月曜の午後
「こんにちは。今からあなたの願いを一つ叶えます。」
突然目の前に現れたそれが私にそう言った。その瞬間、騒々しい周りの音がピタリと止み、動きが消えた。滑走路を走る電車の音も完全に聞こえなくなり、私の体も動かなくなり、宙に浮いた感じがする。
びっくりしたけれど、なんだか誰も知らない世界を独り占め出来たような気がして少し嬉しい。
とりあえず目の前に現れたそれにこんにちはと言ったらこんにちはと返してくれた。
今願い事をしたらどうやって叶えてくれるのか。「電車を止めて」といえば、そのぬいぐるみのような小さな体がたちまちミスターインクレディブルの様な大男の体に変わり、ピタリと物理的に止めてしまうのだろうか。それはきっと面白いな。
「叶えられる願い事は一つのみですからね。慎重に考えてくださいね。」
ソレは真面目な顔で念を押した。いちいち代名詞で呼ぶのもなんだか嫌なので今ソレと言う名前を付けた。
どんな願い事が良いだろう。好き勝手な事をお願いしたい気持ちもない事は無いけど、周りの人の迷惑になってしまいそうだからそれはやだな。
じゃあ何が良い?。欲しいものって案外出てこないものなんだなって初めて気づいた。
それじゃあお母さんとお父さんが最近良く喧嘩する事が多いから、2人の中を良くする様にお願いしようか。
いやいや、なにか違う。確かに最近特に口喧嘩する事が多いかもしれないけど、仲が良い時だってあるし。
私だって優しくしてもらえる時もあるんだから、別に恵まれない家庭に産まれてしまった訳でも無い。別に今のままでも良いと思っているし、これを願い事にしてしまうのは何だかすごく勿体無い気がする…。
?
きっとお母さんとお父さんも少ししたら仲良くなる。いつもそうだもの。
それじゃあ何をお願いしよう…。
もちろん今の私に欲しいものなんて無いし…。
…。
「私ね、学校ではあんまり上手くやれてないんだよね。」
「それがあなたの願い?」
「違うよ。なんとなく話したくなっちゃって。」
私が話し始めた時、ソレは首を斜めに傾けたけど、すぐにっこりと微笑んで話を聞いてくれた。
「別に特別コミュ障って訳でもないと思うんだけどね。だって小学校も中学校も友達沢山いたし、その…沢山で集まった方が楽しかったんだけど、高校に来てからなんか、周りの人と合わなくなっちゃったのかな。よく嫌みを言われるの。ほら、皮肉みたいな、私ね、それがもう本当に嫌で凄い腹立つの。聞いて、この前さ」
不意に口から溢れ出た愚痴は止まらなかった。ソレは微笑んだような様子でただ黙っていただけだったけど、もしかしたらこんなに自分の事を隅々まで話したのは久しぶりかもしれない。
良くない考えが頭をよぎる。
けど本当に心の底からスッキリしたのだろう。今ならアイツらの言っていた事なんてへっちゃらだ。
…。
…電車を止めてもらおうかな…。
今私の頭の中には考えが2つあった。どちらも良くないものだ。
急に私がどうなるのか知りたくなった。
大人になった私が、どんな生活をしているのか知りたくなった。
聞くべきだろうか。今聞いてしまったら私は後悔してしまう気がする。
けどもう他に思いつくお願いが無い。かといってもうここまで来た。戻れない。
「ねえ、この電車を止める事も出来るの?」
「もちろん。」
ダメ。
やっぱり私には無理だ。何にも変われる気がしない。
私はいつも変われない。だからみんなについて行く事も出来ないし、お父さんとお母さんの支えにもなる事も出来ない。私はいつも弱いな。弱いままでいるのにも疲れた。いつまでも弱い人間のままでいるならいっその事、みんなの忘れられない記憶になってそこに閉じこもってもう息もしたくない。
変わりたい。今すぐ変わりたい。別人になってしまいたい。今までの過去を全部否定して誰かに擦りつけてやりたい。
目の前の線路が曲線になる。私の側にいた慌てた様な、驚いている様な顔をしている知らない人達の身体が、夕方の影の様に縦に伸びた。
私はどうすればいいの?このまま突き進んだらどうなるの?
お父さんに突き飛ばされた時に出来たたんこぶ。お母さんに浴びせられた黒い罵声。眼球にこびり付いて呪いの様に離れなくなったLINEのトーク画面。毎日全く変わりなく独りで通っていた路地全てが私の上にのしかかり、身体が下に落ちる。下には身体を支える小さな小さな私がそこにいた。
これは惨めなジレンマだ。誰の目にも映らないしょぼいジレンマに、私は既に潰れて原型すら留めていない。
突然周りが見えなくなった。視界が真っ暗になったわけじゃないし、目の前の物が消えたわけでもない。私自身が何も見ていないだけだという事に気づくのに、大分時間がかかった。早く逃げ出したい。この空間から目を背けて何も見たくないと思った。あぁ、一昨日のクリーニング代まだ払っていない。
青色のカエルがペタペタと軽快な動きで歩き、黒い背景に溶け込む様に消えながら「救済?」と呟いた。雨霰の一つ一つが私を見て笑う。笑う。笑う。たまに指先に熱い焼き石を当てた。
気が付いたら身体中にビッシリと大量に張り付いたシロアリが穴だらけのエールで脊髄にヒビを入れている。
行列。愉快な音楽と笑顔と語彙の裕福層に囲まれた場所に立つ。行先なんてわからないけど立つ。
(それはとても正しい事)
立つ。とにかく立つ。床が回っても、縦に揺れても、殴られても刺されても愛が視界を遮っても光が胸を貫いても立つ。唯立つ。
(それはとても正しい事)
たまに迷惑メールが届いた。もう生首を見たく無いのでダンボールの中に逃げた。ハリボテの愛には良く火がつく事を私は知っていたから。
(それはとても正しい事)
行列の先はジェットコースターだった。みんな笑っていた。ジェットコースターの向かう先では終わりと青色のカエルが待っていた。
カラフルな卵が流星群みたいに淡白な紫の空で飛んでいる。
門の先にはそんな世界が待っている気がした。私の眠れる場所がある。そう思うと少し頬が緩んだ。みんなは笑っているけど、私は笑わない。
(それはとても正しい事)
ジェットコースターが動き始める。みんなが叫んだ。私は我慢した。
(それはとても正しい事)
ジェットコースターは少しずつ上に上がった。みんな笑っていた。気付いたら私も少し笑っていた。
(それはとても正しい事)
一番上まで上がった。上がりきった。今までに見たことのない景色があった。笑った。今私は笑った。
みんなが笑うから笑った。みんなと一緒に笑った。
(それはとても正しい事)
ジェットコースターが少しずつ前に傾き、胸が高鳴る。
今私はとても楽しい。最高に幸せだ。
(それはとても正しい事)
ジェットコースターが一気に落ちて身体が浮遊感に包まれる。
思いっきり叫んだ。力いっぱいに叫んだ。誰にも負けないくらいの大きな声で叫んだ。
(それは
…。
…。
…。
冷え切った空間に響いたのは私の声だけだった。
私以外誰も叫ばなかった。みんな真っ青になって私を見ていた。私だけ笑っていた。
今世界中で誰一人笑わなかった。私だけ笑っていた。
みんなの顔が真っ青になる理由を、私だけが知らない。
辛いな。少し辛い。
いや辛い。とても辛い。
本当の事を言うととてつもなく辛い。抑えきれない。
あぁ辛い。アァ。あああぁ。辛いな。唯辛い。前照灯はまだ遠い。
「そっとしてあげよう」
「そっとしてあげよう」
全員が全く同じ事を口走り、私を中心に音も無くものすごい速さで蜘蛛の子を散らす様に消えた。私を照らすスポットライトから高笑いが聞こえた。
気が付けば喋り方を忘れ、前の見方を忘れ、歩き方すら忘れてしまい、手足が腐って土に帰った。
歯が欠けて、耳が遠く、目が薄くなる。しょっぱい土の味だけが残った。
何年経っただろう。本当は数秒たりとも経っていない。
顔面の穴という穴から滲み出る体液を腕で拭う事すら出来ない私は、ずっと止まった時を眺めて現実の核の上で寝そべっていた。
堪らなくなって泣いた。大きな声で泣いた。
何もない暗闇から木霊の様に泣き声が響いたので、私はそれが可笑しくて泣きながら笑った。
ずっと笑って泣いた。
一人で自分を哀れんで、一人で自分を蔑んで嘲笑った。これが人生なんだと気づく余裕すら出来た。たまに椅子に座ったソレが紙粘土のコマ撮りアニメーションの様な動きで何も言わずに一瞬だけ現れて消えた。
その一瞬だけ現れたソレにはとても見覚えがある。あの椅子にソレを座らせたのは私なのだ。
ソレがまた紙粘土のコマ撮りアニメーションの様に現れる。現れたソレには大きな私の指が付着してソレを触る様に動いていた。
その指が柔らかい現実に見えて、思わず目を瞑って枯れた喉で思いっきり歌った。
G線上のアリアの無い意味を考察するが如く狭くなる道を必死に這いつくばる。
意味がないと感じられない故に迷うのに、小さな机に無理やり頭を打ち付けて快感を覚えようと努力する事ぐらいしか分からなかった。誰かこの口を塞いでくれと内心強く願っている。
もう嫌だってずっと思っている。
もう嫌だってずっと思っている。
もう嫌だってずっと思っている。
菊は縁起が悪いと母が私に言った。
返せ。
私の高潔を返せ。
惨めな夢はいつ終わるの?全員死ね。私を置いて消えてしまえ。
どれだけ走っても行き着く先が崖しか無いというのならば、それは全部あんたのせいだ。
ヤメテ。
消えないで。私を置いてかないで。この話を終わらせないで。
脆い脚は崩れる以外の行動が出来ない。起き上がる勇気から目を背けて短い人生だと呟いて清々しく砂の様に消える理想を探している。
後ろからソレと思われる何かが背中を覆ったので怖くなって振り解いた。
「忘れたのですか」
変な感覚。金曜日の放課後に熱を出した様な、私のせいで酒に酔って首を吊ろうとしていた母を見た様な紫と黄色が脳みそを膜みたいに包み込んだ。
どれだけ掘り起こしても自己嫌悪しか湧き出ないというのに、ドリルの様な期待を頭に押し付けないで。
動悸が少しずつ激しくなって、どんどん激しくなって、どんどんどんどん激しくなって、どんどんどんどんどんどんどんどんどんどんドンドンドンドンドンドンドンドン激しくなってピタリ
と止まった。
呼吸が止まっていつの間にか私は立っていて、誰もいない無機質な光の差し込む色の止まった教室にいた。
1人だけれど誰かに見られている気がして、それがさらに孤独を深めた。
不意に黒板に耳を当てた。
そこから声が聞こえた気がしたから。
しかしどれだけそこに耳を押し付けても、そこからは何も聞こえない。
…だよね。
何か聞こえた。
「…私は彼女を愛しているの。片耳を切り落とされた子犬の様な初な心を持ち合わせている私は本当に愛しているの。ヤマオリにしたい。彼女の頂上って何でも見えるのよ。ツツジの花が良く見えるの。でも彼女はツツジを汚れと呼んで切り取ってそのまま闇に捨てるの。捨てて隠して、残ったピンクを手首の傷に見立てるの。彼女は海も飼ってるの。海と海亀を飼っているの。でも彼女は亀を嫌ってビニール袋を食べさせて窒息させて、残った高羅を胸に押し付けて涙を流すの。彼女の瞳に映った雀っていつも綺麗。でも彼女はそれが嫌だから目を潰して、流れた血で烏の絵を描くの。ねえねえ聞いて。それでもね、それでもね、私は彼女を愛しているの。牢の床で大の字になっている彼女の顔に思いっきりビンタをしてやる。分解した目覚まし時計には明日はないけれど、そこに雨水が落ちれば夢が見れるでしょ。抱きしめても抱きしめ返してくれないのならばそれはぬいぐるみと一緒なんだから。」
黒板の向こうから聞こえたそれは、明らかに私に対する悪口だった。
許せない。絶対に許せない。
両手の小指の骨が折れる勢いで黒板を叩いた。
クソ野郎。殺してやる。私を馬鹿にして笑いを取っていた事を後悔させてやる。
私はズカズカと大量の、つぶらな瞳をしたソレを押し退けて黒板の向こうへ向かった。
黒板の向こう。私を貶したあいつがいる黒板の向こう。そこには忘れたはずの目の前の線路が見えた。
あっと声が出て、私は陽を浴びた吸血鬼の様に苦しげに喘いだ。
太陽が明るくて仕方がない。明るい太陽はきっと私の事が嫌いだ。だから今日は雨が良かった。私を見届けてくれるのは雨と夜空であって欲しかった。
地平線と青のコントラストが私の頭を切り落とす様な幻覚。
何も知らないお日様は行かないでと刃の隠れた左手で私を支えた。
やめてくれ。アンタのそこが嫌いなんだ。
大丈夫と言えば誰もが涙を流して喜んでくれるとそう信じ切っているから嫌いなんだ。その銃口を私に向けないで。黙って消えてください。
その思いを紳士の様にしまい込んでいる私自身が大嫌いなんだ。
目頭が熱いのはきっと太陽のせいだ。
時が止まっているのに、塩辛い温水だけが音も無く普通に落ちた。
そういうものなのか。はたまた私の想像の産物なのか。
私はいつまでこれを続けているのか。
突然、黄色い雲が私の喉に詰まった。止める人がいない筈なのに私の声が止まったのだ。背景と思われた淡い水色がそっと胸に手を当てた。
誰かがそこにいる気がした。何も言わずに側にいる何かを誰かと感じた。
バットエンドの軌道修正を求めた声の聞こえない誰かを愛と感じた。
涙が背中に落ちた。これは私の世界では無く、陽の迫る明らかな現実だったというのに、何故私の背中に涙が落ちたのか。
「大丈夫だよ。ごめんね。」
自然と口から溢れ出た声は私の嫌った嘘じゃ無い。
もう大丈夫なんだ。大丈夫なんだ。大丈夫。
太陽が少し楽になり、自然と体が暖かくなった。今なら私は前に進める。
自分からドアを開ける事が出来る。
大丈夫。時を信じて。少し大きめの深呼吸をして、後ろのソレに話しかけた。
「ねぇ、」
急に騒音が響き、少女の身体が黄色い線の上に膝から崩れ落ちた。
その瞬間、少女の目の前がもの凄い速さで通り過ぎる大きな電車の流れる車体でいっぱいになった。
電車が全て通り過ぎ少女はしばらく呆然とした後、駅の騒音の中に今にも呑み込まれてしまいそうな細い身体を起こして、ずっと右手に握り締めていたストラップを床に叩きつけた。
「また死ねなかった。」