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スポーツ・デイ5





「……うそ、」


 それ以外の言葉は出てこなかった。



 キッカの中で、ラームスには【強い】というラベルが貼られている。

 そりゃ昔のことを思い返せば、連中とラームスとの間には、象と蟻どころか竜と蟻ぐらいの差がある。でもアレは、時代の産物でもあった。

 ラームスは平和な世に生まれ、いまだ十五の子供であり、恵まれた肉体と、戦闘のセンスと、魔力を持つ。且つ強くなることに貪欲だ。

 可能性の塊のような男だった。だから今は及ばなくとも、将来的にはロウと同じくらい強くなるんじゃないかと思っている。最強の陰に隠れがちだが、彼もまた、魔王討伐に乗り出せるくらいには強かった。

 それくらい、キッカはラームスを認めていた。


 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 否。きっとラームスの精神(こころ)は折れていない。

 身体だけでなく、精神もより頑強な男だ。

 彼はきっとどれだけ劣勢に立たされようと、そう易々と敵前で膝を折るような真似はしない。


 ──しかしそれは、頭が地に減り込み、石の舞台に放射状の罅を入れている状況でなければの話である。

 圧倒的力技で屈服させられた兄の、友の、そして己の騎士の姿を見て、キッカの腹の中で、どろりと魔力が(とぐろ)を巻いた。





#





 ワーーーーッ


 円形の闘技場(コロッセオ)を揺らすように、ぐわんぐわんと音が響いた。

 舞台の中央に立つと、観衆の声が地響きのように聞こえる。

 騎士科以外の生徒や、多くの来賓は、こういった荒事に慣れていないのだろう。退屈な日常に一時の刺激が欲しいのか、会場は、たかが学校行事とは侮れない盛り上がりを見せていた。


 ──まったくいい見世物だ。

 キッカは目の前の男を見上げた。

 立っているのは、キッカの期待に外れて、ラームスではない。

 一回戦目でラームスを降した《十六番》は、キッカが見上げるほどにでかく、ラームスだって歳のわりにガタイのいい方だが、高さも厚みも彼以上にあった。

 ほんとに魔導科(セレマ・クラス)か? と、首を傾げるくらい恵まれた体躯だが。つい先ほど、この男が魔術を使うところをしっかり見ているので、疑うことはできない。


 向かい合う位置に立つと、《十六番》は小さく頭を下げた。

 しかし、キッカは一回戦目と違い、軽い礼すらせずただ立っている。

 相手の表情はヘルムの上からじゃ窺えないが、近くの審判が片眉を跳ね上げたのが視界の端でわかった。


(──特別、この男を憎んでいるわけではないけど)


 それでも、先の試合に思うところがあったのは事実だ。

 ルールに抵触しなければ、戦う理由(モチベーション)が名誉だろうが、私怨だろうが、余人に関係ないだろう。

 ──端的に言えば、キッカは、ラームスを降したこの男が気に食わなかった。

 顔も正体も知らない者同士、多少態度が悪くても構やしない。


 おざなりな礼が済めば、二人は互いに背を向けて、所定の位置に下がった。

 二回戦目から、二つに別れていた舞台が合体するため、自然と選手の距離は広がり、戦いに使える範囲も倍になる。

 キッカは黙って立ち止まり、そして振り返った。


 キッカの右手が背中の剣柄を握り、抜かずに静止する。

 対して、《十六番》は腰の剣に手すら触れていない。棒立ちの状態だ。

 《十六番》は魔術師だからと言えばそれまでだが、これまでの試合が基本、互いに剣を構えた状態で始まっていたため、会場はどこか異様な空気に包まれた。


「それでは──」


 審判が口を開く。

 魔力によって拡声された声が、闘技場(コロッセオ)に響き渡った。


「──始めッ!!」


 キィインッ

 と、刃を打ち鳴らす音が響いたのは、審判の声が観客に届くのと、ほとんど同時だった。

 会場が水を打ったように静まり返る。

 二人の選手は、瞬きの間に肉薄していた。

 

 開始位置から大きく動いたのはキッカだ。

 彼女は既に、剣を振り下ろしていた。

 その攻撃を受けた《十六番》は、開始位置から動かず、剣も構えていなかった。

 ならば剣は何に阻まれたのか──魔術である。


 一拍遅れて、怒号のような歓声が上がった。


(……《力》の魔術か?)


 魔力を見ながら分析する。

 一試合目から予想はついていたが、やはり《火属性(ワンド)》のようだ。

 男は圧力を壁にして、キッカの剣を防いだ。一方向から力を加え、空気を塊にしたようなものだ。

 《力》に作用する魔術は単純だが強力で、身近な魔術師が得意としていたこともあり、よく知っている。

 使い方次第でどうにでもなる魔術だ。空気は常に身近にあり、さまざまな要素が混ざり合って存在する。場所を選ばず、応用が効き、対策する方は手が読めず遣り難い。

 キッカは攻撃が防がれたと見るや、すぐさま距離を取って地面に着地した。

 魔術の出来不出来以前に、男には、得体のしれない何かがあった。


(……反応が、いいんだよな)


 頭の中で違和感の正体を探る。

 力の魔術は面倒ではあるが、キッカが苦戦する相手かと言えば、そんなことはない。

 基本、火属性を相手にする時、風属性は速攻をかける。強力な魔術を使う相手でも、発動する前に沈めてしまえばなんてことはない。

 だからさきの一太刀も、魔力は使わなかったが、本気の速さで駆け抜けた。運が良ければ一撃で仕留めるつもりでいたのだ。


 それを、《十六番》は危なげなく防いだ。

 力の魔術は余程の手練でなければ広範囲に展開するのは難しい。目の前の男も例に漏れず。だから、コイツは、()()()()()()()()()()

 ──つまり、《十六番》が攻撃を防げたのは、魔術の練度の問題ではない。

 単純な肉体面(フィジカル)の話だ。


(ほんとに魔術師か……?)


 男の異常な動体視力と反射神経に、キッカは再び同じ疑問を頭に浮かべた。魔術を使うから魔術師だと言われれば、そうなのだが。

 ジッとしていても仕方がないので、再び地を蹴る。

 が、今度はすぐに足を止めることになった。

 観客たちは訝しむが、キッカの眸には、常人と違う光景が映っていた。


(……いやまあ、出してくる手は魔術師なんだけど)


 キッカを囲むように、魔力の流れが見えない壁となって行手を遮る。

 ただそれは、少しばかり会敵を遅らせる程度の仕掛けで、よく出来た防御とは言い難い。キッカにとっては力尽くでも、避けても、どうにでもなる穴だらけの壁だった。


 キッカは剣を下ろしたまま、じり、とその場に踏み留まった。

 魔術師としては大したことがなさそうに見えるのに──何故か、一歩踏み込むのを躊躇われる。

 なんだか、底が知れない。バランスが悪い。

 経験からして、強大な魔術を使う魔術師より、こういう何をしてくるかわからない魔術師のほうが厄介だったりするのだ。

 足を止めて様子を窺っていると、舞台の外から、轟々と風が鳴り始めた。


(これは──)


 それは、一回戦目でも見た魔術だった。

 魔力を糧にして、旋風は唸りを上げて大きくなり、怒涛の嵐は、巻き込んだ者の呼吸も奪う。

 男は、フィールドの砂や小石を巻き上げながら、それを舞台に上げた。

 魔術で保護されていても、客席から悲鳴が上がる。

 キッカはその魔術を無防備に眺めて、「上手いやり方だな」──と、思った。

 小石の混ざった風は、最早鋭い刃と同じだ。この規模の魔術なら、普通の人間は挽肉に出来るだろう。


 ──けれど、ラームスはこの嵐を抜けた。

 無傷とはいかなかったが、生憎ラームスは風属性(ソード)だ。並大抵の物理を通さない。

 彼はキッカの思っていた通り、小石程度で倒れはしなかった。

 剣を握り、竜巻を抜け、ラームスは敵の前に躍り出た。

 相手は武器を構えてもいない。

 勝った、と思った。


(……でも、今、わたしの前に立っているのは)


 キッカが棒立ちのまま魔術を眺めていたおかげで、時間が稼げたのか、竜巻は一回戦の時よりだいぶ威力を上げていた。

 どこかから「ちゃんとやれー!」なんて、ヤジが飛ぶのが聞こえた。ガラの悪い観客もいたものだ。


(──舐めるなよ)


 キッカは剣を握る拳に、力を込めた。

 使い方は悪くないと思う。予選で見た、まるで教科書通りの魔術を使う連中よりかは、いくらか実戦的だ。

 しかし、一度披露した魔術をまた、捻りもなく出してくるのは莫迦にしているとしか思えない。

 様子見のつもりでいるのだろうか。

 男の魔術は見た目は上等に見えるものの、どうも中身は習った内容を一つ一つなぞって、試しているようにしか感じない。


 まあ勝ちに拘らず、試合を魔術の実験に使いたいと言うなら勝手にしたらいいが。

 それは個人の自由で、キッカだって一回戦では、ラームスに見せるために同じようなことをした。


(──わたしが付き合う義理はないけどな)


 凄まじい速度を持った砂嵐は、キッカをあっさり呑み込んだ。

 キッカはちらりとも、避ける素振りすら見せず姿を消し、巨大な肉挽機に巻き込まれた生徒の姿に、観客は小さな悲鳴を上げた。


 ──バシュッ


 フィールドに、空気を割くような音が響いた。

 一拍置いて、強風が観客席を襲う。

 吹き飛ばされるほどではないが、髪や衣服が大きく舞い上がり、観客たちは目を閉じた。


 そうして再び目を開けた頃には、《十六番》が剣を抜き、《十四番》は、何故かその背後に立っていた。


 観客にどよめきが走る。



(……は?)

 キッカは背後の気配に神経を張り詰めながら、冷や汗の滲む手で、剣柄を握り直した。


 観客が目を閉じた数秒──

 キッカは、一太刀で砂嵐を吹き飛ばした。

 剣に流した魔力を動かし、風を操作する魔術を掻き乱したのだ。この程度は造作もなかった。

 砂嵐は、多少の余波をもって消滅した。


 《十六番》の魔術師も、少しは動揺したように見えた。

 その隙を逃さず、今度は魔力で強化されたキッカの脚が再び地面を蹴った。

 キッカを囲う魔術が、ただ砂嵐を作るための時間稼ぎとして出された壁なら、薙ぎ倒して進むのに躊躇はなかった。

 そうして男の前に躍り出て、キッカはその速さを乗せたまま剣を奮った。

 男は堪らず、やっと腰の剣を抜いた。

 なるほど、剣を持っている方がよほど様になる。

 

 男は多少無理のある体勢だったが、キッカの剣を受け止めた。

 これは予想通りだ。この体格なら、多少の不利は筋力で補えるだろうし、何よりキッカは、剣に最低限の魔力しか流していなかった。

 キッカは動じず、地面を蹴り、受け止められた剣に体重を乗せた。

 一瞬のことだった。

 勢いの乗った本命の右足が、無防備な男の側頭部を、鞭のような早さで蹴り飛ばした。


 ──が、男は微動だにしなかった。

 キッカは蹴りつけた反動を利用して、その背後に着地した。

 これが、観客が目を瞑った一瞬のうちに起きた出来事である。



 キッカは、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。

 ようやく、男の違和感が、輪郭を持ち始めた。

 殺す気でやったわけではない。こちとら常人の肉体とは強度が違う風属性(ソード)だ。加減はした。

 しかし、昏倒させるくらいの魔力は乗せた筈だ。場外まで吹っ飛ばすつもりで蹴り飛ばした。

 ──それを、いっさいの防御もなしに受けたのだ。


(なんだ、こいつの膂力は)


 背後の気配は動かない。キッカは、恐る恐る振り返った。

 すると男のヘルムの下から、一筋の赤が流れるのが見えて、少しだけ頭が冷える。

 ──効いていないわけではない。

 ただ、相手の耐久値が思ったよりも馬鹿みたいに高かっただけだ。

 そして、わたしの身体も、思っていたより軽かっただけ。


 男は真っ直ぐこちらを向いた。

 雰囲気が変わった。

 顔も見えないのに、視線で射竦められたような感覚がした。

 肌がビリビリと粟立つ。


「……ッ、!!」


 剣を握り、言葉を繰ることをやめた男は、恐るべき身体能力をもってキッカの前に立ち塞がった。

 考えるより前に、身体が動く。

 ガンガンと剣を打ち鳴らす音が、秒針を刻むように聞こえた。

 一般の観客にはもう、二人の動きを追うことも敵わなかった。


(ッこいつ……絶対魔術師じゃない、!)


 魔術が使えるからといって、その人間が魔術師になるとは限らない。

 いや。使えるだけで他人(ひと)からは魔術師と呼ばれるが。本人がそれを極めて生きていくかは、また別の話だ。

 この男は、確実に近接戦闘が本職だ。


 魔術を使っていた時のどこか実験めいた感じは、打ち合わせた剣からはまったく感じられない。

 やっと納得がいった。──コイツは化け物だ。

 今思えば、昼休憩中に会った騎士たちが言っていた《強いやつ》っていうのは、この男のことだったんだろう。ラームスがこちらを見るので、勘違いをしてしまった。

 かつての己ならいざしらず、今のキッカに、大した力はないのだ。


 剣の音だけが舞台の上に響く。

 周囲の音は、徐々に消えていった。

 じわじわと身体が熱くなって、反対に、却って頭は冷めていく。

 懐かしい感覚だ。

 そして、慣れた感覚だった。


 ガァンッと音を立て、相手の剣を受け止める。

 一瞬の鍔迫り合い(バインド)。しかし、幾ら魔力で応戦できるといっても、キッカにこの体格差で力比べをする気はなかった。

 男の呼吸を見計らって、腕から力を抜く。

 身体を斜めに軸をずらせば、男は容易く体勢を崩した。

 今度は脚ではなく加減なしに剣を叩きつけてやろうと、側面に回り込もうとしたところで、キッカの顔面に何か凄まじいスピードで迫ってきた。

 男の拳だ。剣を振る腕では間に合わないと思ってか、男は空いた拳をキッカに撃ちつけようとした。

 風属性(ソード)なら大抵の肉弾戦は、身体で受け止めたとて大してダメージにならないのだが。しかし、キッカは何か嫌な予感がして、既に振るおうとしていた剣での防御は間に合わないと見るや、少し体勢を崩しながらも下に避けた。

 男は更にそれを追って剣を振るった。攻撃は上位にいるほうが有利で、下位にいるほうが不利だ。技術は置いておいて、力の作用の問題である。

 しかし、キッカは半ば仰向けに倒れた体勢のまま、なんとかそれを受け止めた。キッカの身体強化が人並み外れているのもあるが、男が剣を片手で握っていたおかげもある。

 案の定、すぐに男のもう片手が、拳となってキッカの頭を撃ち抜こうとする。

 キッカは受け止めていた剣を滑らせ、どうにか転がって窮地を脱した。

 ドォンッ、と耳元で地鳴りのような音が響き、見れば石の舞台に小さなクレーターが出来ていた。

 ──避けて正解だったな。

 キッカは鎧の下で顔を引き攣らせた。


(ラームスの時は、アレで手加減してたのかよ……)


 体勢を立て直す間もなく剣が振り下ろされ、キッカも剣で応じたものの、逸らしきれずにアーメットを掠った。

 咄嗟に魔力を込めるが、そもそも全身鎧なんて着慣れていない。少し反応が遅れた。パキリと鎧の一部が割れ、破片が砕けて地面に落ちる。

 代わりに少しばかり良好になった視界の端で、再び拳が迫るのが見えた。

 ──たぶんさっきのクレーターが出来た時より、この拳は、避けないとまずい。

 しかし今の体勢で避けるのは難しい。掠っただけとはいえ、魔力込みの鎧を割る威力の剣先を、顔面にくらった直後だ。脳みそが少し揺れている。まともに喰らえば片目が潰れていただろう。

 とはいえ、剣で防御するのも考えものだ。

 防御は可能だろうが、あの拳の威力を相殺するとなると、キッカはおそらく吹っ飛ぶことになる。この身体、空中を跳ぶ分には便利だが、地面への踏ん張りはあまり効かないのだ。

 舞台から落ちないようにどうにか出来たとしても、それをするとまた間合いは振り出しに戻る。

 男には魔術があり、こちらと違って遠距離攻撃が可能だ。別に男の魔術自体は大した脅威でないが、この異常な戦闘力と合わされば、厄介なことに変わりなかった。

 そして、肉体を見れば一目瞭然であるが、きっと体力もキッカの方が随分劣る。時間をかければかけるだけ、こちらの方がジリ貧だろう。


 ──なら、今しかない。


 キッカは一瞬の内で、当たり前のようにその結論に辿り着いた。

 剣を持つ手をギュッと握り、もう片腕を相手の拳の軌道に合わせて前に出し、防御の姿勢を取る。

 片腕で受け止めるのだ。

 衝撃を受け流そうとすれば吹き飛ばされる。両足と腕に魔力を込め、真正面から衝撃を受け止める。勿論身体だけでなく鎧にも魔力を込めるが、この身体で全力の魔力操作はまだやったことがないのでどうなるか。以前より魔力量は多いようだが、慣れるほどの鍛錬もしていないし、この身体が、魔力にどれだけ耐えられるのかもわからない。

 だから今、確実に出来る範囲で受け止める。

 予想では良くて骨折──悪ければ骨がぐちゃぐちゃになって腕が捻じ切れるだろうが、それくらいは水属性がいればあとでなんとでもなる。


 腕の一本で男の拳を受け止めれば、互いに自由になる腕はあと一つ。この距離で、速さなら負けはしない。あとは無防備な首元に全力で剣を叩きつけて、おそらくそれで勝てるだろう。


 キッカはぐい、と前に出た。

 全身の魔力が身体中を渦巻く。

 ヘルムの隙間から、男の目が見開かれたように見えた。



「やめろ────ッ!!」



 観衆の喚く闘技場の中で、その声だけが、キッカの耳に良く通った。


 キッカは咄嗟に腕を引き、男の拳を己の剣で受け止めた。

 衝撃を殺すために自ら後ろに飛ぶが、身体の防御に魔力を多く割いたため、剣は真っ二つに折れてしまった。

 キッカの足は舞台から離れ、フィールドをゴロゴロとボールのように転がり、そして、静かに止まった。


 シン──と静まり返った闘技場に、やがて割れんばかりの歓声が鳴り響く。


 キッカはそれをどこか遠くに聞きながら、会場の丸い空を見上げて、パタン、と手足を大の字に投げ出した。

 五体満足。

 危険な試合だったが、最終的に見れば、怪我一つない状態での生還だ。


(……ラームスの声だ)


 声が聞こえて、キッカは止まった。

 やめろ、と言われた。

 キッカが、《キッカ・ハイネンヴァルト》だから。

 侯爵令嬢で、か弱い淑女で、護ってくれる騎士(ラームス)もいるから。


 決して──勝利のために己の身体を賭け(ベッド)したり、命をテーブルに並べて勝負する必要はもう、ないのだ。


 シュンは死んだ。あの戦場と一緒に。


「……なぁんだ」


 キッカは鎧の下で微笑った。

 勝つ必要(ロウもアニス)も、命を懸ける理由も、もうない。

 己が剣であったことに後悔はない。国の盾となった親友を、人々の希望となった姫様を、守って終われたことは、わたしにとって意味のあることだった。

 それはきっと、これから先、ずっと変わらないだろう。



 けれど、だからこそ今、己の剣が要らなくなった世界が、笑えるほどに嬉しかった。






第一章・完

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