言われてみれば思い当たる節はある。
しかしそれはDが思っているような理由ではなく、単純に二人の役割が五人の中で最も近く敵と相対するものだったからだ。
これは強い弱いの話ではなく、戦闘スタイルの問題で、二人は共に近接攻撃手だった。それと気づいてから、互いの動き方、考え方、集団戦の運びなど、自ずとポツポツ擦り合わせることが多くなったのだ。
実は二人とも、これは初めてのことだった。
というのも、互いにワンマンかつ絶対的な主砲であったから、今まで周りが彼等に合わせていたのだ。
しかし今の人数では、それで解決できない時が来る。仲良くしろとは言わないが、互いに最大限の仕事をしなければ死ぬ場所だ。
という説明をわざわざするのも面倒なので、シュンは「別に仲良くはない」とだけ答えた。
「そんなことより、スライムの件は?」
「あー…一応遺跡に残った手記やら、写本した魔術書は確認したんだけどね。どうも普通の伝達魔術じゃないみたい」
「最初から普通じゃなかったろ」
「まあ効果はそうなんだけど……そもそもの目的が。これがちょっとややこしくて」
「目的?」
「おそらく正確には意思疎通じゃなく意識の統合。古い魔術だから、言葉を正確に汲み取るのも難しいんだけど。言葉の多くが啓蒙……導く光/連帯/偶像の共有。パスは十二と三の宮を通り、親和は水風地、四肢のサイン──」
「わかった。いい。わからない」
「? どっち」
「俺には解らないことが解ったって話だ」
途中から説明ではなく、開いた頁の解析に移行したなと思った時点で聞く気は失せた。シュンは首を横に振る。
Dは詰まらなそうに頁を閉じた。
「シュンくんてほんと実戦的な魔術以外興味ないよねえ」
「正確には魔術に興味がない、だ。対策として頭に入れる以外はな」
この頃シュンの目に入る魔術は全て、殺しの道具で一つの兵器だった。Dは魔術を面白いものとして時折語ったが、そういう訳だから、シュンはあまり魔術自体にいい印象がない。現に被害に遭っている訳だし。
シュンはDの手から逃れ、腕の中に飛び込んできたスライムを見て溜息をついた。
「これも懐かれてる、って言うのか?」
「これは違うね。シュンくんを自分の一部として認識してるんだと思うよ。分裂したスライムは離れていても片割れがどこにいるかわかるし、元が同じ個体なら引き寄せ合う性質がある」
「俺も分裂したスライムの一体ってとこ?」
「コイツの中ではそういう認識なんでしょ」
シュンくんの方がよくわかるんじゃないの? とDが尋ねる。シュンは首を捻った。
「コイツの思考のことか? そこまで細かいことは解らない。俺に伝わってくるのは大まかな……《本能》みたいなもんだろうな。《食欲》《警戒》あとは好きか嫌いかぐらい。それがこの呪いの限界なのか、そもそもスライムがそれくらいしか思考しないのかはわからんが」
「じゃあその程度はスライム側にも伝わってると考えた方がいいよ。だからキミに危険が及ぶとその敵を攻撃しようとする。キリエくんによく向かってくのはそれだね」
「迷惑なんだが」
「ならその時々で来るなと言っておけばいいんじゃない? 見る限りキミの言うことは聞くようだし」
「従魔みたいなもんか?」
「いや。どうやらキミの意志と自分の意志を混同してるようだ。キミの思考を自分の思考と勘違いしていると言い換えてもいい」
「俺の側にそれが起きないのは?」
「こればっかりは推測だけど。キミの思考が共同体の中で上位に優先されてるんじゃないかな。可能性として、生物としての情報量の多さや思考の複雑さによってこの順位づけはされてるのかもしれない。そう考えるとスライムで良かったね」
「……つまり?」
「もっと思考や生物としての機構が複雑な生き物と繋いでたらシュンくんの自我が乗っ取られてたかもしれない」
「マジでお前……」
シュンは重い溜息を吐いた。
そこで後ろから、「これ。キリエ様に持って行って」と朴木の葉にくるんだ木の実と肉を押し付けられた。アニスである。
「アイツ何処行ったんだよ」
「たぶん、また見廻りよ。彼、誰より周りを警戒しているし」
「自分で取りに来させりゃよくない?」
「呼びに行くなら同じ労力でしょ。それにちょっと休ませてあげないと……無理していないか、心配だわ」
「アイツが勝手にやってることじゃん」
「でも調子を崩されたら困るでしょう?」
それに関してはぐうの音も出ない。
この寡兵の中、一人でも欠ければ大きな痛手であるし、それでなくとも戦場にあの男は必要だ。なんでかってべらぼうに強いから。
「……行ってくる」
シュンは重い腰を上げて、スライムをいつものようにアニスへ預けようとした。
が。それを見たDが、「行動制御するためにも、戦闘時以外は近くに置いといたほうがいいんじゃない?」とシュンを止めた。
「邪魔なんだけど」
「邪魔じゃない形になってくれたりしないの?」
シュンはスライムを見た。スライムは目がどこにあるのか、そもそも目があるのか、今これは目が合っているのか、なんにも解らないが。とりあえず見つめたまま、「持ち運びやすくなれるのか?」と尋いた。
すると、スライムはまるで言葉を理解したようにスルスルと形を変え、指貫のアームガードに姿を変えた。
「……えぇ」
「確かに防具の一つになってりゃ持ち運ぶ必要もないね〜」
わはは、とDが笑う。腕はどうしても防御で使い易い部位なので、そこに弱点が居るのは怖い気もするが。まあ戦闘時以外ならいいか、とひとまず好きにさせて、シュンはキリエを探しに木々の間に分け入るのだった。
キリエは割と直ぐ見つかった。
「姫さんが飯だって。戻ってこい」
「その手にあるのは飯じゃないの?」
「あと休ませろって言われた」
「必要ない」
「お前に必要かどうかじゃなく俺が命令を受けたの。だから俺はお前を昏倒させてでも休ませなきゃいけないの。わかる?」
そう言うと、キリエは黙った。
先日の勝負でシュンに負けてから、彼は心なしか言うことを聞くようになった。意外なことだ。いつもの手合わせではこちらの方が負け越しているというのに。手合わせを断るとあからさまに不機嫌になるので、決して従順になったわけではないが。
シュンはキリエに食糧を渡して、自分の分の果実を齧る。
キリエがそれを見て同じ果実を取り出したが、次の瞬間、驚くべきことが起こった。
彼の手から果実が一瞬にして消え、見上げるとでかい鷹だかトンビだかがそれを持って空を駆けていった。残されたキリエはキョトンとして、ただ固まっていた。
「……」
「……ふ、」
思わずシュンの口から空気が漏れた。面白すぎる。遠目に見る鳥は魔物でもなんでもない、ただの鳥だった。魔力の影響か、巨大化はしているが。それがよくも当代最強と言われる男の手から獲物を掻っ攫えたものだ。いや。だからこそ出来たのだろう。魔物であれば魔力でこの男は察知する。弱いからこそ警戒の外だったのだ。鳥だって、それが出来る度胸がなければ、この環境では生きていけまい。
相手が魔物であれば追って斬り伏せただろうが、そうではないから、キリエはのろのろと自分の手元を見て、空を見て、途方に暮れたような、理解出来ないような顔をしていた。それがまた面白かった。
「……ほら」
「?」
「ぼうっとしてんな」
半分になった果実を分けてやると、キリエはまた不思議そうな顔をした。魔物や戦闘が絡まないと反応の鈍い男だな、とシュンは首を傾げる。
来た道を戻りながら地形を把握していく。先に進むにはどうも崖を越えるか、迂回する必要がありそうだ。
お互い饒舌な方ではないし、沈黙は苦ではなかったが、不意にキリエが口を開いた。
「そういえば、ルートはどうやって選んでるの?」
「さあ? 地図も無いし。ディーとロウがどうにかしてるけど」
「じゃああの男、偶然人がいる村に着かなきゃ、死んでたかもしれないんだ」
運がいい、とキリエが言った。
あの男、というのが誰のことかは明白だった。シュンは果実を呑み下し、「まあな」と答える。
「基本的に道を決めるのはロウだし」
「あの男は村があること知ってたの?」
「まさか。ディーやアニスが助言はするけど、あんま深く考えてないと思うぞ」
「……それでずっと着いてきたの?」
「ああ。あいつの考える策は大抵へぼだが──」
シュンは笑って、キリエを見上げた。
「アレの判断だけは、信じていい」
その天運だけで、悪夢みたいな王宮も、悪夢だった戦場も、生き残ってきた第二王子だ。
「俺たちが五人で森に取り残されたとき、お前を連れて行こうと言ったのもロウだ」
「シュンは?」
「反対した」
「戦力になるから連れてこられたんだと思った」
「逆だ。お前が強いことは分かってた。だからいざという時、裏切られたら面倒だと思った」
「結局俺が同行してるのは、四人がかりなら抑えられると思ったから?」
「いや。長く過ごせば一対一になる時もあるだろ。今みたいに」
そこを狙われたら数は意味がない。
シュンが肩を竦める。
「俺は、ロウの判断を信じただけだ」
そこで視界が開け、森の中から空き地に出た。今夜の寝床である。
「お! キリエたち戻ったか。飯は?」
「食いながら戻ってきた」
「夜は冷えるからスープを作ったらしい。アニスが」
「ロウ、食材を無駄にするなと姫さんに言っといてくれ」
「俺はまだ死にたくないから……二人共なんの話してたんだ?」
ロウが尋ねて、とりとめもない話をしながらその日は終わった。随分調子を取り戻したようで、元気そうな姿にシュンもホッとする。
油断できる場所ではないが、味方同士は打ち解けて来たように見えるし、戦闘は頻繁に起きるが、目立ったトラブルもなく、最悪の戦場でも道程は比較的順調にいっているように思えた。
#
この面子、この場所で、トラブルが起きないわけがなかった。
「ぁ……」
「…………」
ある日の夕刻前。獣か食べられる木の実を探して森の中を彷徨いていると、草叢の影に子供を見つけた。
子供は顔を覗かせたシュンを凝と見て、今にも泣き出しそうな顔で震えていた。
浅黒い肌に金の瞳。体内に渦巻く魔力。──人ではない。
「……ぁぅ……ヒッ……」
「……どっか行け」
ついに泣き出した子供から目を逸らし、シュンは草叢から離れようとした。
しかし、すぐ後ろで、「何か見つかったか?」と問う声がして振り返った。
──ファジュルだ。村で新しく仲間に加わった酔狂な男だった。
「……いや。食えそうなもんはまだ見てない」
「こっちの方から草が揺れる音がしたから、獣か何かいるのかと思ったけど」
「耳がいいな」
それはシュンも同じだ。気配がしたから覗き込んだ。あいにく獣じゃなかったけれど。
「獣じゃなかった」
「なんだったんだ?」
男が凝とシュンを見た。
魔力もないのに、目ばかり力が強い。苦手なタイプだった。
男の大きな緑の目は、真っ直ぐシュンを見つめてくる。ただそれだけなのに、睨まれているより居心地が悪い。
「獣じゃないなら、なんだったんだ?」
男が再度尋ねた。
シュンは思わず視線を横にずらした。
同時に、背後の草叢が大きな音を立てる。
「ッ! オイ、あれ……」
シュンの背後を、子供が駆けていく。
その姿を追って、男の目が今度こそ鋭くシュンを射た。
「オマエ、魔族を逃がしたのか?」
「逃がしたわけじゃねえ。追わなかっただけだ」
「じゃあオレが今から追って殺す」
「おまえ魔力使えないだろ」
「ガキぐらいなんとかなる」
追おうとする男の肩をシュンが掴んだ。「ッ邪魔すんな」と男が腕を振り払おうとするので、思わずシュンは男を殴った。「あ、」と抜けた声が出る。軽く叩いただけのつもりだったが、男は吹っ飛んで地面に倒れた。
「テメェ!」
男がシュンを見上げて怒鳴る。頬は腫れてはいるが、意外と元気そうだ。内心ホッとした。
「一人で追っても、他に魔族がいたら犬死だ」
「構わない。逃がすくらいなら戦って死ぬ」
「…………」
シュンは空を仰いだ。──だから苦手なのだ、この手のタイプは。
力に見合わぬ覚悟のある連中は、総じて理屈が通らない。
命よりも矜持を取るのだから、シュンには解らぬ理屈だった。
「何してるの!?」
騒ぎを聞きつけてか、アニス達が野営地の方からやってきた。
あ。また怒られる。と思ったシュンが、なんと説明すべきかグルグル考えている間に、ファジュルが「この裏切り者が……ッオマエ、魔族なんか逃がしてなんのつもりだ!?」と叫んだ。シュンはあまり口が上手くないのでこういうときいつも出遅れて怒られる。
「……逃がした?」
しかし、アニスよりいち早く反応した男がいた。
「魔族を逃がしたの?」
キリエだ。
キリエはシュンの前に立ち、そう言った。
その放つ圧に驚いたのか、さっきまでキレ散らかしていたファジュルも、黙って二人が相対するのを見つめていた。
「……逃がしたんじゃねえ。追わなかっただけだ」
シュンがもう一度、さっき言った言葉を繰り返した。
「なら、俺が追って殺してくる」
まだそう遠くないはずだ。キリエの視線が、魔族の子供の駆けて行った方に違わず向けられる。ファジュルには無理でも、この男なら気配で追って確実に殺せるだろう。
「待て」
踏み出そうとするキリエの背中を、シュンが止めた。
「……ガキだった。わざわざ殺す必要もない」
キリエが振り返る。
「何言ってるの? 殺す必要がない魔族なんていない」
「戦場に立ってりゃそうだが。今俺たちは食糧探しに森を彷徨いてるだけ。あっちもそうだろ。時間の無駄だ」
「それは殺さない理由にならない──行って俺が殺す」
キリエが駆け出そうとした。
「──追うなら止める」
シュンが背中の剣を抜いた。
普段の手合わせでは使わない。それは殺すための道具だ。
その殺気に、キリエが振り返った。振り返って、キリエも剣を抜いた。
「待って!」
アニスの止める声がする。
皮肉にも、それが開戦の合図となった。
先に動いたのはキリエだ。
力に任せた横薙ぎ。単純な動きも、シュンの腰幅もある剣の重さに、風を切る音が遅れてくるような速度が合わされば、重力を無視した断頭台となる。
シュンは正面から受けることはせず、片足で跳び上がった。背中の下を剣が通り過ぎる。
力での勝負になれば、シュンがジリ貧だ。彼女はきっとキリエの剣を受け止められるが、それは魔力による身体強化に過ぎない。キリエの体力が尽きるのが先か、シュンの魔力の底が見えるのが先か。分の悪い勝負になることは間違いなかった。
左足で着地し、右足で地面を蹴る。体を捻りながら跳び上がり、上段の後ろ回し蹴り。シュンの速度に、振り抜いた剣は到底間に合わない。が、しかしキリエは身の丈ほどの大剣を片手で振り回す化け物である。危なげなく左腕でシュンの脚を受け止めた。
シュンも勿論それを見越して、更に半身を捻り、右手に持った直刀を遠心力のままキリエの首に突き立てる。
が、これは後ろに飛んで避けられた。反動でシュンも弾かれる。
着地。そして間を置かずの接敵。
互いの剣が重機のような音を立てぶつかる。鍔迫り合いはシュンがさせなかった。キリエが力を込めれば受け流され、その隙にシュンの拳や蹴撃が迫る。魔力で強化されたそれは最早兵器と変わりなく、場合によっては剣より厄介だ。だからキリエも、無理に力の勝負に持ち込もうとはしなかった。
ここ数日の手合わせで、二人は互いの癖を十分に把握している。相手が何を得意としているか。どんなシチュエーションなら有利になるのか。
唯一、馴染まないものがあるとすれば──
「うおっ」
衝突の瞬間、キリエが思いきり剣を打ち上げた。並大抵のことでは体勢を崩さないシュンも、人外染みた膂力にそれをやられて、一瞬身体が浮きそうになる。
それはまさしく、拮抗した糸の一瞬の綻びだった。
「武器に集中しすぎじゃない?」
声は、シュンの耳には届かなかった。
キィーーンと耳障りな音が響き、目の前に星が散る。
首が取れるかと思うほどの衝撃。視界が一瞬で白くなり、次いで闇に包まれる。
剣を打ち上げれば勿論、シュンに隙が出来たのと同様、キリエの剣も上に流れるわけだが。
その瞬間、キリエの拳がシュンの頬を殴り抜いたのだ。
「……ッ」
天地が逆さになったような感覚の中、経験だけがシュンの身体を動かした。
肌を殺気が焼く。考える間もなく首の前に剣を構えていた。同時に、鉄の打ち合わさる衝撃が走る。その力を殺さず、後ろに飛んだ。
その頃やっと視界が戻ってきて、何が起きたかも把握した。この程度で済んだのはシュンの魔力操作が人並み外れていたからで、常人が食らっていれば本当に頭が飛んでいただろう。
キリエの口が動く。シュンはそれを横目で睨んだ。
瞬きのうち、キリエは己の身体が勝手に動くのを感じた。戦場ではままあることで、野生の勘のようなものである。
ガキン、と音がする。
キリエは剣を受け止めていた。それは彼の意図したことでなく、偶々構えたところにシュンの攻撃が降ってきた──つまり、速すぎて何も見えなかったのだ。
「よく聞こえねぇな……」
先ほどまでの動きが嘘のように緩慢な動作で、シュンが首を横に振る。
「おまえのギフテッド、剣には適用されねぇんだ?」
キリエは、シュンを押し返す形で弾き飛ばした。
すると再び姿が消える。キリエは舌打ちした。距離を取らないほうが良かったかもしれない。しかし、来ることが解っていればどうにかその軌跡を目で追うことが出来た。──辛うじて。
キリエは、暈り記憶の引き出しを開けた。
シュンを指す名の一つを思い出したのだ。
──《沈黙の支配者》
という、異名の由来をシュンは知らない。
シュンの通った後に彼女以外動くものがなくなるからだとか、一瞬にして戦場から声が奪われ、悲鳴を上げる間もないからだとか──そんな根も葉もない噂により、戦場で《シュン=イル・ディエス》は、時を止める魔術を使うのだと、まことしやかに囁かれていた。
馬鹿々々しい──シュンは思った。
シュンは風属性だ。魔術は使えないし、特別な力もない。
ただ、人より少し自身の肉体を掌握しているだけ。
彼女の戦いはいつだって原始的で、その身一つに拠るものであった。
シュンの気配を捉えたキリエは、剣を振り下ろした。
そして目を瞠った。
シュンはキリエの剣を、脚で受けとめていた。
「手合わせのときより弱くなったか?」
ペッ、とシュンが血の混じった唾を地面に吐き捨てる。
一瞬の内に、キリエの剣が砕けた。
何が起きたか分からなかった。驚いたキリエの動きが止まる。
奇しくも時を同じくして、シュンは彼女の意志と関係なく、身体の自由を奪われていた。
「──そこまで」
シュンの殺気が消える。
キリエが見上げると、その顔は悪戯が見つかった子供のようにバツが悪く、そしてウンザリしていた。
声と同時に、地面には金色の光が幾筋も走り、複雑な紋様を描いて二人を包んだ。
キリエはシュンに一足遅れて、自分の身体がピクリとも動かないことに気がついた。
辛うじて動く視線をシュンの背後に向けると、Dが地面に短剣を突き刺し、こちらを睥睨している。光はそこを起点に起こっているようだ。
「くだらない内輪揉めに無駄な魔力使わせないでくんない? オマエら止めるのに何重の術式敷いたと思ってんだよ」
どれだけ力を込めようと、縫い止められたように腕が動かない。シュンもそれは同じで、しかし抵抗が無意味なことを知っているのか、ただキリエを避けるように視線を落としていた。
「シュンくんの言い分はワガママでしかないの解ってる? こちとら戦争してんだわ。ガキだからって逃がす理由は無いワケ」
「……」
「キリエくんはその脳直行動どうにかしろ。戦闘力ない魔族なんてこの場で追う価値無いでしょ。それより野営準備中に離れられて消耗される方が無理なんだけど。解んない?」
「……」
「姫様から何かありますー?」
呼ばれて、アニスが溜息を吐く。
「二人とも、頭を冷やしなさい」
「……」
「特にシュン。今私たちがどこにいて、何をしているか解ってるの?」
「……」
「味方の武器を叩き折るって、何を考えているの」
「……」
「……あとの話は、手当てしながらにするわ。シュンはこっちに。キリエ様は目立った傷はないようですから、剣のことはディー様に相談していらして。よろしいですか?」
「はーい」
アニスの問いにDが答えると同時に、魔力光が消えた。身体が元通り動くようになる。
キリエはDに呼ばれ、シュンはアニスに腕を引かれた。
「……聞こえる?」
「え。ああ……この距離なら」
黙っていたせいか、アニスにはバレたらしい。何か話しかけられていたのかもしれないが、身動きできない状態で背後にいるアニスの唇を読むことはできない。
シュンは肩を竦めた。
「ちょっと鼓膜破れただけ」
「……そう。じゃ、直してからお説教ね」
「うえぇ……」
相手は無傷で、こちらは殴られて頬を腫らしているのに、己はこれから怒られるらしい。
シュンはしょげた顔で天幕の中に引きずり込まれていった。
ロウは一人天幕の外で友の無事を祈った。
魔族と戦う前にもしないことだった。




