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公国史2X4X年──
太古の昔から嶮峻とした山脈に隔てられていた領域を、侵すモノがあった。
其れは、顳顬から生えた翼で空を飛ぶ嬰児の首。
其れは、筋骨隆々の両腕に斧をたずさえ涎を垂らす馬頭。
其れは、腹から夥しい節足の生えた美しい女。
其れは、史上の暗黒期と呼ばれ、魔王が最盛を誇った時代──
山脈の裏側から溢れ出した魔物達は、各地を跋扈し、人間たちを悉く蹂躙した。
いつの時代も、人の世に争いは多けれど、この時ばかりは人々も、たまさか国境を忘れ手を取り合った。強大な敵は国々の結束を固め、結果的に人間の軍事力を大きく飛躍させることになった。
そうして、数多の国が共に戦い、そして滅びた。
脆い人間の身体は魔族の一撃で容易く貫かれ、潰され、削られ、こねくり回されて挽肉となった。
人類の進歩など、魔族にとっては他愛もなく、蟻が羽蟻になった程度、象は気づきもしなかった。
ここから近代までの時代を称し、現代では《闇夜の時代》と呼ぶ。
公国史3X8X年──
多くの人々が魔族の奴隷に堕ち、希望も遠く褪せた時代。
「ヒト」は魔族より劣った生物であり、魔族に支配され、媚び諂って生きるほかないのだと、人々の常識が塗り替えられようとしていた時代。
人が誇りを失いつつあるそんな時代に、英雄は生まれた。
闇の時代にありながら、どれほど虐げられても、決して魔族へ頭を垂れぬ国が三つ。
《軍事帝国》《神の庭》《平和の盾》──
今では名の知れた大国だが、当時はただの中小国家であった。
三国は別に同盟を組んだわけでもなかったが、まるで示し合わせたように、同時期に進軍を始めた。これが神の思し召しでないのなら、いったい何の偶然か。三つの国は、まったく同じ進路をとり、まったく同じ時期に、魔族の住む地の最奥部──
即ち、魔王城を擁する土地まで侵攻を進めたのだった。
その道程で数多の英霊が天に昇った。
各国がそれを、固唾を飲んで見守っていた。
皆解っていたのだ。永きに渡ったこの戦、人類圏は疲弊している。今度敗れれば人類に、もはや希望は無いのだと。
地を埋め尽くす数の戦士達は、あっという間に木っ端のように削られていった。
夥しい数の命が、大陸を赤く染めた。
けれど三国は侵攻を止めなかった。
たった一つ。
されど一つ、人間は、魔族には無い利を持っていたから。
『──人間に替えはあれど、魔王に替えは無い』
人一人の影響力など、この英雄たちを持ってしても些細なものだ。しかし、魔王というのは、端からそういうものではなかった。
魔王は、誇張なしに魔族の全てを掌る。
魔王の強さは、魔王の意志は、あまねく魔族に影響した。
だからその、たった一体を討てば──という思いが、戦士たちをギリギリ戦場に繋ぎ止めていた。
そうして、多くの犠牲を前提にし、多くの犠牲を足蹴にして、その肉塊を踏み固めた道は、やがて五人の勇者を魔王の城へと導く。
そう。英雄はたった五人で、世界を救ったのだ。
魔王城でどんな戦いがあったのか、どのような幕引きがされたのか。
いずれの歴史書にも、詳しいことは記されていない。
歴史学者は、絶望的な戦力差だったろうと説く。魔王の城にいたのは無論、魔王だけでなく、数多の配下が控えていたはずで、どうして倒すことができたのか、今でも定説はなく、推測の域を出なかった。
しかし、結果として五人が魔王を討ちとり、今代まで英雄として語り継がれているのは確かなことだ。
世界は救われた。人は生きることを許された。もう絶望する必要はなくなった。
それさえ解れば、当時の人々にとって、その戦いの中身はさして重要ではなかったのだろう。
闇の時代を終わらせた彼等を、人は《黎明の騎士》と呼ぶ。
当代最強/錆色の獅子/美しき傷の男/ミスティリオン聖教国聖騎士《キリエ・エレイソン》
癒しの御手/公国の永遠の灯/夜明けの聖女/カターリナ帝国の姫君/後のユグエン公国女王《アニス=デイ・カターリナ》
盾の王/ユグエンの羅針盤/公国史上、最も偉大な賢王《ロウ・クレド》
本名不詳/性別不詳/史実にあるは一文のみ/曰く、「その者、言葉を狩る騎士也」/ユグエンの騎士にして、最も謎多き英雄《D・サンクトゥス》
そして最後に。伝説となった五人の中でただ一人、魔王城に斃れた者がいた。
その者、カターリナ帝国筆頭騎士。
血を以って血を洗い、肉を以って肉を拭った。
幾多の戦場を駆けて不敗。最も魔族を殺し、最もその血を浴びた猛将。
不死身/魔眼/沈黙の支配者──
最強のキリエ・エレイソンをして、「紛うことなき強者」と言わしめた男。
《シュン=イル・ディエス》
血と怒りの英雄。
彼こそまさしく、魔王殺しの英雄。
「──ここまでが、本日の内容になります。何か質問はありますか?」
女はパタン、と分厚い本を閉じた。
ちらと隣を見ると、少女がふるふる身体を震わせている。
ご貴族様相手でも、少年たちには人気のある話なのだが。いかんせん箱入りの彼女には、ちょっと刺激が強すぎたかもしれない。
ユグエン王国の最北端に位置する《ハイネンヴァルト侯爵領》は、服飾と金属細工の盛んな地域である。
今女が座っている椅子にも、机にも、万年筆にも、精緻な細工が施されていた。
彼女──マリー・デュカスは、そんなハイネンヴァルト侯爵領に住まう、ごくごく普通の中産階級の女だ。
婚期を逃し、家に居場所がなくなっていた折、幸運にも侯爵令嬢のガヴァネスとして雇われた幸運な女である。その時ばかりは見栄を張って、己を王都の学校へ入学させた両親に感謝したものだ。
まあ、そのせいで婚期を逃したのだけれど。
ご貴族様ほどではないにせよ、女の結婚適齢期はどこも短いのだ。
「お嬢様……?」
声をかけると、幼い顔がこちらを見上げた。
真っ直ぐ切り揃えられた、絹糸のようなシルバーブロンド。宵闇を溶かしたような真夜中色の眸。人形のように滑らかな手脚は、折れそうなほどに細く、憐れみを誘った。
愛らしい少女だ。まだ洗礼前の子供だというのに、どこか儚げな雰囲気を纏っている。
「今日の内容は、重要な国史のため外せませんでしたが。お優しいキッカ様には、少々酷な内容でしたね」
テキストを片付けるマリーの手元を、お嬢様がジッと見つめた。
血腥い歴史がよほど堪えたのだろう。
しかし、この国は渦中の一つだったから、学校に通うようになれば、より詳細な歴史を学ぶ機会もある。避けられないものだ。
お嬢様は暫く何も言わなかったが、マリーが背を優しく撫でてやると、やがて安心したのか、大きな瞳を潤ませて口を開いた。
「ふえぇえ〜…キッカ、魔族こわぁ〜い!」
もじもじするお嬢様を見て、彼女はそっと目を閉じた。
(いやキッツ……)
マリーは主人公ではありませんが、プロローグはずっと彼女が喋ります。小説の書き方とかジャンルとかが全然わからないのですが、楽しんでもらえると良いなと思います。




