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貴族の子供に勉強を教えるというのは、大変苦労するのが一般的だ。
嫌がる子供に逃げられたり、教え子に虐められて辞めさせられる家庭教師もざらにいる。王都には芸事を嫌い、授業を抜け出し、剣を振り回す御令嬢なんかもいるそうだ。
苦労話の絶えない職だった。
無論、マリーもそれを承知でガヴァネスとなった。
《ハイネンヴァルト》は、代々国に仕える騎士を輩出してきた由緒正しき武闘派侯爵家である。
そしてマリーの受け持つ少女──《キッカ・ハイネンヴァルト》は、そんな家系の四人兄妹の末っ子として生まれた。
夫人とよく似た愛らしい容姿。詩歌と刺繍、自然と動物、そしてお洒落をこよなく愛する、絵に描いたようなお嬢様だ。
それを聞いたマリーはまず、どんなワガママ娘が出てきても、根気強く付き合っていこう、と覚悟した。
それがどうだ。
キッカ様は、一般常識に逆らうような、たいへん手のかからない娘であった。
素直で、意欲的で、逃げ出すこともなく、とても教えやすい。
教えやすい、のだが……
「キッカ、お母さまのアップルパイだぁい好きだからぁ、アップルパイの詩作る〜!」
──何事にも表と裏があるように。彼女の場合、言ってはなんだが、やる気に反して出来に難があった。ありすぎた。
幾らマナーを詰め込んでも、どこからか零れ落ちているような手応え。センスを必要とする詩歌は勿論、貴族社会で必要最低限の立ち振る舞いですら、いつまで経っても五つの子供と変わらない。
そしてその舌足らずな声に、もう一人の声が応えた。
「やだぁ〜! うれしぃ〜! でもぉ、お母様はぁ、キッカちゃんの方がもぉ〜っと好きぃ〜!」
──完全にこのご夫人の影響というか、遺伝な気がする。
マリーは内心、溜息をついた。
これこそ、目下最大の悩みの種である。
お嬢様と同じく──いや。正しくは、お嬢様が彼女に似たのだろう。外見だけ見れば、まさしく深窓の令嬢然としたこの御夫人、名を《ロッカ・ハイネンヴァルト》という。
キッカの母であり、ハイネンヴァルトの侯爵夫人である。
彼女はつい先ほど、「あのねぇっ、キッカちゃんに食べてもらいたくってぇ、お母様アップルパイ焼いてきちゃったぁ〜!」とはしゃぎながら、勉強中のお嬢様の部屋に乱入してきた。
町娘でも、平時はもう少し淑やかなんじゃないかと思う。
無論、それを口にするほど馬鹿ではないので、マリーは、二人の邪魔にならないよう、早々に離席しようとテーブルの上を片付け始めた。
しかし、夫人がそれを見て首を傾げた。
「マリーさんも一緒に来るわよね?」
「えっ? いえ私は──」
「……来てくれないの……?」
「よろこんで」
ベイビーブルーの瞳を伏せて、しおしおと切なげな顔でお願いされれば、並の人間は断れまい。
どこもかしこも色素の薄い彼女は、ともすれば娘以上に儚い印象を与えた。
(──それに彼女は、キッカ様と違って、自分の魅せ方を良く知っている)
役職的には上級使用人の一人とはいえ、本来なら、ただの雇われ使用人であるマリーが、主人のティータイムに同席するなんて以ての外である。
が、この屋敷の使用人はその手の非常識に慣れているし、夫人に誘われたと言えば、執事もお目溢しくださるだろう。
それを見越して了承した。怒られると解っていたら、流石にどうにかして断った。
お茶の用意があるという東屋まで、夫人に先導され、回廊を進んでいく。
その間、夫人の手は、お嬢様と仲睦まじく結ばれていた。
ハイネンヴァルトの屋敷は侯爵邸のわりに質素な佇まいだが、それでも中流貴族の屋敷と、規模は比べものにならない。
必然、働く人間の数も多くなるし、それなりの数の使用人とすれ違う。
今日行き合ったのは下級使用人ばかりだったが、皆一様に恭しく奥様に頭を下げ、皆一様に、薄く嘲笑ってお嬢様を見下ろした。
これが一番、頭が痛い。
マリーは、手を繋いで楽しそうにする母娘の後ろを、顔が引き攣らないよう苦心しながらついて歩いた。
すると不意に、「あら」と呟いて、夫人が膝を曲げた。
「ごきげんよう、侯爵様」
ちょうど仕事の話でもしていたのか、侯爵様と、御子息の立ち話に鉢合わせてしまった。
そういえば、そろそろ王都の学園は長期休暇の時期だ。
マリーも、夫人の後ろで深く腰を折る。突っ立っているのはお嬢様だけだ。この子は本当にもう、と思ったが、無理矢理頭を下げさせるのはマリーが不敬にあたるので我慢した。
先程の騒ぎようとは裏腹に、夫人の挨拶は、突然の遭遇にも優雅で、指先の動き一つをとっても、美しく洗練されていた。
彼女の振る舞いは完璧なだけでなく、いつだって見る者を魅了するのだ。
「……ああ」
侯爵は言葉少なく応えた。機嫌が悪いわけでなく、マリーの知る限り、誰に対しても基本こうだ。
ハイネンヴァルトには、言葉よりまず行動で示せというタイプの男が多い。
強きこと、誇り高きことを美徳とする家系だからか、姦しいのは苦手なのだろう。現当主の彼も、その御子息の長兄にあたるラーディクス様も、その血を色濃く引いていた。
侯爵はお嬢様を一瞥すると、「……もう小さな子供じゃないんだ。手を繋いで歩き回るな」とだけ言って、さっさと背を向けてしまった。
ラーディクス様も、夫人に目礼だけして、その後を追った。
お嬢様には、視線の一つも下さなかった。
夫人は慣れているのか、その後ろ姿を愛らしい微笑みで見送るばかり。
足元には、これまた夫人以上ににこにことしたお嬢様が、「お母さま、アップルパイ!」と繋いだ手をぶんぶん振っていた。
彼女になんの自覚もないのは、幸か、不幸か。
侯爵が見えなくなると、夫人はまた、お嬢様の手を引いて歩き始めた。
夫人とキッカ様は、良く似ている。
そりゃ母娘なのだから当然だろうが、二人だけが屋敷の中で文字通り毛色が違うものだから、余計似て見えた。
ただ、これもまた当然のことながら、似てはいても同一ではないのだ。
侯爵夫人は、使用人たちに愛されている。
普段は奇矯な言動が目立つものの、いざ社交の場に出てみれば、その振る舞いは上流階級でも指折りであると皆知っている。加えて詩歌や刺繍、音楽にも造詣が深いし、侯爵様がいる手前、決して出しゃばることはないものの、男達の社交についていけるだけの、頭脳と知識を持っていた。
変わり者だが、侯爵夫人として非の打ち所のないくらい、優秀なのだ。
そんな貴族界の華が、下級使用人にも分け隔てなく接してくれるというのは、恐れ多くも嬉しいことだ。
社交は別だが、普段の彼女は身分に拘らず気さくだ。そういう、気取ったところのない女性なのも、愛される理由の一つだろう。
侯爵と夫人は、傍目には容姿の端麗さ以外正反対に見えるが、これほど似合いの二人は居ないと使用人たちは言っていた。
お嬢様も、そんな夫人とよく似た容姿で、よく似た調子で喋る。
まだ幼い子供だから、優しい母の真似をするのは自然な流れだろう。
けれどそれは、似ているだけに差が明白だ。
現に彼女は、過半数の使用人から白い目で見られていた。
端的に言えば舐められている。
勿論全員というわけではない。古株のバトラーやミセスは流石というか──好いているかどうかは別として──礼節を崩すことはないし、若い使用人たちの中でも、「バカで可愛い」という意見がある。
マリーもわりとそちら側だ。
しかし、ガヴァネスとして、他の使用人より近くにいるからだろうか。
呑気に彼女を愛玩している同僚たちと違い、マリーには、彼女がこのまま成長してしまうことに対する危機感があった。
お嬢様には才能がない。
淑女としての立ち居振る舞いは勿論、詩歌にも刺繍にも音楽にも、彼女には、母親と違い一切の才がない。
確かに一昔前まで、貴族の女は、何も分からぬ顔でにこにこ微笑んでいるのが最上とされた時代もあった。
しかし、それはもはや過去の話。
今や女にも仕事と地位が与えられ、凡ゆる能力を評価される時代だ。
使用人たちも、別にお嬢様のことが憎いわけではない。お嬢様はバカなだけで、恨まれるようなことをするわけでなし。
ただ、あまりに出来が悪すぎて、夫人との差が明白で、だからみんな、苛々してしまうのだ。
そして、それに拍車をかけているのが、彼女の自覚がなさである。
自分に母親のような才能がないことも、そして使用人に見下されていることも、彼女はおそらく、よくわかっていないだろう。
現在だけ見れば、傷つかずに済んで良かったと笑えるかもしれないが、未来のことを考えると、それが幸福なことだとはどうしても思えなかった。
「お父様やお兄様たちは素っ気ないけれど、そういう性格なだけで、皆あなたのことを大事に想っているのよ」
夫人は繰り返し、そう、お嬢様に伝えた。
確かに夫人は、傍目に見ても、間違いなく娘のことを愛していると思う。
しかし侯爵や、彼女の兄達はどうだろうか? 好き嫌い以前に、彼等は自分の娘妹に興味がないように見えるが。
お嬢様はいまいちよく解っていない顔で、「おとおさまたちも、アップルパイ好きかしら?」とにっこり笑った。
そもそも彼女は自分が嫌われているのかどうか、考えたことすらなさそうだ。
夫人は、お嬢様に手放しに優しい。
けれど聡明な彼女が、何故嗜めないのだろうか。
自分の真似をして悲惨なことになっている娘に、気づかないはずがないのに。先程も、下女たちの不躾な視線を、諌めようともしなかった。
それは果たして、優しさと言えるのだろうか。
これではまるで、お嬢様は夫人の引き立て役である。
#
庭園の中心近くにある、屋根のついた白い東屋に、ガーデンチェアと丸テーブルが運び込まれていた。
最初は遠慮したが、結局は夫人に勧められるまま、マリーは椅子に腰掛けた。
夫人が給仕を下げるので、流石に紅茶だけは淹れさせて貰ったが。すでに用意されていたものを注いだだけだ。
紅茶は、薫り高い春摘みのダージリンだった。
アップルパイは、ポピュラーに編まれたパイ生地が、卵黄でツヤツヤと美味しそうに照っている。中身の林檎は程良く歯応えがあってジューシー。一口齧ると、肉桂のスパイシーで甘い香りが鼻を抜けた。カスタードは甘すぎず、コクがあって、卵とミルクが優しく林檎を受け止めている。
一口齧っただけで、めちゃくちゃ美味しいと解る代物だった。
料理にまで才能があるとは、つくづくとんでもないご夫人である。マリーは当初の遠慮も忘れ、パクパクとたいらげてしまった。
夫人はそれ以上に頬袋をこさえたお嬢様の頭を撫でながら、マリーに向かって微笑んだ。
「今日はご同席下さってありがとう。お仕事の方はどう? キッカちゃんが、迷惑をかけていないかしら?」
例え迷惑をかけられていたとしても、夫人を前に告白する勇気はないが。
マリーは、特に偽ることなく進捗を伝えた。
「とんでもないことでございます。お嬢様はとても素直な、良い生徒でいらっしゃいます。史学や数学の進みはいいですし、特に暗記ものに関しては、随分と覚えが早いように思えます。芸術、教養の授業は……その、特にやる気があるようで、進んで受けてくださっていますし、」
物は言いようである。
他の使用人たちは知らないだろうが、お嬢様は意外と、勉学全般がダメというわけではない。覚えはいい方だと思う。ダメなところがとことんダメなので、目立ちすぎてしまっているだけで。
というのも、淑女の才能がないことに関して、お嬢様がまったく気づいていないので、何故かめちゃくちゃやる気があるのだ。何故かまともに出来る通常の勉学よりもやる気がある。だから頑張っているのがわかる分、余計にダメさが浮き彫りになるという具合である。
「あなたをキッカちゃんのガヴァネスにして良かったわ。これからも、よろしくお願いするわね」
「誠心誠意努めさせていただきます」
「ところで──」
夫人が声色を変えた。対お嬢様用の猫撫で声である。
「キッカちゃん、確か、明日は街道の方まで出かけてくるって言っていたけどぉ……」
「うん。お花ばたけに行くの」
確かに明日は授業が休みだ。マリーも休日を貰っていた。
美味しいパイをつまんだことだし、明日はパイの専門店にでも行ってみようかしら。
「それなんだけどねぇ、どうも最近、領内に物騒な人たちが入ってきているそうなのよぉ……あすこのお花畑の近くって、見通しが悪いでしょう? お母様、心配だわ……」
「だいじょぶよおかあさま! ラームスおにいさまがいっしょに行く約束なの! おそわれても、おにいさまがやっつけてくれますわぁ!」
「……キッカちゃん、お兄様から離れないよう、きちんと側にいられる?」
「はぁい」
お嬢様がにこにこと答える。
怪しい返事だ。
「最近どうも、国全体で治安が下がってる気がするのよねぇ……」
夫人の言葉に、マリーは頷いた。
犯罪者に限った話ではない。ここ最近、国のあちこちで魔物の討伐が行われているのだ。
討伐出来ているのなら問題ないじゃないかと思うかもしれないが、そもそも、魔物が出現している時点で大きな問題だ。
ここ数百年、魔物なんてそうそう出くわすものじゃなかったし、よしんば出現したとしても、討伐隊が組まれるほどの大事になることは滅多になかった。だいたいが近場の傭兵や、警備隊で対処出来ていたのだ。
しかしここ最近、魔物の様子がおかしいと聞く。
「マリーさんもそう思わない?」
「え? あ、はい。ハイネンヴァルトに出没したという話は、今の所聞いておりませんが。森は……そうですね。魔物の棲家として定番ですし、少し危ないのでは、と思います」
「そうよねぇ」
「えっキッカぜったい行くよ! お花畑!」
お嬢様が足をバタつかせる。
よほど楽しみにしていたのだろう。本当にお花とか、そういう可愛らしいものが好きなお嬢様だ。
「キッカちゃんはこうだし、動き始めちゃうと、ラームスだけじゃ止められない気がするのよね……」
夫人が嘆息する。
確かラームス様は、お嬢様と二つ違いの兄である。この家の子供だから、もう一通り剣の扱いは学んでいるだろうが、妹に向けるわけにもいかないだろう。歳下の元気な女の子を止めるには、子供同士では心許ない。
「ちなみにこのアップルパイ、《神の庭》で取れた林檎を使っているのだけど……」
「……よろしければ、わたくしもご同行いたしましょうか?」
知らぬ間に前払いを敢行されていたらしい。
《神の庭》で取れる林檎と言えば、全て高級品。土が肥沃で魔力に満ちていると聞く。一般人が口にしていいものではなかった。禁断の果実である。
夫人はあからさまにホッとした表情で、ごめんなさいね、と眉を下げた。
(──私なんて、ただのいち使用人なのだから、命じれば手っ取り早いのに)
休みも一日ずらしてくださるそうで、そこまで言われれば断る理由はなかった。特に予定もないし、楽しみにしているお嬢様を留め置く方が可哀想だ。
それに、普段そこまで我儘を言わない分、彼女はこうと決めたら止まらない。
勝手に出て行かれるより、万全を期して送り出す方がよほど安心だという考えもわかった。
「本当に、あなたで良かったわ」
「しんぱいすることないのよマリー。悪いものはみんな、おとおさまたちがやっつけてくれるから!」
お嬢様は能天気に笑っている。
確かに侯爵様は強いのだろうが、王都の騎士も駆り出される魔物討伐を、一人でみんなやっつける、というのは無理があるだろう。
マリーは愛想笑いで誤魔化した。
──お嬢様の行いに対する寛容さは、夫人の慈愛なのかもしれない。
しかし、だとしたらその愛は、彼女から人を遠ざけるだろう。
ご貴族様に意見するほど捨て鉢にはなれないが、彼女のガヴァネスになったのも何かの縁だ。
学校に通い出す年頃まで、まだ時間はある。
彼女がなるべくまっとうな御令嬢になれるよう、給料分は仕事をせねば、とマリーは気合を入れなおすのだった。




